17、七年ぶりに運命の再会をしたのは誰と誰?

 親と逃げた故郷に、二十代前半の青年は七年ぶりに帰って来た。父母の反対を押し切り、オレンジ色のハスラーを長距離運転し、一人で戻ったのだ。

 心を紅に染めて尋ねたのは、【安藤典道極真空手道場】、つまり安藤咲桜の家だ。

 だけどその場所には、四階建てのマンションが建っていて、木造の道場など跡形もない。

「どうして?」

 車を降り、マンションの向かいの古い家のチャイムを押した。

 玄関を開けたのは、六十半ばの白髪の男だ。

「こんにちわ、すみません、そこにあった安藤空手道場、ご存じないですか?」

 と青年は尋ねた。

「あんた、誰?」

 と白髪の男は問い返す。

 青年は、頭を下げ、やわらかな口調で言った。

「おれは、山上しょう、といいます。七年前、近くに住んでいて、今日、そこの道場の娘さんに会いに来たんですけど、家がなくなっているので、お尋ねしたんです」

 彼、下川翔は、夜逃げ後、家族で姓を山上に改名していた。

 初老の男は、翔のとび色の目を悲しげに見た。

「あんた、残念だったね。安藤さんの娘さん・・・さくらちゃんだったよね。あのこなら、もうここにいないよ。昔、事件を起こしたからね」

 翔の瞳が大きく見開いた。

「事件? 事件って、何ですか?」

「人を殺したんだよ。高校の同級生を」

 翔は震えるように首を振った。

「そんな・・・どうしてそんな、ありえない話をするんです?」

 初老の男は、額に深いしわを刻み、青年の表情の変化を見定めるように見つめた。

「ありえない? そう、ありえない出来事だった。だからよく覚えているよ。殺された高校生の親が、山田質店のオーナーで、安藤さんの家から何もかも奪って、安藤夫妻を自殺に追いやった。だけどわたしには、安藤さんが自殺したとは思えなくてね。とにかく訳ありなんだ。ほら、そこのマンション、山田の親父が建てたんだよ」

 翔の眉間にも苦悩のしわが寄った。

「山田? もしかして、死んだのは、山田すぐる? ああ・・」

 

 翔には訳が分からなかった。

 高一の時、彼の父に多額の借金を負わせた山田貞夫。それが原因で、翔はその息子の卓にひどいいじめを受けたのだ。その心の傷は、胸の奥にどろどろに固まった血の塊のように今も残っている。彼だけではない。彼の両親も借金苦と貞夫の暴力に耐えかねて、この土地から逃げ、苗字も変えたのだ。貞夫がいる限り、両親はこの土地に戻れはしないのだ。

「だけど、おれは、ここに戻らなきゃいけなかった・・」

 と翔はハスラーを運転しながらつぶやいていた。

「ここに戻るためだけに、今まで生きてきたんだから。すべては、さくらに会うため。大学に入って教員免許を取ったのも、大学で空手部に入ったのも、みんなさくらに会うため。なのに、何てことだよ。さくらが、すぐるを殺したなんて・・・いったい何があったんだ? もしかして、おれのため?」

 翔が次に訪ねたのは、彼が昔住んでいた場所だ。

 だけど実家だった木工所も跡形なく、山田質店が建っていた。

「何なんだ、これ?」

 七年前の夜逃げが、彼の胸にフラッシュバックされた。彼の母が角材で殴り、頭から血を流してうつぶせに沈んだ山田貞夫から逃げた恐ろしい記憶が、永遠に消えぬかさぶたのように脳裏に張り付いている。

「あいつは、おれたち家族を恨んでるだろうな・・」

 そうつぶやきながら、その場を離れた。

「だけど問題は、さくらだ。きっと、この町にはいないだろうな。今、どこで何してるのだろう? ちくしょう、おれは、これから、どうすりゃいいんだ?」 


 予約していた不動産屋を訪ね、一緒に新居に向かった。

 案内されたのは、宮隈駅から南へ百五十メートルほどにある、三階建ての小さなビルの203号室だ。ビルの一階は、貸主の食堂になっている。ビルの裏の月極駐車場に軽ワゴンを駐め、貸主の中年女性に挨拶をして、積んでいた布団などの荷物を部屋に入れた。バストイレに洗濯機付きのワンルームで、部屋にはクーラーもある。


