23、三日月蹴りの天才を三日月蹴りで地獄に堕とすの?

 十月半ばの金曜の夜、

「さくら、早く試合に出て、稼ぎたいって言ってたよな?」

 と龍一が練習前に話しかけて来た。細い目が意味深に光っている。

 咲桜も満月にも負けないくらい丸い顔を輝かせた。

「おうよ、前座でも、タイトルマッチでも、どんな試合でも出るよ」

「親父から連絡が来てな、堀田ジムの選手が一人、来週の試合に出れなくなったから、代わりにどうかってよ? 試合会場は、プロテストをやった、獅子龍ホールだ」

 そう言う龍一の腕を、咲桜は指跡が残るくらいひしとつかんでいた。

「来週かい? 絶対出る。相手が男だろうと、熊だろうがライオンだろうが宇宙人だろうが、絶対蹴り倒す。あたし、やっと、この拳と足で、稼げるんだよね?」

「稼ぎたきゃ、派手に勝ち続けて、タイトルも取って、ユーチューブもたくさん出して、ファンをたくさん作って、有名になって、CMにも出なくちゃね。来週の試合をその第一歩にするんだ」

 咲桜の輝く表情が、暗い雲に覆われるように曇った。

「でも、有名になったら、あたしの過去の殺人が、バレちまうじゃないか」

「どっちみち、いつかはバレるだろうよ。ならば、逆にこっちからバラしちゃえばいい。ユーチューブも使って、ダークヒーローを演じるんだ」

「ダークヒーロー? 悪役ってこと?」

「ヒーロー、あるいはヒロイン、なんだから、ちょっと違うぜ。いや、だいぶ違うかな・・・友達をイジメから救うために、学校一のツワモノ男子と空手技で決闘し、不運にも殺人罪で受刑囚となった女性が、両親も失ってしまった悲運の妹を学校へ行かせるために、キックボクシングで世界チャンピオンを目指す・・・これを公言して売り出せば、非難もたくさん浴びるだろうが、応援してくれるファンも少なくないはず。この世界、大切なのは、非難してくる一千万人じゃなくて、応援してくれる一万人なんだ」

 そう本気の目で言われて、咲桜は息を呑んだ。

 そして胸の中で、自分にこう言い聞かせていた。

 世界中があたしを非難しても、あたしは、ただ一人、あの人が、あたしを見つけてくれたら、それだけでいいよね。ただそれだけで・・・


 その日から、咲桜は夜の廃校で、サッカーボール蹴りを再開した。

「今度は、左足で七十メートル蹴り飛ばすまでやるんだ。さくらは、左足のキック力も女子の能力を遥かに超えている。蹴り方は右足と骨盤の動きを逆にやるだけ。そして今度は右肩甲骨を一瞬で引き、左肩甲骨を突き出す。そして骨盤の究極のパワーを引き出すんだ」

 そう龍一は指導した。

「左足でも七十メートル以上蹴れたら、あたし、ほんとにサッカー日本代表になれちゃうんじゃない」

 と咲桜は言った。

「さくらの運動能力があれば、冗談じゃなく、キックボクシングとサッカーの二刀流もできるはずさ」

 と龍一も言う。

「でもさ、サッカーと、空手やキックボクシングとじゃ、蹴り方、違ってないの?」

「だから、面白いんじゃないか。さくらは、すでに、空手の蹴り技は日本一取ったことあるんだろ? その上に、サッカーボールを七十メートル蹴り飛ばす威力の新技を開発するんだ。今回から、弾んでいるボールを高い打点で蹴り飛ばす練習だ。来週の土曜日の試合までに、左足でも七十メートル超えるんだぞ」

「今度は、左足のローキックで相手を粉砕するんだね?」

 咲桜の問いに、龍一は鋭い眼光で首を振った。

「今度の相手は、三日月優だ・・・【三日月優】というのは、三日月蹴りが得意だから付けたリングネームで、さくらと同じ、元極真空手日本一のファイターだ。まだ十九歳だが、必殺の三日月蹴りで、プロのリングでKOを繰り返して、ルックスもいいから、ファンがたくさんいる」

