30、天国まで蹴り上げ、地獄へと叩き落とす

 聞こえる、聞こえる、あたしを呼ぶしょうの声が・・・

 そう咲桜の心が叫んでいた。

 そうだ、あたし、試合をやってるんだ・・命懸けのキックボクシングの試合を・・絶対に負けられない戦いを・・それに、しょうにぶざまな姿は見せられないじゃないか・・・

 レフリーがエイトカウントを数えた時、咲桜はたぐいまれな運動能力でブリッジから跳ね上がって立った。

 レフリーが「うおっ」と驚いてカウントを止めた。

「ファイト」

 のレフリーのコールで、再びスワーケムが襲いかかって来た。

 咲桜はすかさず左のローキックを蹴り出した。

 するとスワーケムは目の色を変えて身体を引いた。

 ああ、そうか、このこ、やっぱりあたしの三日月蹴りを警戒してるんだ・・・

 と咲桜は思った。

 それでもスワーケムはすこし油断したのか、咲桜のムチのように伸びてくるローキックの足先が脛をかすった。かすっただけなのに、尋常ではない痛みがスワーケムの足先から脳天にビリッと走ったのだ。少女のようなスワーケムの表情が、険しい阿修羅に急変した。咲桜の追撃の右ローキックをさらに身体を引いてかわすと、一瞬で前に踏み込んで左の横蹴りを突き上げた。首に刺さってくる足先を、咲桜はぎりぎりスウェイして避けたが、スワーケムの足先はそこからスクリューのようにグワンと回転して、硬いかかとが頬を打ち砕いた。頭に火花が散った。

 何だ、これは・・・

 と胸で叫びながら、咲桜は大きく後ろによろめいた。

 チャンスとばかりスワーケムは前へ出て左右のワンツーパンチを放った。

 今度は咲桜は両手のグローブで強固にガードした。しかし左足に強烈な痛みを覚えた。右のローキックをもろに食らったのだ。それだけでは終わらず、肉弾が飛び込んで来るのがグローブの隙間から見えた。飛び膝蹴りだ。左膝が両肘の間から突き上げて来るのを必死にステップバックして避けようとしたが、背中にリングロープが当たってしまった。それでも左膝は数ミリ届かず、命拾いをしたと思った瞬間、ロープに背を押し戻され、顎に岩のような膝が激突した。飛び膝二段蹴りの右膝が追撃したのだ。

 顎を撃たれたのに、脳の中心がゴンッっと衝撃音を発していた。その瞬間、膝がガクッと折れていた。それでも何とかこらえ、目の前の顔面へ左ジャブを返していた。それがきれいに顎に決まったのに、相手が左右のフックを撃ってくるので、咲桜は左ジャブ三連打を浴びせながら避けた。ついにスワーケムはリング中央へ跳ぶように下がった。咲桜の左ジャブは、信じられないほど速いのだ。

 スワーケムは得意の蹴り技で勝負しようと、咲桜が距離を詰めるタイミングで、前蹴りや横蹴りを胸へ連射した。

 だったら、肉を切らせて骨を断ってやる・・・

 そう決心し、咲桜はスワーケムの左前蹴りと同時に左ローキックを右足へフルスイングした。スワーケムの足が先に咲桜の鼻と左目をを直撃し、後方へ突き飛ばされた咲桜の足はわずかに届かなかった。咲桜の顔は右へと蹴り曲げられ、蹴られた左目の視界が一瞬奪われた。だからチャンスを逃すものかと前に踏み込んだスワーケムの右回し蹴りがまったく見えなかった。

