25、七年ぶりの再会、二人は会えたの?

 咲桜のプロデビュー戦から一週間後の土曜日、今度は玲奈の空手の新人戦だ。

 県の予選で勝ち抜ければ、さらに上の大会へ進むことができるのだが、宮隈東高校は空手の弱小高校であり、部に入ったばかりの玲奈は、第一シードのパックに入れられていた。


 咲桜は、玲奈の応援のため、ジムでの練習を休む代わり、県大会の会場までの直線距離で片道約十五キロを、ランニングで向かった。かつて迷惑をかけた空手関係者に気づかれぬよう、マスクとサングラスをウエストポーチに忍ばせ、走った。もう涼しい季節なのにネイビーの半袖短パンで、昇り始めたまばゆい朝陽を目指し、できるだけ信号の少ない裏道などを通り、キックボクシングのステップなどもまじえて、軽快に走り続けた。

 走ることは、世界チャンピオンになったMEGUMIに近づくための近道だ・・今、遠回りすればするほど、近道だ・・・

 そう思いながら咲桜は走る。海田恵を追いかけながら走る。堀田ジムのリングで恵に負けたことが、咲桜を今日へと導き、明日へとつながるこの道を走らせているのだ。

「めぐみさん、あなたの後ろ姿が見えるよ。あたしにはあなたに勝つ自信がある。なぜって、あたし、あなたよりたくさん走り込む自信があるから・・」

 と咲桜は朝陽に吠えて走った。

「だから、きっと、追いつき、追い越すんだ」

 五キロも走ると、辺りはしだいに田舎になり、田圃道を選んで走った。さらに五キロ走ると、だんだん都会になってきた。土曜の朝でも車の量は増えていった。


 もうあと少しで目的地の鳴島総合体育館に着くという時、歩道を走っていると、咲桜の隣を一台の白いミニバンが並走した。

 やがて、助手席のガラスが開き、茶髪の男が声をかけてきた。

「あのさ、可愛いお姉さん、パシフィックホテル、知らない?」

 と尋ねる。

 可愛いのは知ってるけど、パシフィックホテルは知らないよ・・・

 と咲桜は心でつぶやき、

「あたし、この街の者ではないので」

 と応えて、首を振った。

 金髪男の顔を見やると、意外とイケメンだ。

 笑顔で誘いかけてくる。

「ねえ、元気なお姉さん、おれらと遊ぼうよ」

「そんなヒマない」

 と即座に告げ、あっち行けというふうに手を振った。

 彼女はもうプロの格闘家だ。一般人ともめごとなどご法度だ。

「好きなもの、何でも買ってあげるよ」

 と男はあきらめない。

 咲桜は、車が入れないアーケード街へと道を折れた。

「可愛いって、罪なのね」

 とつぶやいて、ポーチからマスクとサングラスを出して着けた。数年前から感染症が流行っているので、誰がマスクをしていても違和感はない。

 アーケード街を抜けると、もう五百メートル先に、体育館の屋根が見えた。まだ試合開始までは時間がある。

 走るのをやめ、そこまで歩くことにした。

 すると今度はオレンジの軽ワゴン車が彼女の隣でスピードを緩めた。運転席の窓が開き、二十代の男がまた話しかけてきた。

「すいません、鳴島総合体育館は、どこでしょうか?」

 と尋ねる。

 咲桜は体育館の方向を見たが、そこからは建物に遮られ、体育館の屋根は見えなかった。それに怪しい男にもう絡まれたくなかったので、

「あたし、この街の者ではないので」

 と言って、首を振った。

「あ、どうもすいませんでした」

 と男は頭を下げ、窓ガラスを閉じながら車を走らせた。

 ガラスが閉じていくそのわずかな時間、咲桜はサングラス越しに男の顔を見た。

 その瞬間、咲桜の心臓は強い電流に撃たれ、瞳は最大限に見開き、彼女の時間は凍りつきそうなくらいゆっくり流れたのだ。