「三日月優・・・その娘の蹴りを防御するため、この蹴りを練習するのかい?」

 龍一はまた首を振る。

「まさか、そんなはずねえだろ。【三日月蹴りの天才】を、新しい爆裂三日月蹴りで地獄に堕とすためさ。そしてたったひと蹴りで、さくらは、派手にプロデビューして、スター選手への階段を駆け上って行くんだ。今回は、腹への蹴りだが、この先、左足でも右足でも、相手の防御のグローブの間から顎を蹴り上げる、新技のアッパーキックも開発するんだぞ」

 そう夢見るように言う龍一を見て、咲桜の顔にも輝きが戻った。

「新技のアッパーキック? うわあ、今すぐやりてえ」

「今度の試合は、三日月蹴りの天才を三日月蹴りで倒すことで、話題を集めるんだよ」


 咲桜は一週間、弾んでるボールを左足で蹴った。七十メートル超えを目指し、蹴って蹴って蹴りまくった。

 さらにジムに戻ると、スパーリングの後の筋トレに加え、龍一が咲桜のレバー付近を何度も殴り、打たれ強いボディを鍛えた。

 龍一が笑顔で腹を殴り続ける間、咲桜は大きな目でギラギラ相手を睨みつけながら叫び続けた。

「鬼、悪魔、サディスト、このサイコパス野郎があ。いつか百倍にして、やり返すからなあ・・・」



 そして、翌週の土曜日、電車とバスを乗り継ぎ、咲桜と龍一と凛子に、玲奈もついて来て、獅子龍ホールへ入って行った。

 今日は、十二試合目のメインイベントで女子の世界タイトルマッチが組まれてることもあって、約二千人収容の観客席は超満員だ。女子がメインになるのは珍しいが、挑戦者の女子高生ファイターMEGUMIが、【美少女すぎて、強すぎて】というキャッチフレーズで、テレビやネットでも人気絶大で、当日出場の男性ファイターの人気を遥かに超えていた。

 アマチュアの試合も含めて、男性の試合が十試合組まれ、その後に、タイトルマッチの前座として、MEGUMIと同じように人気を集めている三日月優の試合が行われるのだ。

  

 夜の八時、凛子が準備してくれた鮮やかな紅のブラトップとショートパンツを身にまとい、青のグローブをはめ、咲桜はリングに上がった。ブラトップには白い桜模様が幾つも刺繍され、ショートパンツには【咲桜】の白い文字が浮き立っていた。

「本日のセミファイナル、選手の紹介です・・」

 とリングアナウンサーがマイクで紹介した。

「青コーナー、この試合がプロデビュー戦、DARK LIGHT所属、友達をイジメから救おうとした不運の事件で女子刑務所に入り、服役中に両親を亡くし、社会復帰して悲運の妹を高校へ行かせるため世界タイトルを目指す、ダークヒーロー、暗い冬にも咲く桜、159センチ、47キロ、さー、くー、らー」

 リングサイドの龍一と凛子と玲奈と目を合わせ、うなずいた後、咲桜は観客に手を上げてみせた。会場の一部で拍手が起こった。マイクアナウンスの内容に興味を惹かれた観客もいたし、この会場で行われた咲桜のプロテストの鮮烈なローキック一発KOを覚えている格闘技ファンもいたのだ。

 リング上のアナウンサーが、声のボルテージを三倍増しに上げた。

「それでは、キックボクシングファンのみなさん、お待たせしましたあ。赤コーナー、キングドラゴン所属、今宵も三日月蹴りがいけにえの肝臓をえぐるのかあ、K-1リングで十戦全勝七KO、スーパー美少女戦士、みー、かー、づー、きー、ゆうー」

 リング上の優が赤いグローブを突き上げると、会場がユサユサ揺れるほどの拍手と歓声が沸騰した。

 優は銀に輝くブラトップとショートパンツだ。

 咲桜がショートカットの黒髪なのに対し、優は、美容師の巧みな技で、黒白ピンクの三色の長い髪を幾つも編み上げている。


 ゴングが鳴ると、周りから「ゆう、ゆう・・」という声援が巨大な砂嵐のように襲って来た。

 咲桜は、相手と同じオーソドックススタイルで、軽くステップを踏みながら、龍一の提言を心で思い返していた。

「いいか、今回も、左ジャブと右のローだけで戦うんだ。さくらのプロテストの内容は、おそらく相手の耳に入っているだろうから、右のローキックを警戒してくるだろう。相手の警戒を咲桜の右足に集中させて、相手の左足が襲ってくる瞬間を待て。最初の蹴りは、バックステップで避けろ。その時タイミングを見定めるんだ。そして相手の次の左足の蹴りに合わせ、左足の三日月蹴りを腹にぶち込め。相手の左の蹴りが、ローだろうと、ハイだろうと、決め技の三日月蹴りだろうと、相手の十倍の破壊力で蹴り飛ばすんだ」

