20、百足 vs 怪物の足

 プロテストの一週間前から、龍一はサッカーボールを持って、咲桜をジムの近くの廃校に連れて行った。

 そして三十メートルほど離れた校舎の横のコンクリート目がけ、月明かりの下、サッカーボールを蹴らせた。

 鍛え抜かれた咲桜の蹴りのパワーは超人的で、ボールは直接壁に当たって戻って来た。

「あたし、サッカーでも日本代表になれるかも」

 と得意げに言う咲桜に、龍一は首を振った。

「いいか、足で蹴るんじゃない。骨盤で蹴るんだ。肩甲骨と骨盤を使って蹴れば、女子でも遠くまで蹴れるようになる。七十メートル以上ボールを蹴り飛ばせるまで、この練習を毎日続けるからな」

「はあ? 鬼、悪魔、サディスト、こんなか細い女子の足で、そんなに蹴り飛ばせるかよ」

「MEGUMIに勝ちたいなら、そんなか細い足を、骨盤の力で、怪物の足に変えるんだ」

「怪物の足? それがあれば、MEGUMIに勝てる?」

「そうだ、怪物の骨盤、怪物の足だ」

 その言葉が咲桜の胸に火をつけた。

 言われる通り、肩甲骨と骨盤の力を利用して、毎晩サッカーボールを蹴りまくったのだ。


 そして、プロテストの土曜日を迎えた。


「山本さん、そんなにきれいで、絶対モテるのに、どうしてあんなサディストで、見た目もパッとしない五十男と一緒にいるんですか?」

 と咲桜は凛子に質問した。

 筆記試験を終え、プロ相手のスパーリングを控えていた。

 龍一は今、トイレに行っている。

「サディストで、見た目もパッとしない五十男かあ。はっきり言うのね・・」

 と凛子は笑う。

「でも、りゅうちゃんは、わたしを救う代わりに刑務所に入ったの。あの人がいなかったら、わたし、ヤクザの女にされていたわ」

「わあ、すごいこと、聞いちゃった」

 目を丸くする咲桜に負けないくらい凛子も目を見開いた。

「でもね、そのヤクザのボスは、さくらさんの父の安藤典道さんとも、関わりが深かったのよ。そして、りゅうちゃんが服役中には、りゅうちゃんの親友だった典道さんもわたしを助けてくれてた。なのに安藤夫婦が自殺するなんて、信じられないことが起こった。だから、わたし、さくらさんには大きな借りがあるのよ」

「え? どういうことですか? そのヤクザのボスって、もしかして山田さだお?」

「さくらさん、知ってるのね? そう、山田さだおよ」

「山田さだお・・・あたしが殺してしまった山田すぐるのお父さん・・・そして、妹のれいが、まだ小学生の時、妹を襲った悪魔・・・だからあたし、あいつを・・」

 咲桜の言葉がトイレから戻った龍一の耳に入ったらしく、後ろから声をかけられた。

「おい、りんこ、昔の話はいっさいするなって言ったろ。さくら、今日の相手はプロだけど、本戦の前座を務める下位の選手だ。本気で世界チャンピオンを目指すのなら、左ジャブと、ローキックだけで二分以内に倒せ。今のお前なら、必ずできるはずだ」

 振り返って、龍一を見ると、怖いくらい真顔だ。

 凛子が言い返した。

「今日のスパーリングは、プロテストですよ。すべての技を見せたら、さくらさん、楽勝で合格できるのに。落ちたらどうするんですか?」

「リングに上がったら、十秒間のシャドウボクシングを、相手や審査委員に見せつけてやればいい。それだけでも、合格できるさ」

 凛子はさらに言い返そうとしたが、咲桜が先に言った。

「なるほどね。サッカー練習の謎が解けたよ。おもしろいね。あたし、相手の足を、七十メートル蹴り飛ばしてみせるよ」

「そのためには、どうしたらいい?」

 と聞く龍一の細い目が異様に光る。

「簡単さ。相手が右足でキックを撃ち出した瞬間、相手の左足はマットに着いている。あたしがその左足を蹴り飛ばせばいいんだ。相打ちになっても、あたしの蹴りのスピードと威力が勝てばいいんだ」

 龍一の獣の眼光が、咲桜の目にも乗り移っていた。


 プロの本戦の前座であっても、客はそこそこ入っていた。

 女子刑務所にいた七年間も、咲桜はトレーニングを怠らなかった。だからその努力が報われるこの瞬間を見てくれる客がいることが嬉しかった。

 リングに上がると、対戦相手のキックボクサーは、咲桜より年下に見えた。

「ごめんなさい、あなた、プロなんですよね?」

 と咲桜は話しかけていた。

「え? 何?」

 とムカデというヤバいリングネームの相手は眉をひそめた。

「プロなら、本気で戦ってくれませんか? お願いします」

 咲桜は頭を下げた。

「わたしがどうしてムカデと呼ばれてるか、知らないの? 後悔するよ」

 とムカデは睨みつけた。

 龍一が指示した派手なシャドウボクシングを、スパーリング前に咲桜はやらなかった。

 ゴングが鳴ると、咲桜は疾風のようにムカデに詰め寄った。

 咲桜もムカデもオーソドックススタイルだ。

 龍一から許された技は、左ジャブとローキックだけ。だけどそのことは、相手も審査委員も知らないのだ。技が限定されてるだけ、一撃で相手を倒さなくてはならない。でなければ、このプロテストには合格できないかもしれない。

 咲桜がピタッと固まって手を出さないまま十秒が過ぎると、観客の誰かが面白がって「ヒューヒュー」と囃し立てた。レフリーも「ファイト」と鼓舞した。

 するとムカデが挨拶代わりの左右のワンツーパンチを撃った。

 それをスウェイしながら、咲桜は左ジャブをムカデの鼻に突き刺した。

 パンッと乾いた音とともに、ムカデは尻もちをついていた。

 観客たちがリング上に注目した。

 すぐに立ち上がったので、レフリーは「スリップ」とコールしたが、ムカデの鼻から一筋の血が流れた。それを舐めて、ムカデの顔色が劇的に変わった。詰め寄る咲桜の前で前後左右変幻自在のステップを踏みながら左足をクネクネトと動かし、ローキック、返しの裏ローキック、ハイキックからの、返しの裏ハイキックと、四連発で放ってきた。まるで足が何本もあるように見える攻撃だ。

 咲桜は心で「凄い、凄い」と感心しながらも、バックステップやスウェーバックでギリギリかわした。そして、右足の蹴りが来るその一瞬を、研ぎ澄ました集中力で待った。ついにムカデの左足がマットに着き、右足が閃いた。

 今だあ・・

 咲桜の左足が踏み込まれ、左肩甲骨がギュッと引かれ、右肩甲骨が突き出された。それと連動して骨盤がドーンと回転し、「ウオー」という叫び声とともに右足がムカデの左脛を蹴り砕いていた。ガギィッという怖い音が響いた。

 ムカデの右足も咲桜の左手のグローブを蹴り、左頬までえぐりかけたが、その一瞬前にムカデの身体は宙に飛ばされていた。ムカデは左に回転し、左腰から落ちた直後、左側頭部をマットに激突させた。そして左脛の劇痛のあまり「イタイイタイ」と呻きながらのたうった。

 レフリーはすぐにスパーリングをストップさせ、ムカデを介抱した。

 観客が次々立ち上がり、【咲桜】というリングネームの怪物ルーキーを見つめ、拍手を贈った。


 

 














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