27、死んだように眠れるの?
その日の夜遅く、咲桜はジムでのトレーニングを終え、ランニングで帰宅すると、すぐに布団を敷いて横になった。
トレーニング以外でも、今日一日でフルマラソンと同じくらいの距離を走ったのだ。もう疲れ切って、死んだように眠れるはずだ。
死んだように、眠ろう・・・
そう思ったのに、胸が痛すぎて、眠れない。
ああ、からだが真っ二つに割れて、心臓が破裂しそう・・・
泣いて、泣いて、失神するまで泣き狂えればいいのに、ベッドの上には妹がいる。この部屋を、涙の洪水で壊すことは許されない。天地がひっくり返ろうと、世界じゅうの神仏に裏切られようと、玲奈にだけは、泣声は隠し通さなければならないのだから。
それなのに、眠っていると思っていた玲奈が、ベッドから話しかけてきた。
「さくら、今日は、応援、ありがとね」
どうすればいい? 悲痛な声しか出なかったら・・・
咲桜は必死につれない声を装った。
「れな、近頃キモイよ。あんたがあたしに感謝するなんて・・・七年前の無邪気なれなに戻ったの?」
「はあ? もういい。ありがとうなんて、もう、一生言わないから」
すねた妹に、咲桜は精いっぱいやさしく告げた。
「でも、れなの才能、凄かったよ。れなは、もっともっと、強くなるよ。今日だって、れなが勝ってた」
玲奈の声がオクターブも高揚して咲桜に落ちて来た。
「でしょ? わたし、勝ってたよね? わたしだって、さくらと同じ、安藤のりみちとひなたの娘だもの、そりゃ、才能あるはず。今日は、最初にヘマして負けちゃったけど、今度あの相手に当たったら、どんな審判が見ても一方的に勝ってみせるよ」
咲桜は女優のように平静を演じ切れる気がした。
「だったら、土日、一緒にジムで練習しない? れなだったら、キックボクシングでも、すぐにプロになれるし、空手の試合の役にも立つよ、きっと」
「バカ言ってんじゃないよ、さくら、わたしがどうして空手部に入ったか、知ってるでしょ? 山上先生が顧問だからよ。他に理由なんてないんだから。それより、先生、言ってたよ。姉はわたしより空手が遥かに強いって教えたら、ぜひ、部活にコーチとして来てもらえないだろうかって。わたし、オーケー、て言ってあげたからね」
そう言われて、咲桜はヒステリックに言い返していた。
「あんた、何言ってんの? 人殺しのあたしが、教育現場に行くなんて、言語道断、狂気の沙汰だよ。いい? よく聞いて? 今後、あたしのこと、あの先生には、絶対、絶対、何も言っちゃだめだよ」
「どうして? 今日のさくら、変だったから、先生、いろいろ心配してくれてたんだよ」
「何で? 何で、あたしのことなんか・・」
咲桜の声がどこかに急に落ちて行ったかのように小さくなって、玲奈には聞き取れない。
「えっ? 何て?」
ベッドの上から身を乗り出して、玲奈が見下ろすと、咲桜は頭から布団をかぶっている。背を向けている気配だ。
「ねえ、今、何て言ったの?」
と玲奈は続けて聞く。
布団の闇が震えて見えた。
「ごめん、れな、あたし、今日、四十キロ以上走ったんだ。もう、死んだように眠るの。ごめんね」
姉のか細い声も震えて見える。
「お姉ちゃん、もしかして・・」
と呼びかけると、闇は吐息も漏れぬほど静止した。
「泣いてる?」
言葉が真っ直ぐすぎて、咲桜の真っ赤に膨れ上がった心臓に爪を立てる。
咲桜はひたすら背を向け布団を頭からかぶったまま、
「ばか、泣いてるわけ、ないでしょ。あたし、もう、死んだように眠るの。だからもう・・」
最後は声が裏返りそうで、言葉を途切れさせた。
もう、限界だ・・・
再び震えだした闇に照準を合わせ、玲奈はしゃべり続ける。
「分かったよ。これからわたしが言うことは、ただの独り言だから、気にせず、死んだように眠って。あのね、今日、わたしが最高の試合をしたから、山上先生、明日、こっそりプリンくれるって言うの。ウフッ、初めての贈り物よ。もう、この世は天国だわ。それでね、わたしも、こそっと、贈り物をしようと思うの。ねえ、何がいいと思う? ごめんね、わたしの質問など気にせず、死んだように眠っててね。わたしね、男の人が何をもらったら喜ぶか、たくさん経験したから、知ってんだ・・・やっぱりわたしの生下着よね。上下で三十万で買ってくれたおじさまもいたもん。キャー、どうしよう、山上先生、まだ若くて清純そうだから、白が好みかしら?」