 その龍一の言葉をイメージしながら、咲桜は相手の動きを凝視した。

 優は、まず左足でローキックを放ってきた。

 バックステップでかわしたが、予想以上のスピードの足先が、咲桜の左足の内側の脛にかすった。

 優がすぐに追いかけて左右のパンチを撃ち込もうとするので、咲桜は左ジャブで防御し、右のローを蹴り出した。骨盤と肩甲骨の回転を利用した七十メートルキックだ。

 思った通り、優は目の色を変えて左足を引き、ギリギリ避けた。それでも、蹴りの風切り音がビュウッと響き、観衆から悲鳴にも似たどよめきが沸き、優の心拍数を一気に上げさせた。

 優はこめかみから首筋に冷たい汗を感じながら考えた。

 あれをまともに食らったら、ケガしちまう・・・何としても、早めに決着を着けなくちゃ・・・でも、今、あいつ、蹴りを外された後、一瞬右脇に空きができたぞ。次、そのチャンスを逃したら負けだ。絶対仕留めてやる・・・さあ、もう一度だ。もう一度、蹴ってこい・・・

 優は蹴りを隠し、また左右のパンチを出しながら、咲桜のローキックを待った。そして十秒もたたず、その時はきた。咲桜が再び左ジャブから右のローキックを撃ってきたのだ。

 今だ・・・

 と優は心で叫び、一瞬で下がって蹴りをかわしてから、一転グイッと踏み込んだ。そして必殺技の左足を鋭く閃光させたのだ。

 来たあ・・・

 と咲桜の胸が叫び、バックステップしようとしたが、「間に合わない」と野生の本能が知らせ、キックの回転のままに必死で背を向けた。

 ズンッと鈍い音が背中の右端に食い込んだ。急所を逃れても、身体を突き抜けるような恐ろしい衝撃だ。

 観衆が興奮の声援を優に送った。

 咲桜はあからさまに痛い顔をしてみせた。もちろん怖いほど痛かったが、痛い顔は演技だ。

 なるはど、そういうことね・・・

 と咲桜は心で語りかけた。

 思った以上に速いタイミングなのね・・・

 優は今の蹴りで足先を少し痛めたが、痛がる余裕などないのは分かっていた。

 やるか、やられるか、真剣勝負の緊張に絞めつけられていた。

 今のは、効いたみたいだ。今だ、今がチャンスだ。チャンスを逃がしたら、負ける・・・今度こそ、絶対仕留める・・・

 そう自分に言い聞かせ、「ゆう、ゆう・・」の観客の大合唱の中、左右の高速パンチで咲桜に襲いかかった。

 咲桜は、もう一度、左ジャブから右のローキックを体勢が崩れぬようコンパクトに放ってみせた。

 一つ覚えの、アマちゃんね、これで終わりよ・・・

 と優は心で呼びかけながら、軽々と足を引いてかわし、またもすぐに踏み込んだ。

「オー」

 と叫びながら、左足の必殺三日月蹴りを咲桜の急所の肝臓へ撃ち込んだ。

 勝った・・・

 と優は思った。

 しかしその直前、咲桜の骨盤も激しく回転していたのだ。右肩甲骨と左肩甲骨の位置が一瞬で入れ替わり、彼女の左足も相手の腹部へ一直線に蹴り上げられていた。咲桜の渾身の蹴りは、信じ難いスピードと異次元の破壊力で優の肝臓より少し内側へ入り、左足の親指が肝臓と胃袋の間を突き破りそうなほど食い込んだ。

