16、さあ、次こそ、ほんとにほんとに本当の本番だ

 夕食後、咲桜はリングに上がり、今、自分にできる技を、グローブをはめた龍一相手に一通り披露した。

「なるほど、その程度だから、あんたの顔と足のアザ、堀田ジムの海田めぐみに、ボコボコにやられたってわけか」

 と龍一は嘲笑するように言った。

 咲桜はムッとして、言い返した。

「でも、あなたの息子のホリケンを、飛び膝でノックアウトしたわ。初心者のフリで、油断させたけど」

 彼女を見る龍一の目は、光るナイフのようだった。

「確かにあんたのフライングニーは目を見張るものがある。跳躍力が超人的だ。あんたの父の安藤のりみちの最大の必殺技も、飛び膝二段蹴りだった。あんた、それ、できるか?」

「あんた、あんたって、あたしには浜岡さくらって、名前があるんです。ちゃんと名前で呼んでください。浜岡さくらでも、安藤さくらでも、どちらでもいいですから。ところで、その飛び膝二段蹴りって、どうやるんです?」

「何だ、さくら、父親の得意技、知らないのか?」

 と言って、龍一がやってみせたのは、左足で飛び上がって、右の膝蹴りの直後、左の膝蹴りを空中で連発し、着地の勢いで左フックを浴びせる技だった。

 プロの格闘家でもそれを顎に受けたら失神するようなおぞましい攻撃だ。

「一週間だ。一週間でこれができるように体を鍛えろ。だけどな、この一週間であんたが覚えるべき、もっと大事な課題がある。それは・・」

 また、あんたって言った・・・

 と咲桜が思った瞬間、龍一は左拳を咲桜の顎へ突き刺していた。

 その矢のような速さに、咲桜は避けきれず、「バッ?」と発して吹っ飛ばされ、マットに尻を突いた。

「い、いきなり、何すんの?」

 クラクラする頭を振りながら立ち上がり、咲桜は抗議した。

 龍一は冷たい目を光らせ、

「その大事な課題というのは、ディフェンス技術だ。防御には二種類ある。今のおれの左ジャブが、積極的防御・・」

 と言い、今度は左の前蹴りを咲桜へ放った。

 咲桜は今度はさっと身を引いたが、それでも胸につま先が食い込み、ロープまで飛ばされた。

 龍一は疾風のように咲桜に詰め寄り、追撃の右フックを撃とうとして止めた。

「な?」

 と叫んでサイドステップを踏んだ咲桜に、龍一は続けて言う。

「相手の撃つタイミングの一瞬先に、ジャブや前蹴りやフェイント攻撃で相手を遠ざける。これが積極的防御だ。そして、スウェーバックやダッキングなどで相手の攻撃を避けたり、グローブや腕でブロックしたりする、一般的防御・・・これができなきゃ、プロとは言えない。ギリギリでかわしながら、カウンターを放てると、さらに有効になる。あるいは相手の撃ち終わりを狙った攻撃も有効。つまりディフェンスと連動したオフェンスだ。いいか、プロとアマの一番の違いは、ディフェンス技術だ。今のあんたの一番の能力は、足腰の強靭さだ。ずっと走って鍛えたんだよな? 元空手日本一だけあって、バックステップもサイドステップも、すでにプロの速さだ。だけど世界一になるのなら、それもまだまだキレが足りない。もっともっと凄くなるはず。それも活かしたディフェンス技術を、この一週間で、磨きあげるんだ・・・さあ、始めるぞ」

 龍一はグローブを外し、黄色いテニスボールが先に着いた棒を凛子から受け取った。

「レッスンワン・・・目力強化。動体視力を鍛える。最初は、顔を動かさず、目だけ動かしてこのボールに焦点を合わせ続けるんだ」

 凛子がゴングを鳴らし、一分間、龍一が前後を混ぜた上下左右に動かすボールに、咲桜は眼球の運動だけで焦点を合わせ続けた。

「次は、三分間、おれに合わせてステップを踏みながら、今のをやるんだ」

 と龍一は指示する。

 ゴングが鳴り、龍一が前進すると咲桜はバックステップを踏み、横へ行くとサイドステップ、下がると追いながら、絶えず一定の距離を保ち、素早く動くボールに焦点を合わせ続けた。

