31、夢でも許されないことなの?
検査の結果、脳に深刻な異常はなかったが、顔や足が皮下血種だらけで、特に左側頭部は大きな腫れになっていた。患部を冷やし、咲桜が目覚めないので、とりあえず一晩、入院の手続きをした。
深夜、龍一と凛子は家へ帰り、玲奈と翔が病院に残った。玲奈は翔と夜を過ごせて嬉しそうで、付添用の咲桜の隣のベッドに執拗に誘った。しかし、翔は頑なに玲奈の肌に振れることを避けたのだ。そのうち、玲奈も疲れて眠ってしまった。
咲桜が目を覚ました時、左手の指に温かい何かを感じていた。
咲桜はベッドに仰向けに寝ていた。暗いが、ほのかな明かりがついていて、目を凝らすと、カーテンに仕切られた空間にいることが分かる。左手を見ると、誰かの指が咲桜の指に絡みついている。手を握るその誰かは、咲桜の腰のあたりの布団の上に頬を着けて眠っている。
「キャッ」
と咲桜は思わず発してしまい、口をつぐんだ。
そして咲桜に顔を向けて眠る男の横顔を見つめながら、考えた。
これは、夢よね? そうよね? じゃなきゃ、こんなこと、ありえないし、許されるはずがない・・ああ、そうだわ・・これは夢だ・・夢に違いない・・でも、そうよ、夢なら、これは許されることよね? 夢なら、しょうと、手を握っても、許されるよね? ああ、そうよ、今だけ、せめて、今だけ、幸せでいられるのなら・・・
指から命の温かさが伝わってくる。指から、真っ赤な血潮が流れ出し、咲桜の全身を熱くする。
ああ、これは、そう、七年ぶりの幸せだ・・たとえ夢でも、この手のひらの温かさをずっと忘れずにいれば、これからも生きていけそう・・しょう、しょう、たったひとりの愛しい人、あたし、これから、しょうとれなの幸せをずっと願って生きていくね・・そうするって、心に誓ったの・・でも、今だけ、そうよ、今だけでいい、こうしていさせて・・夢なら、許されるよね?
翔の寝息が聞こえる。それだけで咲桜の胸は震えてしまう。
ゆっくり、ゆっくり、身体をずらし、寝息の近くへ咲桜は顔を近づけていく。そうせずにはいられないのだ。
咲桜が愛した顔が、今、すぐそこにある。咲桜が愛した髪の匂いが、今、心に染み入ってくる。
夜の底で時が濃密に流れ、ある思いが、咲桜の胸を熱くする。それは儚い欲望。七年前にできなかった、とてもとても大事なこと。
夢なら、許されるよね? 夢でも、許されないことなの?
ゆっくり、ゆっくり、身体をずらし、寝息のさらに近くへ、顔を近づける。咲桜の瞳は丸く広がり、夜行性の肉食獣の眼となった。
翔の匂いが咲桜を包み込むと、胸から心臓が飛び出しそうなくらい高鳴って、息ができなくなる。胸から心臓が飛び出して、ドックンドックン叫びながら宙を舞いそうだ。
もう翔の顔が目の前だ。
ああ、もし今しょうが目を開いたら、どうしよう? でも、これは、夢なんだよね? ああ、でも、こんなこと、夢でも許されないの?