「ウオー」

 という絶叫も咲桜の口からほとばしっていた。

 二人の蹴りは、一瞬優の方が先に決まったのに、宙に突き上げられ、うつぶせにドーンと倒れたのは優だった。

 それを見て咲桜は拳を上げて喜ぼうとしたが、一秒もすると、胸が突き上げられるように呼吸が苦しくなり、手足が凍りついていた。立っているのがやっとで、ふらふらロープに下がって、マウスピースを吐き出し、ロープに背をもたれさせた。優の三日月蹴りが効いたのだ。この一週間、龍一にボディを殴られ鍛え続けていなかったら、咲桜もキャンバスに沈んで地獄の苦しみに堕ちていたことだろう。

 キャンバスでのたうち苦しむ優を見て、レフリーはすぐに試合を止めた。

 満員の観衆から悲鳴が上がったが、ニューヒーローの誕生に驚愕の拍手を贈る者たちもいた。

 奈落へ引きずり込まれそうな胸の苦しみの中、咲桜は全身にまとわりつく冷たい汗に包まれ、倒れまいと必死だった。

「さくらは、よくちびるんですう」

 という玲奈の声が脳裏に響いた。

 ちびるもんか・・・

 と咲桜は耐えた。

 だけどそれは幻聴だ。

「おい、さくら、ゆっくり深呼吸しろ。ゆっくりな」

 という現実の声に咲桜はハッとした。

 ロープにもたれかかる彼女は、いつの間にか龍一と凛子に身体を支えられていた。

 

 優がジムのトレーナーたちに抱えられて去った後、咲桜がリング上でヒーローインタビューを受けることとなった。

「見事、KO勝利のさくらさん、三日月蹴りのスペシャリストを、三日月蹴りで破るという、衝撃の結果でしたが、感想をお願いします」

 と男性のリングアナウンサーにマイクを向けられ、咲桜はパニクっていた。

 何しろ二千人の視線が自分に向けられているのだ。四千個の目玉を意識してしまうと、蹴られた痛みも息苦しさも吹き飛んで、ついでに頭の中も真っ白になってしまった。

「あ、あ、三日月優のファンの皆さま、あたしが、勝ってしまって、ごめんなさい。でも、あたし、勝たなきゃいけないんです」

 そう言いながら、頬に火が付き、しだいに燃え広がった。真っ白な頭の中も、真っ赤に炎上していった。

 アナウンサーは、青コーナーにいる玲奈を手で指して、質問した。

「勝たなきゃいけない、というのは、そちらにいる妹さんのためですよね?」

 インターネットに生配信のカメラが、自分に向けられるのを見た玲奈が、男たちを悩殺する初々しい笑顔で手を振った。

 咲桜は相変わらずカミカミでマイクにしゃべった。

「あ、あの、妹のれなは、何も悪くないのに、あたしが罪を犯したせいで、両親も失くし、つ、辛くて、暗い・・・な、何ていうか、学校も行かなくなって・・・あたし、れなにだけは、あたしが生きれなかった高校や大学の青春時代を、生きて欲しくて・・・それで、あたし、チャンピオンになって、お金を稼がなきゃ・・」

 アナウンサーは、笑顔で咲桜の胸奥の傷口に指を突っ込んで来た。

「その、さくらさんが犯した罪って、何ですか?」

「え? あ・・」

 咲桜の答を聞き逃すまいと、会場が水を打ったように静まり返ると、時間が止まりそうなくらいゆっくり流れた。

 心臓が痛いほど爆打ってるのに血の気が引いていく咲桜の額や頬や首筋に、暗い汗が呪縛するように湧き出ていた。

 観客の好奇の目、目、目が、彼女を呑み込んでいた。

「あ、あたし・・」

 ゆがむ唇を嚙む咲桜に、アナウンサーが問う。

「七年も、女子刑務所に入っていたんですよね?」

「え? あ、そう、あたし・・」

 四千個の目玉、目玉、目玉が、彼女を完全包囲していた。

 逃げ場のない咲桜は、ふいに膝から崩れ落ちた。

 苦しそうに顔をしかめ、打ち震え、

「あたし、ひ、人を、こ、こ、殺し、ましたあ」

 と胸の汚物を吐くように叫んでいた。

 そしてもう一度、

「あたし、人を、殺しましたあ」

 と告白すると、頭をキャンバスに擦り付け、苦悩のあまり死にそうな嗚咽をもらした。

 息を殺して見つめていた人々の間から、不穏なざわめきがふつふつ沸き出し始めた。














 








 

 



























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