15、あなたみたいなチンケな罪じゃないんだから

 あたし、人を殺したの。そのせいで、大好きだった父も母も死んでしまったの。だから、死んで当然の人間なの。そうよ、妹があたしを必要としないなら・・・それどころかあたしが憎くて邪魔な存在なら、死んだ方がましなんだ・・・

 そう思って、咲桜は真っ暗闇をどこまでも堕ちた。


 地獄に堕ちて、無間の劇苦を覚悟していたのに、カーテンの隙間から差し込む朝の陽やセミの鳴き声で目覚めてしまった。いびつな顔の鬼たちが、無言で彼女を見下ろしている。

「え? 何? ここが地獄?」

 だけど鬼たちは動かない。彼らはめくれかけた天井板のシミだったのだ。

 咲桜は古畳の上に眠っていたようだ。

 立ち上がると、腹部の下が何だか変だ。

「ちくしょう、ここ、現実だあ」

 尿の匂いのハーフパンツと下着を脱ぎ、洗剤をかけ、流しで洗った。

 シャツとブラジャーは洗濯機に入れた。

 それから流しに戻り、石鹸をつけた濡れタオルで身体じゅうを拭いた。特に下腹部から太ももは、こびりついた尿素臭を何度も拭き取った。泣きながら拭き取った。

「ああ、ここは、現実なんだ。泣いてる暇なんか、ないんだ」

 地獄へ旅立ったはずなのに、お腹は鳴る。昨日、夕飯を食べてなかったのだ。

 ここはエアコンも水道もガスコンロも洗濯機もある彼女の素敵な新居だが、冷蔵庫や炊飯器はない。

「給料もらったら、まず冷蔵庫を買おう」

 そうつぶやきながら服を着た。

「そうよ、もう少しだけ、生きてみよう。もしかしたら、いつか、れながあたしを必要とする時が来るかもしれないから。いいえ、きっと来る・・・れなは、今の暮らしを続けてても、きっと幸せになれないから・・・あっ、そうだ、れなのスマホ、あたしのポーチに・・」

 ウエストポーチを開いたが、玲奈のスマートフォンは絶望的に失せていた。


 家を出て、職場の近くのコンビニへ走り、ジャムパンとおにぎり二つ、そしてお茶とミルクを買った。

 それから作業場の控室でパンとミルクを食べた。

 お腹は満たされなかったが、おにぎりは昼休みに取っておいた。

 その日は、早く仕事が終わるように、懸命にミシンを作動させた。

 咲桜は玲奈に言ったのだ・・・キックボクシングで、世界チャンピオンになると。それでお金を稼いで、玲奈を大学に行かせると・・・

 有言実行しなきゃ・・・

 今はそれしか、玲奈と繋がるすべなどないのだ。


 仕事を終えると、さっそくスマホでキックボクシングジムを探してみた。

 走って行けるジムは、ホリケンやMEGUMIがいる堀田ジムしかないようだ。

【DARK LIGHT】というジムなど、検索できない。

 咲桜は道を歩きながらつぶやいた。

「どちらにも、もう行けないよね。そんなことは分かっているけど・・・それでも迷ってはいられないんだ。どうせ捨てたこの命。たとえ殺されても構うもんか」

 いつしか咲桜は走っていた。県境を越え、夕陽に向かって。

【DARK LIGHT】の堀田龍一は言った。

「あんた、ここを紹介されたってことは、どういうことだか分かってんのか? あいつらに、はめられたんだよ・・」

 と。

 咲桜は走りながら独り言を発した。

「だけど違う。きっと違う。あたし、何か運命のようなものを感じるの・・・だって、堀田せいぎ会長は、きっと、りゅういちさんの父だと思うの。それに会長は、あたしの父の師匠だったのよ。そんな会長が、あたしにりゅういちさんを紹介したってことには、何か深い意味があるはずよ・・」

 灼熱に燃える夕陽が自分を呼んでいる・・・そう感じて咲桜は西南西の山々へと走った。

 

