29、今度こそ本当の七年越しの再会なのに

「さくら、よく聞け。次の試合が決まったぞ。来週の土曜だ。この前の試合の、さくらのパフォーマンスが功を奏したんだよ。スター選手の三日月優を、三日月蹴り一発で仕留めたんだからな。その後の涙の告白も、多くの人の心を動かした・・」

 練習前、そう堀田龍一が咲桜に話しかけた。二十日鼠を見つけた猫のように目をギラギラ輝かせ、唾を飛ばしながら話し続けた。

「おまけに、新チャンピオンになったMEGUMIに、リングの上からマイクで挑戦状を叩きつけた。これにはおれもおったまげたね。おかげで、さくらの熱烈なファンもできたってわけだ。もちろん、殺人の罪で服役したさくらに、世間の目は冷酷だ。さくらを非難する言葉もネットに溢れてる。だけど、そんなの気にしてたら、一度過ちを犯した人々が、この世で生きる場所なんてなくなる。さくらはそういう人々の希望の星にならなきゃいけないんだ。さくらが注目しなきゃならないのは、百万人の非難中傷をぶつけるやつらじゃなくて、さくらが救うことができる、たったひとりのファンだ。さくらが努力を惜しまなければ、いつかその一人は、百人になり、千人になり、万人になっていくだろう。いや、すでにさくらの試合を、会場や、ネット放送で観た者たちの多くが、ファンになっている。そうでなければ、今度の試合のオファーはなかっただろう。なにせ、今度の対戦相手は、ついこの前まで世界チャンピオンだったスワーケムだ。その上、その試合に勝ったら、全国テレビ中継される年末大晦日の東京ドームKー1フェスティバルに参加できるんだ。こんなチャンス、もう二度とないかもしれないぜ。何としても勝つんだぞ」

 それを聞いて、咲桜の目も炎と化した。

「スワーケム? ああ、ほんとにスワーケムなの? めぐみさんが完璧に倒した相手に、あたし、死んでも負けられない」

 失恋で悲鳴をあげ続ける心の劇痛を、その対戦が少しでも忘れさせてくれればいい、と咲桜は思った。

 悲しみのあまり痩せこけ、減量の必要もないのが幸いだ。

「それで、今度の試合の作戦は?」

 と咲桜が問うと、龍一の細い目がさらにぎらついた。

「この前の試合を、相手陣営は研究してくるだろう。そして、三日月優を地獄に堕としたさくらの三日月蹴りを警戒し、対策もしてくるだろう。具体的には、さっと身体を引いたり、右肘でレバーをガードしたりだ。だからさくらは三日月蹴りを撃つ構えから、ローキックで相手の足を蹴り続けるんだ。そしていよいよレバーに蹴り込むというタイミングで、相手の頭を蹴り飛ばす左右のアッパーキックで仕留めるんだ。さくらの足は身長より高く蹴り上がる。その上、男子にも負けない破壊力だ。前蹴りと回し蹴りの中間の軌道で、サッカーボールを七十メートル蹴り飛ばすその威力で、相手の防御のグローブもろとも相手の首を天国まで蹴り上げるんだ。たとえかわされたとしても、返しのかかと落としで相手の脳天を地獄へと叩き落とす合わせ技まで練習するぞ」

「左右のアッパーキックからの、かかと落とし・・天国まで蹴り上げ、地獄へと叩き落とす・・この前言ってた、必殺技だね?」

「おうよ。今夜から、特訓だぞ。まずはスクワット百回からだ」


 龍一や凛子もゾッとするほど恐ろしい顔で、咲桜はトレーニングをやり、サンドバックを蹴り続け、ミット撃ちをやった。

 これまでの咲桜とは次元の違う凄まじさで龍一とスパーリングを行うと、龍一は殺意や狂気を感じて冷や汗にまみれるほどだった。恐ろしい顔・・・それは女を捨てた鬼の顔であり、人間を捨てた獣の顔でもあった。何が彼女をこれほど変えてしまったのか、龍一にも凛子にも咲桜の全身から噴き出る熱すぎる怒りしか見えず、心の奥底に隠された深い悲しみは知り得なかった。