 とりあえず、必要な電気製品を買おうと思い、車で出かけると、七年前にはなかった大型ショッピングモールが、すぐ近くの駅前にあった。夕立雲が近づいているようで、空は暗く雷鳴が轟いていた。

 果たして雨が振り出したので、駐車場から傘を差して売り場へ歩いていると、すぐ近くに雷が落ち、稲光と雷鳴に恐怖で膝が折れた。

 なのにほんの五メートルほど前に、微動だにしない娘を見た。

 ノースリーブのピンクのワンピース、まぶしい手足、そばかすがまだらな丸い頬、深い泉のような大きな瞳、艶やかな黒い髪・・・

「さくら」

 と翔は呼びかけていた。

 そして強い磁石に引かれるように、娘に駆け寄り傘を差しだした。

 娘の黒い瞳が翔を深く呑み込んだ。

「石黒さん?」

 と彼女は聞く。忘れもしない、咲桜の声だ。

 細かった雨が、しだいに重くなった。

 再びピカドーンと、運命が烈しく扉を叩くような稲光と雷鳴に包まれたが、娘はびくともしない。

 翔はピリピリ震えていたが、それは雷のせいではなかった。

 目の前の娘は、安藤咲桜だったが、七年前の、その姿のままなのだ。

 何で、年を取ってないの? こんなこと、ありえるの? 

 と翔は考えながら、娘を見つめていた。

「わたし、みくる、です。どこ、行きますか? いきなりホテルはダメですよ。まずはデートを重ねて、お互い、知り合ってからですよ。でも、石黒さんみたいな、若くて素敵な人、初めてです。もしかして、一目惚れしたかも」

 みくる、と名乗る娘は、そう、安藤玲奈だ。瞳を妖しく輝かせてしゃべりかける娘に、翔は胸が痛くなった。

「きみ、高校生?」

「ええ、高一ですよ。ほら、すっぴんでしょ」

 と言って、玲奈は翔の手を取り、そばかす交じりの丸い頬に当てさせた。

 すべすべなのにしっとり吸い付く手触りに、翔は絶句していた。

「石黒さんは、何なさってるんです?」

 と問う娘の向こうに、人探しをしてる男を翔は見た。

 あの男が、石黒、だろうか?

 そう考え、翔は娘の手を引いた。

「雨がひどくなりそう。早く行こう」

 と彼は言い、オレンジのハスラーへ連れて行った。

「わあ、可愛い車」

 と言って、玲奈は車に乗り込んだ。

 翔は車内でタオルを渡した。娘のピンクのワンピースは、第二ボタンまで外れている。濡れた髪を拭く娘の細いうなじから胸元が、なまめかしく視界に入り、翔の声が少し上ずった。