玲奈は言葉を止め、姉の布団へ神経を研ぎ澄ませたが、寝息さえ感じられない。
死んだように、眠ったか・・・と思って、仰向けになり、玲奈が目を閉じた時、怒りを押し殺したような濁った咲桜の声が、ふいに闇を裂いた。
「だめよ、絶対、だめえ」
「え? 急に、何?」
「それが誰かに知れたら、先生、クビになっちゃう」
玲奈は上体を起こし、もう一度姉を見下ろした。
咲桜は相変わらず布団を頭からかぶっている。
「やだ、お姉ちゃん、心配してくれてるの? 大丈夫よ、わたし、秘密を守るのは、プロ中のプロなんだから。命を懸けて、先生を守るんだから」
「でも、下着なんて渡すとこ、誰かに見られたりしたら・・」
「そうね、お姉ちゃん、アドバイス、ありがとう」
「え? あ、分かって、くれたの?」
玲奈は姉の布団を見つめながら考えた。
さくら、ほんとに、死んだように眠りたいのかな?
と。
今の咲桜の緊迫した声には、そんなこと、微塵も感じられない。
もう一度、闇にしゃべり続けた。
「ねえ、お姉ちゃん、もうわたしの言葉なんか気にせず、死んだように眠ってていいからね。でも、やっぱり、男の人が一番欲しいのは、わたしの下着よりも、中身だよね? 生身の身体だよね? いま一番きれいに熟してるこの肉体だよね。一晩で、百万くれたおじさまもいたし。だから、わたしね、山上先生を、ここにこっそり家庭訪問させて、わたしを残らず食べてもらおうかな。いえ、だめね、先生、シャイだから、ちゃんと食べれないかも。その時は、プランBに切り替えて、わたしが先生を髪の毛から足の指先まで、全部食べちゃおう。わたしの凄腕のテクニックを駆使して、先生を魂まで食べちゃうわ。だから、ねえ、お姉ちゃん、今夜は死んだように眠って、明日、協力してね」
玲奈が見つめる闇は、またも不自然なほど動かなくなっていた。カーテンの隙間から差し込む透き通った月光のように静かだ。
今度こそ、眠ろう・・・
と思い、玲奈は枕に頬を埋め、目を閉じた。
わたしも、死んだように、眠ろう・・・
玲奈の意識が睡魔に吞まれそうになった時、突然、咲桜の苦しげな声が、再び闇に吐き出された。
「だめえ。絶対に、だめえ」
玲奈は火事で叩き起こされたみたいに、「うわっ」と上体を起こしていた。
「な? 何なの?」
と姉に言うが、今も亀のように布団を頭からかぶったままだ。
「だって、そんなことしたら、先生、絶対、クビになっちゃう。それどころか、二度と教員復帰できないよ」
と布団の中で言う。小さいが、必死の声だ。
布団に遮られた闇の内で、姉の瞳が大きく見開いているのを、玲奈は感じる。そしてその瞳は、尋常ではない。
「もう、死んだように眠るんじゃなかったの? さっき言ったでしょ・・わたし、秘密厳守のプロなんだから、絶対バレないようにするよ。いつか先生と結婚するためには、必要なことでしょ? って、ずっと刑務所にいたあんたにゃ、分からないか」
玲奈はそう言うと、バタンと上体を横たえた。さらにこう釘を刺した。
「わたしももう、死んだように眠るからね。もう、起こさんでよ」
そして目を閉じようとしたが、嗚咽のようなものが聞こえた気がして、耳を澄ませた。
さくらの布団が震えてる?
そう玲奈は直感し、目を凝らして見下ろすと、震えているようにも見える。
お姉ちゃん、もしかして・・・泣いてる?
と、もう一度だけ問いかけようとして、止めた。
聞いてはいけない・・・
と玲奈の中の何者かが忠告したのだ。
嗚咽のようなものは、ずっと玲奈の胸にチクチク刺さり続け、心の奥まで沁み込むと、いつしか深い夢の底まで流れ落ちていた。玲奈の夢の底では、姉はうおううおうと、生きることがこんなにつらいのかと、大声で泣き壊れていた。
」
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