19、男を知りすぎた娘の初恋

 二学期が始まると、玲奈は新品の自転車と煌めく秋風に乗って、宮隈東高校へ登校した。

 苗字も姉に倣って浜岡に変更していた。

 浜岡玲奈・・・彼女の学生時代の再出発だ。

 だけど新しい高校生活へ飛び込むわけではないと、玲奈は思い知っていた。

 三棟一階の一年二組の教室に入るまでも、入った後も、生徒たちの視線やひそひそ話が、投げつけられる石のように痛かった。

【同級生を殺した殺人犯の妹】

【両親自殺の娘】

【パパ活の常習犯】

 ・・・・・・

決して剥がれぬレッテルは、世界中のどんな名札よりも大きく彼女に貼り付き、彼女を縛り付けているのだ。

 もちろん誰も彼女をいじめたりはしない。

 彼女のケンカの強さや、命知らずな無鉄砲さも、生徒たちの間では伝説となっているから。

 目と目が合ったら石にされるメデューサのように、ただひたすら避けられるだけだ。

「それでも、わたし、このふるさとの町に残らなきゃいけなかったんだ。どうしても、やるべきことがあるんだから・・」

 と椅子に座って、玲奈は誰にも聞こえないようなかすかな声でつぶやいていた。

 窓際の一番後ろの席、そこだけが異空間、それが彼女の居場所だ。

「そして今、わたし、ここに来る理由もできたんだ。山上先生、先生はもう、わたしのものなんよ。二度もあんなに深いキスをしたんだから・・」


 ホームルームのチャイムが鳴り、山上翔が教頭の内藤先生と一緒に教室に入って来た。

「産休の安田先生の代わりに、二学期からこのクラスの担任を引き継いでもらう、山上先生だ・・」

 と教頭が紹介した。

「教える科目は現代国語。大学では空手部で活躍されていて、空手部の顧問もやっていただきます。それでは、山上先生、あとはお願いします」

 内藤教頭が、教室を出ると、翔は教壇からクラスの生徒たちを見まわした。

 そして一秒後には、玲奈の強烈なまなざしに正面衝突した。

 翔は火傷を負わないように彼女から視線を外して語りかけた。

「初めまして、山上しょう、です。さっそく出席を取ります。名前を呼ばれたら、何でもいいから、はい以外の一言で返事してください。では、阿南ひろし」

「え? 何を言えばいいんですか?」

 と宏は戸惑った。

 翔は笑って言う。

「うん、それでいいです。じゃあ、次は、伊藤さこ」

「ハロー」

 と言って、佐子は手を振った。

 翔も、

「ハロー」

 と手を振った。

「尾崎ゆか」

「いやん」

 由香はなぜだか机に顔を突っ伏した。

「川崎じゅん」

「カムサムニダ」

「ありがとう」

 と翔も返した。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・

 やがて玲奈の順番が回って来た。

「浜岡れな」

 玲奈の返事はただ一つ。剛速球の直球をぶつけるだけ。胸の前に指でハートを作り、

「先生、愛してる」

 と熱くぶちまけた。

「おれも、愛してるよ」

 と翔はその場のノリで言ってしまった。ライブ中のロックンローラーのように。玲奈をまねてハートまで作って。

「よっしゃあ」

 と玲奈は、クラスメイトたちを凍りつかせるようなガッツポーズをほとばしらせた。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・


