18、あたし、どんなことがあってもれなを応援するから

 土日は、夜明けを背に【DARK LIGHT】へ走る。

 その四キロメートルほどのランニングが、咲桜のウオーミングアップだ。

 そしてジムに着くと、今日は朝から笑顔の堀田龍一に、ダッシュを命じられる。

 ジムの裏に聳える山が朝陽に映え、晩夏の樹木が緑緑と燃えている。その山裾の人道を、百メートルほど上の小宮目指して駆け上がる。岩だらけの荒れた山道を、忍者のように岩から岩へ跳んで走る。

 宮に着くと、石像に祈願する。

「世界チャンピオンになって、れなを高校も大学も行かせることが出来ますように」

 それから障害だらけの山道を駆け降りるのだ。進行方向に加速力が働くので、恐ろしいスピードで足をフル回転させる。一歩一歩、すべての一歩、着地の位置を間違えると、滑るのは必至だ。たぐいまれな動体視力と強靭な足腰の力、そして研ぎ澄まされた集中力がなければ転んで重症を負いそうな、十秒ちょっとの死に物狂いの全力疾走だ。

「なかなか速いじゃないか」

 と龍一は細い目をへの字にして笑う。

「こんなの、アサメシまえさ」

 と咲桜も、笑う。

 龍一の目がさらに細くなる。

「おお、うまいこと言うじゃないか。じゃあ、今のを、あと九回やって、朝食にしよう」

 咲桜のえくぼが引き攣った。

「鬼、悪魔、サディスト、殺す気かあ」

「キックボクシングは、死と隣り合わせの競技なんだよ」

 龍一の笑いが朝陽に撃たれ、真剣のように輝いていた。


 早朝ダッシュだけで頬がこけた咲桜は、野菜中心の朝食をがっつり食べて気力を取り戻した。

 そして、さあ、いよいよ午前の練習だ。


「今日の午前の課題は、十秒間に、パンチとキック三十連発の一気のラッシュだ。パンチが効いたりして、相手に隙ができた時、攻め切るための超高速連打だ」

 と龍一は黒い顎髭を指で撫でながら言う。

「やったあ。そういう練習なら、大好きだよ」

 と咲桜は目を輝かせる。

「じゃあ、フックが軸となるラッシュパターンAからだ。いいか、しっかり覚えるんだぞ・・」

 龍一は声に出しながら、手本を見せた。

「左フック、右アッパーストレート、左ボディフック、右フック、右ボディへの回し蹴り、左ストレート、左ローキック、右フック、左ボディフック、右ハイキック、左ボディフック、右アッパー、左右のワンツーボディ、左ハイキックからの右バックスピンキック、左右のフックからの左右のボディフック、左フックからの右バックハンドブロー、フライグダブルニーからの左フック、右左のダブルローキック、右横二段蹴りからのかかと落とし」

「今の、三十秒はかかったんじゃない?」

「ばか野郎、さくらに分かるように、スローでやったんだよ。本当は、こうだ」

 今度は、シュシュシュシュ・・・と強い息を吐きながら、目にもとまらぬ早業を十秒以内でやってみせた。とても五十歳とは信じがたいスピードだ。

 咲桜はうなずきながら問う。

「それがパターンAなら、パターンBとかCもあるんだね?」

「パターンZまでできたら、無敵になれるぜ」

「そんなにたくさん、できるのか?」

「できるまでやれば、できる。できるまでやらなければ、できない。ただ、それだけさ」

 そう言って、龍一はまた笑った。

「なるほど。簡単だ」

 と咲桜もつられて笑った。


 軽快なフットワークで動く防具をつけた龍一のミットや足目がけて、咲桜はパンチやキックを高速連打した。

 だけど、どんなに懸命に繰り返しても、パターンAさえ、午前中には十秒を切れなかったのだ。


 昼食を取り、休息の後、二人はリングの上に戻った。

 今度は咲桜がヘッドギアとボディプロテクター、そしてレッグガードを着けさせられた。

「いいか、防具を着けるのは、これから一週間だけだぞ。一週間で完全防御を身に付けられなかったら、死が待っていると心しろ。午後の課題は、午前にやったパターンA攻撃に対する完全防御と、カウンター攻撃だ。まずは、完全防御から。おれがスローでパターンAの攻撃をして、だんだん速度を上げていく。ベストは、相手のパンチもキックも、すべて空振りさせながら、カウンターを合わせる形を作ることだ。さあ、行くぞ」

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 ボロボロになった身体で、はぼサラダとフルーツの夕食を食べ、筋トレで汗を絞り出す。

「いいか、鉄壁の腹筋、背筋。パンチやキックの破壊力を増す手足の筋力。そして限界に挑む厳しい筋トレさえ楽しいと思える異常な精神力、そのどれもが、世界チャンピオンを目指すには欠かせないもんだぞ」