「ちくしょう、ちくしょう・・」

 と悲鳴のような雄叫びを発して、咲桜はサンドバッグを殴り、蹴り続けた。

 やがてそれは言葉にもならず、

「うおお、うおお・・」

 という咆哮に変わった。

 人間を捨てた怪物の咆哮だった。


 そして、十一月最後の土曜日・・・

 電車とバスを乗り継ぎ、龍一と凛子とともに、咲桜は獅子龍ホールに入って行った。

 元アトム級チャンピオン、タイのアユータ・スワーケムは、日本でも人気の二十歳の攻撃的ファイターだ。キックの連射が得意で、これでもかこれでもかと、左右のキックを上下に撃ち続ける。だけどMEGUMIにはことごとく防御された。咲桜も同様の対策は練習済みだ。

「勝てば、大晦日、東京ドーム、生中継なのよ。有名になれるし、お金も入ってくる」

 と凛子が咲桜の手を握って鼓舞する。

「負けたら、恵さんにもまた負けたことになる。死んでも負けないよ」

 と咲桜も火を噴くように応える。

 その日も、男子のタイトルマッチがメインに組まれていることもあって、会場は満員だった。

 咲桜とスワーケムの試合は、第八試合目で、夕方六時の予定だ。

 

 

「しょう先生、もう日が暮れたじゃない。急がないと、お姉ちゃんの試合、始まっちゃうよ」

 とオレンジのハスラーの助手席の玲奈が言って、運転席の翔の腕を揺さぶる。

「だって、こんなに渋滞してるなんて・・」

 と翔は言う。

 車飽和の都会の道を、ノロノロ運転だ。

「裏道ないの? せっかくナビを買ったんだから、使いなよ」

「裏道かあ・・知らない道だよ」

「一か八かで、裏道行くしかないじゃない? 何のためにここまで来たのよ? 足で走った方が速いじゃない」

「分かった。一か八かだね」

 ナビの地図を拡大して、細い道へとハンドルを切った。

「えっ? ほんとに行くのね」

「うわっ、何だ、この道、細すぎないか?」

「この小さな車なら、行けるでしょ」

「行けるかも」

「行くしかないよ。お姉ちゃんに、空手部のコーチをお願いしたいんでしょ? 先生が何度もお願いしたら、お姉ちゃん、決心するかもよ。でも、この道、本当に獅子龍会館に続いてるの?」

「夢に出てきそうなイバラの道だな」

「イバラ? イバラなんてないじゃない」

「たとえだよ。えーい、すべての道は、獅子龍会館に通ず、だ」

「それもたとえ? 聞いたことあるような・・」

 未知の裏道をクネクネ曲がり、遠回りしながら三十分ほど進むと、大きな神社に行き着いた。神社に入り、駐車した。

「え? どうしてここに?」

 と問う玲奈に、翔は言う。

「ナビを見たら、獅子龍会館は、東へあと三キロだ。さっき、言ったよね・・足で走った方が速いって。三キロなら二十分以内に走れるよ。お姉さんの試合に、ぎりぎり間に合うよ。嫌かい?」

「うわあ、しょう先生、すてきよ。しょうと走れるだけで、わたし、幸せなんだから」

 玲奈はバッグから、凛子にもらっていた咲桜のセコンドの証明書を出し、ポケットに入れた。

 それから車を出て、翔と一緒に神社道を駆け出し、明かりの満ちた渋滞の国道に戻った。そして車より速く歩道を駆け続けた。

 


 咲桜は名前をコールされると、観客たちの拍手や声援の中、凛子が準備した【ダークヒーロー】という曲に合わせ、龍一と凛子に前後を挟まれ、リングに向かった。今日も、白い桜模様が入った紅のブラトップ、【咲桜】の白い文字が浮き立つ紅のショートパンツ姿だ。スラリと伸びた手足がスポットライトに追われ、息を吞むほど美しく映えた。