ゆっくり、ゆっくり、顔と顔を近づけた。もうあと数センチだ。なのにそれはとてつもなく遠い数センチ。決して超えられなかった、遥かな別世界への数センチ。
ああ、だめ、これは夢でも許されないことなの・・だから、絶対に、だめなのに・・ごめんなさい、それでも、もう、止められない・・・
ゆっくり、ゆっくり、唇と唇を近づけた。わずかに開いた翔の唇に、咲桜のふくよかな唇が触れた。その瞬間、咲桜は全身燃え上がった。
ああ、何? 何、これ? 夢なのに、本当に触れている・・あたしと、しょう、唇でつながっている・・あたしと、しょう、唇でひとつになった・・ああ、これが、幸せというものなのね? ああ、もう、このまま死んでもいい・・だけど、ああ、あたし、たとえ夢でも、この瞬間を、永遠に胸にとどめて生きていくわ・・・
世界がゆっくり回った。暗い夜の底なのに、バラ色に回った。ただ軽く触れるだけのキスなのに、咲桜にとって初めてのキスは、身も魂も燃やして焦がす深い口づけだった。全身がぶるぶる震えそうで、顔も唇もぶるぶる震えそうで、それを翔に気づかれぬよう、命懸けで耐えた。
長い長い口づけの後、咲桜は逃げるように身体を元いた位置に戻した。胸の鼓動は怖いほど高鳴ったままだった。瞳の焦点は翔に釘付けのままだ。指と指は熱くつながったままだ。全身も仰け反りそうなくらい火照ったままだ。
しょう、しょう、ああ、愛してるって、何万回叫んでも足りないよ・・ああ、こんなに愛してるのに・・しょう、しょう・・・
と心で呼びかけながら、咲桜は幸せそうに翔の寝顔を見つめ続けた。
日曜の朝、翔が目覚めると、咲桜は相変わらず意識を失ったままに見えた。
彼を呼ぶ声に、翔は咲桜の手を放し、ベッドを囲んでいるカーテンを開いた。
「あ、おはよう、しょう、お姉ちゃん、目覚めた?」
と付添用のベッドに座った玲奈が言う。
翔は首を振った。
「何で目覚めないんだろう? やっぱり昨日の試合で、頭を蹴られたから、脳にひどいダメージを受けたんじゃないか?」
「でも、検査の結果は、脳に異常なし、だったのよ」
と玲奈は眉をひそめて言う。
翔は心配そうだ。
「今日の部活、どうしようか? おれ、部活、休もうか?」
玲奈は不機嫌な声で言う。
「顧問が休んで、どうするのよ? お姉ちゃんが目覚めるまで、わたしが付き添ってるから、先生は、準備しなよ。それに、どうして先生が、お姉ちゃんをそんなに心配するの? 昔、仲が良かったのは知ってるけど、昨日のお姉ちゃんの言葉、忘れてないよね? 先生の顔、見たくもないって言ってたのよ。先生がいたら、お姉ちゃん、元気になれないかもしれないじゃん」
翔は玲奈の目をじっと見つめて問う。
「おまえも、そう思う?」
「そうって?」
「さくらは、おれのこと、恨んでると、思う? 本当に、おれの顔なんて、少しも見たくないって、思う?」
玲奈は、翔の目を深く見返した。
「お姉ちゃんは、わたしと正反対で、嘘は言えない人よ」
翔は窓の外の雲の合間の空の青に視線を移した。
やがてぽつりとつぶやいた。
「そうだね・・さくらは、少女の頃から嘘がつけなかった・・」
そして心でこう付け加えた。
自分自身のためには、嘘がつけなかった・・そして、誰かを傷つける嘘はつけなかったんだ・・ばかみたいに、真っ直ぐな娘だった・・・
次に咲桜が目覚めたのは、午前十一時過ぎだった。
女医が頭部や足の皮下血種を治療している時に目を覚ましたのだ。
「痛みはどうですか?」
と女医に問われ、近くに妹がいたので、
「痛くないです」
と咲桜は答えた。
咲桜は噓つきだ。
女医が去った後、咲桜は、
「ねえ、れな、ここで、あたしの付き添い、れなだけだよね?」
と妹の顔を見ずに尋ねた。顔を見れなかったのだ。
「あたりまえじゃない。どうして?」
と玲奈は言う。
それでやっと顔を見れた。
「ううん、何でない」
と笑う。
「もしや・・」
妹の瞳が迫ってくる。
「変な夢でも見たの?」
玲奈の鋭いまなざしに、咲桜はやっぱり顔を背け、
「まさかあ。夢なんて、見てない見てない」
頬が紅くなるのを見られるのが痛くて、ベッドに寝転んで背を向けた。
咲桜は悲しいくらい嘘つきだ。どうしようもなく、頭から布団をかぶった。
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