 と叫ぶ龍一の細い目には異様な光が渦を巻く。

「鬼、悪魔、サディスト・・」

 と、そんな男を大きな目で叫び返しながら、咲桜は地獄のトレーニングを続けた。

 

 課題を終え、夏の大三角が見下ろす道を、ペガサス目指してランニングで家へ帰る。帰り着くまでが練習だ。

 咲桜にとって、織姫も彦星も白鳥も、空飛ぶ白馬も、みんなやさしい話し相手だった。空のダイヤの煌めきが、今夜は愛しい人の瞬きに見える。

「ねえ、しょう、今どこで、何してるの? もう、あたしのことなんて忘れて、誰かの膝枕で幸せになってるの? あたし、故郷の町に戻って来たんだよ。あたしがチャンプになって、ちょっとは有名になったら、一度だけでいいから、会いに来てくれないかな?」

 星は何も言わないが、無限の彼方から彼女を見守っていた。


 帰り着くと、今夜も借家の鍵が開いていた。

「あれ、鍵かけるの忘れた? それとも、また・・」

 とつぶやきながら玄関を開けた。

 電気が点いた奥の部屋を見て目を丸くした。

 豪華なベッドがあって、その横の椅子に玲奈が座っていたのだ。

「帰るの遅いな。何してた?」

 と玲奈が乱暴に聞く。

 咲桜の頬がみるみる赤らんだ。

「れな、そのベッドと椅子、どうしたの?」

「あんた、言ったよね? わたしを学校に行かせるって。だからわたし、ここで暮らすことにしたんだ。嫌ならいいよ。すぐ出て行くから」

「嫌なもんですか。嬉しいよ。来てくれて」

 そう言いながら、妹を見つめる瞳が涙ぐんでいる。

 それを見て、玲奈は椅子から立ち上がり、目をそらした。

「別に、あんたのために来たわけじゃないよ。新しい担任の先生を好きになったんだ。山上先生っていってね、街で偶然出会ったんだ。こんな気持ちは初めてなんだよ。もう、反省文も学校に出したし、保護者と一緒に住むという条件で、停学が解けたんだ。ちくしょう、こんなこと、あんたなんかに説明したくないけど、そういうことだから、こんなひどいところに来たんだよ」

「まあ、あたし、れなの保護者なのね? いいよ、あたし、れなのためなら、何だってするからね。忘れないで・・・あたし、どんなことがあっても、れなの味方だし、れなを応援するから。それに、あたし、れなの気持ち、よく分かるんだよ。あたしも、高一の頃には、命がけの恋をしてたから」

 咲桜が近づいて両手を差し出すと、玲奈の眉間に縦じわが寄った。

「な、何だよ、その手は?」

「ハグ、したくて」

 咲桜が抱きしめようとすると、玲奈は「いやー」と叫びながら、いきなり拒絶の右拳を姉の顔面へ突き出した。

 すると咲桜は条件反射でウイービングしながら、左ストレート合わせていた。自分でもびっくりして、玲奈の顎の一センチ手前で拳を止めた。

 その超絶のスピードに玲奈の手足に鳥肌が立っていた。

「な、何だよ、これ?」

「ごめん、パンチを撃たれたら、あたし、自動的に体が動いちゃうの。言ったでしょう・・・あたし、キックボクシングで世界チャンピオンになって、お金稼いで、れなを大学に行かせると。今日も一日、トレーニングしてきたの。明日の日曜も、早朝からジムに出かけるのよ」

 姉の呑み込むような瞳に玲奈は首を振り、ベッドにドスンと仰向けになった。

 あんたが世界チャンピオンになって稼ぐ金額以上を、わたしはすでにパパ活で貯金してるのに・・・

 と玲奈は心でしゃべりかけたが、声には出さなかった。

 かわりにシミだらけの剝がれそうな板天井を見ながらこう言った。

「言っとくけど、このベッド、あたし専用だから、指一本触れないでよ。ところでさあ、この借家、今時お風呂ないなんてありえないんだけど、近くに銭湯あるの?」

「銭湯? あるよ。ちょっと走ればね」

 と答えながら咲桜はひざまずき、豪華なベッドの羽毛布団にそおっと人差し指を伸ばしていた。

 それに気づいた玲奈が、

「アチョー」

 と叫んで、仰向けのまま、その指に蹴りを入れたものだから、条件反射のカウンターパンチがその脛をバキッと鳴らした。

 玲奈は赤鬼の形相で飛び起きた。

「このクソ姉ちゃん、やっぱ絶交だあ」

 咲桜は七年ぶりに「姉ちゃん」と呼ばれ、涙目で妹を見つめていた。

 



 

 















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