 バーン、と頭蓋を破裂させるような音が、咲桜の左側頭部を吹き飛ばした。

 観客たちの熱狂的叫び声がリングの周りに渦巻いた。

「ダウン」

 とレフリーが宣言して、咲桜は自分がキャンバスに沈んでしまったことを知った。

「ワン、ツー、スリー・・」

 と死の宣告のようなカウントが胸に突き刺さった。

 二度目のダウンだ・・ちゃんと立たなきゃレフリーストップで終わっちゃう・・負けられない・・死んでも負けられない試合なんだ・・・

 そう心で叫びながら、咲桜は顔を上げた。

 すると目の前の青コーナーの向こうに翔の声を再び聞いたのだ。

「さくらー、もう立つなー、殺されちゃうよ、さくらー」

 目と目が合った。

 咲桜の身体を稲妻のような怒りが突き上げた。

「ふざけんじゃねえ」

 と咲桜は怒鳴りつけていた。

 あたし、あんたのために、七年も刑務所に入ってたんだ・・父さんも母さんも失って、妹もひどい目に合わせたんだ・・・

 またエイトカウントで、飛び跳ねるように立った。

「きみ、大丈夫か?」

 とレフリーが目を覗き込んで問う。

 咲桜の頭は命の危険を訴えるように痺れていたが、目はゾッとするほど怒り狂っていた。

「よく見ときな。十秒以内に逆転してみせるぜ」

 と別人のような重低音の声で告知した。

 MEGUMIは二ラウンドでスワーケムに勝った・・なら、あたしは、一ラウンドでKOする・・・

 咲桜の表情は、人間を捨てた怪物の顔に劇変していた。心の奥底から、闘神の熱い血がぐつぐつ沸騰し、全身を駆け巡り、手足の筋肉をヒクヒク震わせていた。頬の痛みも、足の痛みも、顎の痛みも、目鼻の痛みも、吹き飛んでいたが、左側頭部だけがグワングワン鳴っていた。

「ファイト」

 のレフリーのコールで、スワーケムがトドメを刺そうと突進して来たが、咲桜も猛然と正面衝突して行った。

 そして咲桜は襲い来るパンチを避けながら、左のローキックを左のふくらはぎへぶち込んだ。バチッと衝撃的すぎる音が会場に響き、観衆から驚愕の声が漏れた。その破壊力に驚いたスワーケムは、咲桜の右、左、右と追撃してくる嵐のようなローキックを、懸命にバックステップでかわした。それでもロープに詰まって、五発目をまた左足に被弾した。激痛に頬が引き攣った。

 逃げられない・・・

 とスワーケムは思い、前へ動いて抱き着こうとした。

 今だ・・・

 と咲桜の胸が叫んでいた。

 龍一の作戦通り、ローキックを連打して、そろそろ三日月蹴りを放つというタイミングで、アッパーキックからのかかと落としを撃ち込む。その練習を毎日繰り返してきた。それを放つ時が、今、来たのだ。

 相手の首を天国まで蹴り上げ、脳天を地獄へと叩き落とす・・・

 疾風のように素早く下がり、

「うおおおお」

 と狂った獣のように吼えながら、七十メートルキックの勢いで左足を蹴り上げた。

 三日月蹴りだあ・・・

 とスワーケムは心で叫び、前へ行きかけていた身体を反射的に下げながら右肘を下げて急所の肝臓を守った。しかし咲桜の長い足は、スワーケムの肘を擦り抜け、赤いグローブを撥ね退け、首元に突き刺さって来たのだ。親指の内側が喉に食い込み、そのまま顎も突き上げた。脳が空中分解するように激震し、一瞬呼吸も止まった。それでも突き上げられた顎を必死に下げ戻して、格闘家の本能で敵を睨んだ。彼女の目には、咲桜の顔が妖怪のようにゆがんで見えた。だが、それだけではなかったのだ。高々と真上に蹴り上げられた足のかかとが、反転してスワーケムの頭にギロチンのように落ちて来たのだ。