 三分後、龍一の目つきは怖さを帯びていた。

「さあ、次が本番だ。今度はこのボールがあんたを攻撃してくる。それを避け続ける訓練だ。空手同様、キックボクシングでは、ローキックも飛んでくる。それは足を引いて避けるか、足を軽く上げてダメージを軽減させるんだぞ」

 次のゴングが鳴ると、龍一はその名のごとく龍のように襲いかかってきた。百本の槍のように次々刺してくる棒の先のボールを、咲桜は必死にスウェイしながらサイドステップやバックステップで逃げたが、避けきれず、頬、顎、脇腹、みぞおち、足、にと、いくつも被弾した。三分が三十分に感じられた。 

 終了のゴングに救われると、咲桜はわめいた。

「鬼、悪魔、サディスト、殺す気かあ。あたしにも、反撃させろよ」

「もちろん、次が本当の本番だ。次の三分は、防御と連動してのカウンター攻撃だ。相手の攻撃こそ、こちらの最大のチャンスと思え」

 と言って、龍一は右手に棒、左手にミットを構え、鬼のように笑った。

 咲桜も咬みつくように笑い返した。

「おもしれえじゃないか。そのミット、ズタズタに叩き潰してやる」

 ゴングと同時に龍一へ突進し、ボールをきわどく避けながら、咲桜はパンチや蹴りをミットへ叩き込んだ。だけど三分後、百本の槍のように襲い来る棒先の黄色いボールに全身ズタボロにされたのは、咲桜のほうだった。

「何だ、たったこれだけで、もう泣いてるのか?」

 と龍一はなおも非常に言う。

 そんな男を、咲桜は異様な光を放つ目で睨む。

「はあ? 泣くわけないだろ。ちょっと汗をかいただけだよ。まだまだぜんぜんやり足りないぜ」

 龍一は青いグローブをはめて笑った。

「それならよかった。さあ、次こそ、ほんとにほんとの本番だ。次のラウンドは、いよいよおれとの真剣勝負だ」

 咲桜は赤いグローブを叩いて不敵に笑い返した。

「やったぜ。これまでのラウンドの恨み、百倍返しだあ」

 ゴングが鳴ると、またも咲桜は龍一へ突進した。だけど上段中段下段へと、どんなにパンチや蹴りを打ち込んでも、軽くかわされたりグローブや肘でブロックされた。撃っても撃っても、そこにあったはずの龍一の顔や腹や足は、魔法のように消えていた。龍一は一発のパンチも蹴りも出さず、ディフェンスに徹していた。だけど九十秒くらいたった時、咲桜の右ストレートをぎりぎりかわしながら、左フックのカウンターを撃った。バンッと、右耳の奥が破裂し、咲桜はたった一発で、目の前に星が飛び、世界が白くかすみながら急激に斜め回転した。ドンッとマットに頭が撥ねたのを、意識の裏で感じた。それでも咲桜は手足を動かし、攻防を続けようとした。だけど倒れたまま手足がピクピク痙攣しただけだった。

「さあ、次こそ、ほんとにほんとに本当の本番だ・・」

 と誰かが言った。

 だけどそれは、失神した彼女の夢の中の話。

 その誰かを懸命に見ようと目を凝らしていると、突然、ザバンッと津波が襲って来た。

「うわあああ?」

 叫んで飛び起きると、そこはリングの上だった。

 バケツを持った龍一が目の前で見つめている。これは間違いなく、現実だ。

「あなた、もしかして、バケツの水をかぶせたの? いつの時代の人間よ?」

 と咲桜はうなって、睨み返した。

 龍一は怖い目で笑って告げた。

「休憩時間は終了だ。さあ、次こそ、ほんとにほんとに本当の本番だ」

 咲桜の目が炎と化した。

「おもしれえじゃないか。今度こそ、百倍返しだ」

 

 










 

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