 現国以外の授業も、玲奈は熱心に勉強した。翔以外の教師たちをも、授業中、背筋が凍るくらい睨みつけていた。玲奈はただ翔のために、いい生徒であろうとした。



 放課後、山上翔は、空手部顧問で体重百キロ超の立花俊介先生と職員室を出た。

「空手経験者の先生が顧問になられて、部員たちは喜びますよ」

 と廊下を歩きながら俊介は言う。

「部員は、何人いるのですか?」

 と翔は問う。

「男子も女子も、二年三人、一年二人です。ジュニアからの経験者が半数ですけど、なにしろわたしが顧問ですから、大会では勝てないです」

 俊介は目を細めてガハハと笑った。

「立花先生は、何かスポーツはされてたんですか?」

「ラグビーで、見ての通りフォワードをやってました。空手部相手でも、体当たりでは負けませんよ」

 と言ってまた笑ったが、その顔が固まった。

 眼前に、一人の女生徒が、燃えるような目で通せんぼをしていたのだ。

 俊介を見ていた翔が、気づかずに歩いてぶつかってしまったが、彼女は避けるどころか男の腕に抱きつくように腕を巻きつけた。

「先生、どこ行くんですか?」

 と境界線を越えた目と目の距離で熱い息吹を投げつける。

「浜岡れな、何で?」

 翔の声は上ずってしまった。

「わたし、空手部に入部したいんです。山上先生、顧問になられるんですよね? わたし、入部できますよね?」

 翔が赤い郵便ポストのようにポカンと口を開けていると、隣の俊介が嬉しそうに語りかけた。

「空手部は部員が少なくて、困ってるんだ。入部希望者は、大歓迎だよ。きみ、空手の経験は、あるの?」

 玲奈は大男を上目遣いで見て、首を振ったが、翔に視線を戻して言う。

「小学三年までなら、やった経験はありますけど、初心者みたいなものですから、山上先生、ご指導お願いします」

 玲奈の大きな瞳の熱気が翔の胸をも熱くした。

「おれも、歓迎するよ。おれたち、ちょうど今から空手道場へ向かうところだけど、一緒に来るか?」

「世界の果てまでお供します」

 玲奈は両手は翔の腕にくっつき虫のように絡んだままだ。

 翔はその手をていねいにほどきながら言った。

「空手の道は、世界の果てのその向こうの、異次元まで続くかもよ」

 玲奈は振りほどかれた腕にもう一度だけぶら下がり、「うふふ」と頬を染めて翔を見つめると、弾ける鳳仙花のように離れた。

 その瞬間、翔の胸奥から「おれはこの娘を知っている」という電撃のような叫びが突き上げてきた。


 なぜだろう。その不思議な思いは、空手道場で、玲奈に【空手の形】を指導している時も、次々押し寄せる荒波のように翔の胸にリフレインされた。

「おれはこの娘を知っている? それはただこの娘がさくらに似ているから? だけど違う気がする。でも、なぜ?」

 そう翔は玲奈の秘めた空手の能力を目の当たりにして、つぶやいていた。

 周りの部員たちはまだ誰も、玲奈の恐ろしいまでの能力に気づかない。

 玲奈はわざと操り人形のようにぎこちなく演技していたから。

 玲奈は、空手と言えば、父の道場の【極真】しか知らなかったが、本気でやればその高校の弱小空手部員の誰よりも華麗な【形】を演舞する自信があった。


「浜岡れな、あんた、初日から山上先生を独占してるけど、そんなヘタクソな実力で、今頃何で空手部に入ったの?」

 と二年生女子三人が玲奈を囲んみ、キャプテンの水田成美が問い詰めた。

 翔がトイレに行き、その場を離れている時だ。

 ジュニアから空手をしている成美は、できるだけ怖い目で睨んだつもりだが、玲奈にとってはおかしいくらいのハンパさだった。

「ちょっと仇のヤクザたちを懲らしめる必要があるから」

 と言ってにっこり笑い、首をひねる三人を擦り抜けて、玲奈は近くのサンドバッグの前へ行った。

 そして「ウオー、ウオー」吼えながら、左右の突き、左右の上段蹴り、そして飛び膝蹴りを撃ち込んだ。バ、バンバンバンバンッ、黒いサンドバッグが壊れそうな悲鳴を上げて揺れた。その怒涛の勢いに、空手部男女の誰もが固唾を吞んだ。

 それから息も乱さず玲奈は先輩三人のところへ戻り、成美に本物の睨みをぶつけて聞いた。

「それで、先輩、わたしに何か至らぬことがあるのなら、どうぞご指導くださいませんか?」

 成美は瞳孔が開ききった目で玲奈を見つめ、ブルブル震えるように冷たい汗が滴る首を横に振った。

 

 

 


















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