 面長の丸顔にとび色の目・・・七年間忘れたことなどなかった唯一の人、翔だ。

 咲桜は車が去っても五秒ほど身動きできなかったが、

「しょう、しょう・・」

 とつぶやくと、ぶるっと身震いし、すでに突き当りの角を曲がりかけている車を追い、全力疾走した。邪魔なマスクとサングラスを外してポケットに入れ、飛ぶように駆けた。

「しょう、しょう・・」

 叫び声が、路地裏を迷走した。

 角を二つ曲がると、体育館の大きな屋根が前方に出現した。

 オレンジの軽ワゴン車もそれに気づいたようで、スピードを上げて直進した。

 そして門の中に入って行った。

 咲桜は命がけで走った。

 爆発しそうな胸の中で考えた。

 七年だよ。七年ぶりに、やっと会えるのよ・・・あたし、しょうのために、七年、刑務所に入ってたの・・・それでも、しょうがいつも心にいたから、七年、耐えれたの・・・でも、ほんとかな? ほんとに、今の人、しょうかな? 会いたい思いが強すぎて、似た人を見間違えたのかな?

 鳴島総合体育館の門の中へ駈け込んで、駐車場から体育館の階段へと歩いて行くたくさんの人を凝視した。

「あ、いた」

 咲桜の目が熱く潤んだ。

 後ろ姿の彼を追いかけて、猪突猛進、階段を上りかける瘦せ型なのにがっちりした肩を叩いていた。

「しょう」

 と泣きそうな声で呼びかけていた。

「えっ?」

 振り返った男は、二十歳くらいの、翔によく似た卵型の顔で大きな目の青年だった。

「あ、ごめんなさい。人違いでした」

 と咲桜は謝った。

 青年が首を傾げて昇って行くと、咲桜はその場にへたり込んでしまった。止まらない涙をシャツの袖でぬぐった。

「あたし、何をしてるのよ? 今日は、れなの応援に来たんだよ」

 そう自分に言い聞かせ、立ち上がって階段を上った。

 階段の上、体育館二階の出入り口の前に、空手着姿の玲奈を見つけた。

 玲奈はきょろきょろして、人込みの中、誰かを捜してるようだ。

「あのこ、あたしを迎えに?」

 そうつぶやいて、咲桜は手を振り、妹の名を呼ぼうとした。

 玲奈も手を振ったが、咲桜に対してではなかった。

「山上せんせー」

 と呼んで、階段を昇ってきた男に駆け寄り、腕に両手を巻きつけた。

 山上先生? れなの好きな人だ・・・

 と咲桜は思い、階段の途中で止まって、二人を見上げた。

 やさしく腕をほどく男を熱い目で見つめ、玲奈は言う。

「しょう先生、遅いよ。みんな、待ってるよ」

「ちょっと、道に迷ってね」

 と先生は弁解する。

 咲桜の胸がズキズキ騒いだ。

 しょう先生? まさか、下川しょう? そんなわけないよね・・山上先生って、確かに言ったわ・・でも、あの後ろ姿は、あああ・・・

 ポケットからマスクとサングラスを出して、もう一度顔を覆った。そして広い階段の端へ歩み、こそこそ昇って近づいた。そして玲奈の顧問の横顔を見た。

 まぎれもない、下川翔だ。

 どうして? 

 そう咲桜の心が叫んだ時、玲奈が彼女に気づいた。

「あっ、お姉ちゃん・・」

 と呼ぶ声に、咲桜はとっさに背を向けていた。

 そして気づいた時にはもう、階段を駆け下りていた。

「お姉ちゃん?」

 と翔は玲奈に尋ねた。

 玲奈は首を傾げ、

「ううん、人違いみたい。お姉ちゃん、今日、応援に来てくれるって言ってたの」

 と告げ、翔の腕を引いて体育館の中へ引いて行った。


 咲桜は階段の裏側の大きな段ボール箱が幾つか置いてある物陰に潜り込み、うずくまって咽び泣いていた。なぜ、こんなにも身体を震わせ、泣いているのか、彼女は知らなかった。心が、考えることを拒否していたから。