 青コーナーのリングの下へぎりぎり駆けつけた翔が、玲奈の耳に口を寄せ、問いかけた。

「あれ? 今、さくら、ってアナウンスされなかったか?」

 玲奈も翔の耳に口を寄せて答えた。

「お姉ちゃんよ。お姉ちゃん、さくら、って名なの」

「さくら、って? まさかね・・れなも、お姉さんも、浜岡って名字だよね? まさか、安藤、じゃないよね?」

「え? どうして、わたしたちの以前の名前、知ってるの?」

 首をひねる玲奈の目を、表情が一変した翔が食い入るように見つめた。

「え? え? もしかして、さくらという字は、咲く桜と書く、さくら?」 

「えー? どうして知ってるのよ?」

 翔の大きく見開いた瞳の奥を、玲奈も目を丸くして覗き込んだ。

 翔の目がみるみる潤んで、こらえ切れず背を向けた。

「え? しょう、どうしたの? あ、お姉ちゃんが来た」

 咲桜は青コーナーのリング下に、笑顔で手を振る娘を見た。

 玲奈だ。

 咲桜も笑って手を振った。

 そして目前まで近づいた時、玲奈の後ろの男性が振り向いたのが目に入り、幽霊に出くわしたかのような驚愕の目を見開いて、立ち止まったのだ。

 咲桜も翔も、涙をこらえるように見つめあい、ぷるぷる震えだした。

 立ち止まった咲桜にぶつかってしまった凛子が声をかけた。

「さくらちゃん、どうしたの? 早くリングに上がらなくちゃ」

 翔が叫ぶように声をかけた。

「さくら? さくら、なんだね?」

 玲奈が翔と咲桜を交互に見て問う。

「えっ? 二人は、知り合いなの? どうして?」

 咲桜は翔から顔をそらすと、逃げるようにリングに上がったが、震える足をロープに引っかけてしまい、キャンバスに転んでいた。そして目からポロポロ涙をこぼしながら立ち上がった。

 リングサイドのインターネット放送の解説者が、笑いをこらえながら、マイクにこう話した。

「リングに上がったとたん、こんなに派手に転ぶなんて、こんなの、初めて見ましたねえ。今日でまだ、プロ二戦目で、しかも相手がつい最近まで世界チャンピオンだったアユータ・スワーケムだから、よほど緊張してるんでしょうねえ。あれ、さくら選手、戦う前から泣いてるんですか? プロの戦いなのに、これも初めて見ましたねえ。これはひどい。おっ、注目のタイの格闘姫、スワーケムの登場ですね。タイでは国民的人気で、今や日本でもファンが多い選手ですね」

 赤コーナーのリングに、白地に金の龍の刺繡が光るスポーツブラとショートパンツ姿の色黒の選手が、さっそうと登場した。少女のように愛らしい笑顔で手を振るスワーケムに、会場が揺れるように沸いた。

 咲桜に青いグローブを着け、マウスピースを口に入れる時、龍一はこうアドバイスした。

「いいか、作戦通り、第一ラウンドは、MEGUMIと同じように徹底的に防御しながら、ジャブとローキックをできるだけ多く放つんだぞ」

 だけど彼の言葉は、咲桜の頭にこれっぽっちも入らなかった。

 レフリーが試合上の注意をしゃべってる時も、咲桜は涙をこぼしながら他のことを考えていたのだ。

 しょうは、あたしに気づいたのよね? 気づいてしまったのよね? ああ、どうしよう? どうしたらいい? れなに、何て言えばいいの? それより、何より、しょうは? しょうは、あたしを、どう思ってるの?

 心臓がバクバク鳴り、ゴングの音も上の空だった。

 スワーケムが獲物を仕留める肉食獣のように襲いかかってきた。

 あっ・・

 赤いグローブが顔面に突き刺さってくるのが、涙の向こうに見えた。咲桜は反射的にスウェイしていた。が、一発目が頬をかすめた直後、二発目がもう目の前に飛んできていた。

 バンッ、と脳に直接爆音が炸裂した。

 上半身が後方へ飛ばされ、足がついていかなかった。奈落へ突き落されるように白く光る世界が一瞬で回転し、ゴン、と頭がキャンバスに打ち付けられていた。ゴングから三秒以内のワンツーパンチで、咲桜はダウンしていたのだ。

 え? 何? 何? あたし、どうしちゃったの?

 咲桜の頭上でレフリーが指を動かしカウントしている。

 うわあ、うわあ、と悲鳴にも似た歓声の沸騰が、耳に響いている。だけど咲桜はその中に翔の声だけを聴く。

「さくらあ、さくらあ・・」

 と翔が叫んでいる。


 
















 




















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