26、何も、ない、から・・

 白の道着が観客席の階段を降りて来て、横を過ぎ、うつむく咲桜の前に立った。

「お姉ちゃん、いつも話してる山上先生だよ」

 と玲奈の声が耳元に響く。

 顔を上げない咲桜に、翔が挨拶する。

「初めまして、れなさんのクラスの担任で、空手部顧問の山上です」

 顔を見なくても分かる・・・翔の声だ、と咲桜の張り裂けそうな胸が叫ぶ。

 さなぎのようにピクピク微動するだけの咲桜を見て、玲奈が呼びかける。

「お姉ちゃん、どした? 気分、悪い?」

 咲桜は震えるように首を振った。うまく開かない唇から漏れ出たのは、苦しげな高すぎる声だ。

「れ、れなが、いつも、お世話になっています」

 帽子とサングラスとマスクで見えない顔は耳まで火照り、頭を下げてさらに見えなくする。

 それなのに、翔は「あれ?」と言って、咲桜の前にしゃがみ込んだのだ。

「その顔、見覚えが・・」

「あ?」

 咲桜の心臓が壊れそうなくらい爆打った。涙腺も決壊寸前で、やっと見返すことができた翔の顔がにじんでいる。マスクの下で息もできない唇を嚙んでいた。

 玲奈が無邪気に問う。

「あら、もしかして、二人、知り合い?」

 咲桜は、何か声に出したら泣声が溢れそうで、ただブルブル首を振っていた。全身から冷たい汗が浮き上がり、胸の痛みで倒れそうになっていた。

「あ、そうだ・・」

 と翔が思い出したという感じで言う。

「あなたは、おれが、車で道に迷って、この体育館の場所を尋ねた人でしょう? その服に、そのサングラス・・・ね? そうでしょ?」

 咲桜は小さくうなずいた。

 だめだ、もう、涙が止められない・・・

 と胸が叫んで、咲桜が背を向けようとした時、玲奈が言う。

「あっ、せんせ、水田先輩が試合に入りますよ。ほら、あそこ」

 と玲奈は体育館の中央あたりを指差す。

「あ、行かなくちゃ。失礼します」

 と告げて、翔は慌ただしく駆け上って行った。

 玲奈が咲桜の肩を叩いて言う。

「もう、さくら、不愛想すぎるよ。でも、山上先生、かっこいいでしょ? ねえ、あ、あれ? どうして?」

 サングラスとマスクの間にたまった涙が、マスクの前まで溢れて流れた。それに気づいた玲奈が、抵抗する力もない咲桜から無理やりサングラスを奪い取った。

「どうして、そんなに?」

 身体を引き攣らせ、絶叫しそうな声を必死で押し殺し、咲桜は泣いていた。

「お姉ちゃん、何があったのよ?」

 問いかけを続ける妹に、桜は首を振り続ける。

「な、うう、何も、ない、うう、うう、何も、ない、うう、から・・」

 何もないと言いながら、うう、うう、と声を殺しきれず泣き続ける。

「ご、ごめんね、うう、れなの、応援、に、来たのに、うう、うう・・」

 今にも卒倒しそうなくらい苦しむ姉の肩を、玲奈はやさしく抱いて見守っていた。


 咲桜が半年通った母校【修明学園】の絶対エース岩田綾乃と、玲奈は二回戦で戦った。磐田はインターハイでも全国上位に進出した選手だ。

 開始早々、岩田は玲奈を足払いで倒すと同時に突きを決め、3ポイントを先取した。だけどそれが玲奈の闘争心に火を付けた。玲奈は休むことなく、鬼のように連続攻撃し、九十秒後にはポイントで追いついていた。

 咲桜は自分の胸に開いた底知れぬ傷も忘れ、監督席の翔が何度も振り返りそうになるくらい大声で応援した。

 同点になってからの審判たちの判定は、第一シードの岩田に有利なものだった。鍛え抜かれた咲桜の目には、コンマ1秒以上玲奈の技の方が先に決まっているのに、何度も相打ちと判定された。磐田は逃げながらのカウンター狙いで、玲奈の猛攻をしのぎ切った。同点なので、先取した岩田綾乃の勝ちだ。


 観客席でしばらくうなだれていた咲桜は、体育館の時計を見て立ち上がった。

「れな、あんた、強くなれるよ。あたしも、今から走ってジムへ行けば、まだたくさん練習できる」

 とつぶやきながら、観客席の階段を上った。

 二階通路に出るところで、白い道着が行く手を遮った。咲桜が右へ避けようとすると、相手もそちらへ動き、ならばと左へ避けると同じく動いた。

「すいません」

 と言いながら、相手の顔を見ると、翔だ。

 軽く笑みを浮かべ、話しかけてくる。

「れなさん、凄いですね。全国トップクラスの選手相手に、互角に戦えるなんて」

「互角?」

 咲桜の声は、またも上ずっていた。

 それでも、濃いサングラスの奥から火を噴くように翔を見つめた。

「だって、3ポイントどうしの同点だったじゃないですか。凄いことですよ」

 と翔は目を輝かせて言う。

「勝ってたじゃない」

 咲桜の顔も声も微かに震えていて、怒ってるようにも感じられる。

「えっ?」

「後半、れなの突きや蹴りの方が、一瞬先に決まってたのに、ことごとく相打ちに判定された。本当は、れなの勝ちだったわ」

「もしかして、お姉さんも、空手を?」

 翔の目が、咲桜のサングラスの奥まで突き入ってくる。

「え? え? 何で?」

 咲桜の声が、急に小さくなった。

 翔の瞳はギラギラ咲桜を捕えて離さない。

「もし、そうなら・・・うちの高校の空手部に、コーチに来てもらえると、嬉しいんだけど」

 咲桜は首を横に振ろうとした。なのに体がうまく動かず、震えるばかりだ。

「あ、あたし、そんなこと、できる、人間じゃ、ないです」

 そう、聞き取りにくい小声で告げたが、周囲の声援にかき消され、翔には意味が届かない。

「えっ?」

 サングラスの奥を、そこに大切な何かが隠されているかのように、さらに覗き込む。すると、サングラスとマスクの間に少しだけ見える赤らんだ頬に、大粒の涙が微かに光った。翔の胸がなぜかナイフに刺されたみたいに痛んだ。その直後、目の前の女性は、翔の横の狭い隙間を抉じ開けるように上ったのだ。

 体と体が擦れ合ったとき、帽子が脱げ、彼女はとっさに手に取った。鼻先に黒髪が触れ、草原のように甘い彼女の汗の匂いを翔は嗅いでいた。目を見開いて、確かに嗅いでいた。

「えっ? あの・・」

 と呼び止める翔の声を無視して、二階の通路を出入り口へと彼女は駆けて行く。もう秋も深いというのに、半袖短パンの後ろ姿。服からスラリと伸びた、玲奈によく似た美しい手足。

 追いかけて、引き止めなくちゃ・・・

 と翔の胸が叫び声をあげていた。

 だけど、なぜそう思ったのか、自分でも理解できない。ただ胸に込み上げる何か熱いものが、そう叫び声をあげたのだ。

 それでも翔は身動きできず、人込みにまぎれまぎれの背中が小さくなっていくのを、ただ真っ直ぐ見つめるだけだった。

 

 
























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