「夕食、食べる?」

「わーい」

 笑顔も七年前の咲桜にしか見えない。

「好きな食べ物は?」

「うーん、今夜は、中華かな」

「オーケー」

「レッツゴー、デリシャス」

 アクセルを踏みながら、翔は聞く。

「何、それ?」

「中華も、わたしも、デリシャスってことよ」

 娘の右手が、翔の太ももに当てられた。

「ねえ、石黒さんって、何してる人?」

 と玲奈はもう一度聞く。

「あ、おれ? 教師だよ。こっちの高校の採用を待ってたんだけど、二学期から空きができて、引っ越して来たんだ」

「あらあら、高校教師が、女子高生のパパになっていいのかな? 悪いやつだ」

 五本の細い指で、青年の太ももに官能的な音楽を奏でながら、玲奈はさらに聞く。「それで、どこの高校?」

「宮隈東高校」

 と正直に答えた。

 娘の指が翔の太ももをぎゅっとつかんだ。

「うわっ、これって、運命? わたし、そこの生徒だよ」

 今は、停学中だけど・・・   

 と玲奈は心で付け加えた。

 翔は腿の刺激で、胸奥でキャアキャア漏らしていたが、明らかにパパ活の女生徒が二学期から教壇に立つ高校の生徒と知り、さらにキャアキャア叫んでいた。

 ああ、この、みくるって娘が、さくらにそっくりじゃなければ、絶対車に乗せなかったのに・・・

 と後悔せずにはいられなかった。

「まさか、一年二組じゃねいよね?」

 と聞いてみた。

「あれっ? どうして知ってるの? 一年二組だよ」

 と玲奈は言い、やはり胸の中で、

 停学中だけど・・・ 

 と補足した。

 翔のキャアキャアが、胸を突き破り、雷鳴より壊滅的に世界を震撼させた。

 車を止めて、娘を見つめ、

「降りて」

 と一言。

「え? 何で?」

 見開いた娘の瞳は、彼を溺れさせる深い泉のよう。

「一年二組の担任が、産休だろ? だから、おれ、臨時で代わりを務めるんだ。きみと二人で、ただの食事でも、問題になるんだ」

 玲奈は翔の左腕にしがみつくようにやわらかな胸を押し当てた。

「雨、強くなってるよ。雷、怖いよう」

「さっきは、雷に打たれても、気にしない様子だったよ」

 玲奈の顔が翔の顔にぎゅっと近づいた。

「一緒に中華、食べるって言ったわ。男と女の約束は、地球より重いって、知らないの? 命と同じよ。こんなとこで降ろしたら、石黒先生が、パパ活してるって、全校生徒に教えちゃうかも」

 翔は迫りくる顔に、窓に頭を押し付けるまで逃げた。だけどそこが世界の果てだ。もうこれ以上逃れられない。娘の唇が彼の唇を奪うまで、たったの数秒だった。なのに彼にとっては恐ろしく永い、炎に揺られ、魂まで焦がされる時間だった。

 愛するさくらとさえ、キスはしたことがなかったのに・・・

 胸がそう叫びながら痛いほど高鳴り、息もできない。

 いつしか娘の顔は離れ、嬉しそうに紅潮して彼を見つめていた。

「ほら、わたしにキスしたでしょ。もう逃げられないよ」

 首を振る翔は、しどろもどろに言う。

「お、おれ、い、石黒、じゃない。や、山上、だ」

 娘の目が一瞬丸くなったが、すぐに微笑に戻った。

「オーケー、山上先生、顔、真っ赤だし、そんなに震えて・・・まさか、ファーストキス? もう一度キスしたら、悩殺させちゃう?」

「だ、だから、おれ、つまり、た、たまたま濡れてるきみに傘を差し出した、だけで、きみと待ち合わせしてた相手じゃ、ないんだ」

 そう打ち明けたのに、娘はさらに深く彼を見つめ、顔を輝かせるのだ。

「わあ、こんなの初めて・・・ってことは、先生、わたしをだまして、手を引いて車に乗せたの? そのうえ、キスまでした。悪い男。そんなにわたしが欲しかった? じゃあ、やっぱり、これって、運命? わたし、生まれる前から先生を知ってた気がするの。だから、一目見た瞬間、ビビッと胸がときめいたのかな? 嘘じゃないよ。こんな気持ち、初めてなんだから。山上先生も、わたしに惹かれたんでしょ? わたしを見る目が、ハートだったもの」

 そう誘惑して、娘は首を横に振る男にもう一度キスをした。今度は深い海の底に巻き込むような重い口づけだ。手慣れたプロの抱擁に、車のボディを叩く雨音も、魔王の到来を告げる銅鑼のような雷鳴さえも、翔にはもう聞こえなかった。ただ雷に撃たれたように動けず、打ち震えていた。












 


















  

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