 ゴンッ、と頭蓋から鈍い音が脳にめり込み、一瞬で世界が赤黒く変色し、斜めに回った。

 白目を剥いて倒れかかるスワーケムの首を、さらに咲桜の右足のアッパーキックが蹴り上げた。

「うおおおりゃああ」

 と火を噴くような恐ろしい叫び声が咲桜から発せられていた。

 危険を察知したレフリーが、二人の間に割って入り、意識の飛んだスワーケムを抱いて一緒にキャンバスに倒れ込んだ。

 驚きの叫び声が会場に爆発していた。

「うわあ、何だあ、今のは?」

 というようなことを、観客たちは口々に発していた。

 彼らが今まさに目撃したのは、熊をも倒す必殺技、人間が食らってはいけない戦慄の必殺技だったのだ。

 スワーケムの陣営がリングに駆け上がり、烈しく胸を上下させるだけの娘を介抱した。そして慌ただしく担架で運んで行った。

 レフリーが咲桜の右手を高く上げ、リングに上ったアナウンサーがマイクを使って、宣言した。

「勝者、刑務所帰りのダークヒーロー、寒い冬にも咲く桜、さーくーらー」

 観衆の拍手喝采の中、アナウンサーは咲桜にマイクでインタビューをした。

「まだプロ二戦目なのに、元K1チャンピオンを一ラウンドでKO勝利。これで大晦日K1決戦への出場を決められました。今のお気持ちをお聞かせください」

 咲桜はマイクを受け取ると、観衆に一礼し、頬を紅くしてしゃべった。

「えーと、さくらです。まず、行く当てのなかったあたしを拾ってくれて、この試合に出させてくれた、【DARK LIGHT】の堀田龍一さんと山本凛子さんに、心から感謝します。ありがとうございます。そして、あたし、今日のこの勝利を、あたしみたいにどん底でもがいてるすべての人たちに捧げます。あたしみたいに生きていける場所がなくても、誰かのために死ぬ気で頑張れば、真っ暗闇にもいつか光が差すことを、一か月後の大晦日の決戦でも、あたし、必ず証明してみせます。あたし、あたしのせいで両親を失って悲しい思いをさせた妹のために、勝たなきゃいけないから。死んでも勝たなきゃいけないから。あたしみたいな前科者が、応援お願いします、なんて言えはしないけど、もしよければ、大晦日、K1決戦を観てください」

 咲桜はマイクをリングアナウンサーに返すと、四方に礼をして、リングを降りた。

 青コーナーのリング下で、龍一が言った。

「ひでえ試合だったけど、今宵も、しゃべりはなかなかだな」

 咲桜は龍一を見ずに頭を下げ、控室へと足早に歩いた。龍一の向こうの翔と目が合うのを避けたのだ。

 観客たちが手を差し伸べ、

「おれは応援してるよ」

 だとか、

「さくら、最高」

 だとか、

「次もがんばって」

 とか、声をかけてくれた。

 咲桜は、

「ありがとうございます」

 と繰り返し、彼らの手に軽く指をタッチしながら退場して行った。

 選手入場口を出て、控室の前まで来た時、翔がバタバタ咲桜の前へ駈け込んだ。

「さくら、おれだよ。下川しょうだよ」

 咲桜の行く手を阻み、叫ぶように目の奥を見つめてくる。

 後ろから玲奈が驚きの声を上げた。

「下川しょう? 山上先生、どういうこと?」

 翔は咲桜から視線を動かさない。

「事情があって、名字を変えたんだ。ねえ、さくら、覚えてるよね?」

「下川しょう? 誰だよ? 知らないねえ」

 と咲桜はぶっきらぼうに言う。

 翔の目は狂いそうなくらい必死だ。

「まさか・・中学の時から高校一年の秋まで、ずっと一緒に走ったし、ずっと一緒に学校へ行ったじゃないか。おれだよ、下川しょうだよ」

 咲桜は顔をこわばらせた。

「ああ、今、思い出した。そういや、昔、あたしを捨てて、黙って消えた裏切り野郎がいたねえ。そんなやつの顔、二度と見たくないんだけどねえ」

 玲奈が甲高い声を出した。

「えっ? えっ? 山上先生、あの、下川お兄ちゃん、だったの? こんなことってある? どうして?」

「れな、おまえは、あのちっちゃい安藤れなちゃん、だったんだね? こんなに大きくなったんだね」

 と翔は玲奈を見て言う。

 玲奈は頬を燃やし、瞳を潤ませて言う。

「ああ、大好きだった下川お兄ちゃん・・・だから、わたし、しょうに一目ぼれしたんだね。これがわたしたちの運命なんだね」

 咲桜が翔の肩を押し退けて言う。

「ちょっと、どいてくれないかな? あたし、あんたの顔を、一秒だって見ていたくないし、試合で疲れてるんだ」

 咲桜は選手控室のドアを開け、翔のさらなる呼びかけに振り返ることなく入って行った。

 すぐにロッカーから着替えを持ち出し、シャワールームに入った。

 そして水量を最大にし、頭から湯を浴びながら泣いた。

 ほんとは、ずっとずっと会いたかったんだよう・・・

 外に聞こえないように、声を押し殺して泣いた。

 ほんとは、いつもいつも、しょうの顔を見ていたいんだよう・・七年間、どんなに辛くて死にたくても、しょうがいるから生きて来たんだよう・・・

 胸が痛すぎて、苦しすぎて、湯の中で倒れ込んだ。するとスワーケムに蹴られた左側頭部の痛みも、恐ろしく巨大な鉛のように圧しかかってきた。

 咲桜があまりに長くシャワールームから出て来ないし、名前を呼んでも返事がないので、不安に駆られた凛子がドアを開けて中を見た。

 裸体の咲桜が倒れている。

 凛子は湯を止め、膝をついて咲桜の肩を揺すった。それから胸に耳を当てた。意識を失っているが、呼吸はしてるし、鼓動も聞こえる。格闘が原因の失神なら、強い刺激は与えぬ方がよいだろう。

「救急車よ。すぐに救急車を呼んでえ」

 凛子の叫び声がシャワールームから響いた。











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