 それでも、十分も泣いて、頭の中の涙の洪水が引くと、咲桜は考えなければならなかった。

 玲奈の試合は、第一シードのパック、つまり開会式直後に始まるはずなのだ。

 れなは、あたしのプロデビュー戦、応援してくれた・・だから、あたしも、れなを応援しなくっちゃ・・・

 そう物陰で膝を抱いて考えた。

 それに、あたし、れなのためにできること、何でもするって、心に決めたんだ・・玲奈が好きな山上先生が、たとえしょうだったとしても、おかげでれなは高校へ行けるようになったんだ・・れなが先生を好きなら、それも応援しなくっちゃ・・でも、どうして? どうして先生がしょうなの? もしかして、これは夢? 会いたくて会いたくて、また、人違い? ああ、とにかく、もう、行かなくちゃ・・・

 咲桜のかたわらの段ボール箱の中に、たくさんの衣類のような物が入っていた。その上のつばの広いグレーの帽子が、彼女の目に留まった。女性用の帽子だ。

「あとで返すから、ごめんなさいね」

 と咲桜は言い、それを深々かぶって、日の当たる場所へ出た。

 帽子にマスクにサングラス、もう涼しい秋なのに半袖短パン・・・階段を昇る咲桜の姿には不協和音が匂っていた。


 広い体育館の観客席に咲桜が入って行って見下ろすと、すでに一番手前のマットに玲奈がいた。

 空手着に着替え、腕章を着けた翔も、下の監督席にいた。

 咲桜は翔の背中側へ走った。そして二階観客席の前の方まで降りている時、試合が始まった。

「れなあ、がんばれえ」

 と叫びながら、咲桜は一番前まで降り、フェンスの手すりを持って試合を見下ろした。

 監督席の翔が、ビクッと身震いして、後ろを振り向き、観客席を見上げた。

 咲桜は驚いて、とっさにしゃがみ、フェンスに身を隠した。

 あんた、何で後ろを向くのよ? 監督失格だよ・・・

 と咲桜は胸で訴えた。

 翔はどうして振り返ってしまったのか分からなかった。無意識に振り向いていたのだ。すぐに前に向き直り、試合に注目した。

 極真空手とは違い、選手は防具を着け、拳サポーターを着け、しかも寸止めが基本だ。

 第一シードのパックの試合の相手は、見るからに弱かった。咲桜の応援など必要なかった。玲奈の電光石火の中段蹴りも上段蹴りも面白いように決まり、一分弱で八ポイント以上の差がついて、玲奈の勝利が宣言された。

 玲奈は挨拶終了後、すぐに翔に駆け寄って手を握った。そして何やら言葉を交わした後、観客席を見上げた。

 咲桜は座席に腰を下ろし、おとなしくしていたが、何しろ帽子にマスクにサングラスで顔を隠していたので、ひときわ目立っていた。

 玲奈は翔の手を離し、小走りに出入口を出た。

 階段を駆け上り、二階の観客席へと回った。そして、異様な人物の前へと降りた。

 顔を覗き込み、

「やっぱり、さくらだ」

 と言って、頬にえくぼを浮かべる。

「気づいたのね」

 と咲桜は平気な声を装う。

「何で、そんなに顔、隠してるの?」

 と玲奈は問う。

「え?」

 と咲桜は言い、妹の耳にマスクを近づけ、小声で言い訳する。

「だって、あたし、訳あり、でしょ? 犯罪者だし、格闘技のプロにもなったし、あたしの母校の修明学園の監督とかもいるし、ね、分かるでしょ?」

 そう言ったのに、玲奈は上の廊下を歩いて来た翔を見つけると、手を振って呼びかけるのだ。

「山上せんせー」

 翔が見下ろすと、玲奈は咲桜を手のひらで指し示し、

「応援に来てくれた、お姉ちゃんでーす」

 と紹介する。

 身体が石像のように固まってしまった咲桜の心臓深く、降りて来る翔の足音が響いた。




































  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る