 山の麓の古い倉庫のような家。看板も表札もない。それが【DARK LIGHT】だ。

 今夕も玄関ドアに鍵がかかっている。夕陽はすぐ横に聳える山に遮られているが、まだ明るい。家の横へ歩いて、窓枠に手をかけ、カーテンの隙間から覗いてみる。

 キックボクシングのリングが見える。サンドバッグも。壁にかかったグローブも。

「ダークライトは死んじゃいない。まだ脈打つ音も息遣いも、あたし、聞こえるよ」

 震える手が古い窓をガタガタ揺らした。

「えっ?」

 どうしてこんなにたやすく揺れるのだろう・・・

 試しに力を入れて動かしてみた。チュルチュル高周波の音を発して窓は開いた。

「ああ・・」

 電気に触れてしまったように、咲桜は飛び退いていた。

 だけど、またゆっくりと窓に近づいていた。

 リングが彼女を呼んでいるのだ。逃れることのできない引力で、胸を揺さぶる声色で、絶対的に呼んでいる。

 さらに大きく窓を開けた。

 そして振り返り、周辺を見た。人も獣もいないようだ。

「ああ、これがあたしの運命なの?」

 そう問いながら、カーテンをめくり、室内へ飛び込んでいた。

 靴を脱ぎ、戸口の内に置いた。

 めくれたカーテンが風で揺らぐと、差し込んでくる外の光もザワザワ騒いだ。

 壁へと歩き、その光が揺れる赤いグローブへ手を伸ばした。ホコリ一つないグローブだった。

 グローブをはめると、それが彼女の新たな拳となった。生まれる前から約束されていたような、燃える色に輝く拳だ。

 さっそくサンドバッグに向かい、左拳をねじ込んだ。パンッと黒いサンドバッグが産声を上げて揺れ、光の筋にゆらり舞った。パパンッと左右のワンツーを叩き込んだ。さらに左右の回し蹴りを下段中段上段に叩き込むと、サンドバッグはさらに嬉しい悲鳴を上げて踊った・・・

 室内はしだいに暗くなり、いつしかサンドバッグにはMEGUMIの影が浮かんでいた。咲桜は彼女と距離を取ったり詰めたりを繰り返し、彼女の身体に数多のパンチと蹴りを打ち込んだ。叩いて蹴って、叩いて蹴りまくった。咲桜の身体じゅうを野獣の血が目覚めて駆け巡っていた。

 突然の稲光のように、部屋の照明が光を発した。

 ハッとして、振り向くと、戸口に三十歳代くらいのあの女性が立っていて、食い入るように咲桜を見ていた。

 絹のように艶やかな栗色の髪、真珠のような白い頬、それよりさらに輝く女神のような瞳。

「うわっ、やっぱ、きれい」

 と咲桜は漏らしていた。

「あなたは、一昨日来た・・」

 と女性は言う。

 咲桜は赤いグローブを着けたまま、彼女に駆け寄った。

「こんばんわ、浜岡さくらと申します。あたし、どうしてもここでキックボクシングをやりたくて、また、来ちゃいました。すっごい美人の人、あなたもキックボクシングやってるんですか?」

 ずけずけ話しかける咲桜に、女は一瞬目を丸くしたが、すぐに微笑を浮かべた。

「わたしは、山本りんこ。そうね、ここでキックボクシング、やっていたわ。でも、一昨日りゅうちゃんが言った通り、ここは閉めたのよ。それより、さくらさん、どうやってこの中に入ったの?」

「窓の鍵が開いていました。もしかして、またあたしが来ることを期待して、開けていてくれたのかと思って、入って、練習してました。山本さん、どうかあたしを、ここで鍛えてください」

 少し潤んだ瞳で見つめる咲桜を、凛子もじっと見つめ返した。

「そう? 窓に鍵がかかってなかったの? あの人らしくないな。りゅうちゃん、仕事に出てるの。でも、もうすぐ帰ってくるから、鍛えて欲しけりゃ、もう一度あの人に頼みなさい。わたしは、今から夕飯の準備をしなくちゃ」

 買い物袋を持って、奥へ行こうとする凛子の腕に、咲桜はしがみついた。

「教えてください・・・どうしたら、堀田龍一さんに、キックボクシング、指導してもらえますか?」

「たぶん、無理だと思うわ。いいえ、きっと無理ね・・」

 と言って、凛子は悲しい目で咲桜を見た。

「あなたに、よほどのことがない限り」

 そうヒントを残し、凛子は奥の扉の向こうへ消えた。


 咲桜がリングに上り、シャドウ試合を一人でしていた時、堀田龍一が帰ってきた。

 顔も眉も目も鼻も唇も細い、堀田拳一に似た五十歳代の男。ふた昔ほど前なら、女性にモテた容貌なのだろうが、黒い顎髭にも、梳かしたことのないようなボサボサの黒髪にも、一割ほど白髪が混じっていた。服は上下グレーの作業着だ。

 咲桜はリングの上から頭を下げた。

「こんばんわ、またおじゃましました」

「あんた、誰?」

 と龍一は問う。不審者を見る眼差しだ。

「あたし、浜岡さくら、です。一昨日の夜、ここに来たじゃないですか」

「一昨日の夜? ここに? ん? ん?」

 龍一は腕組みをして考え込んだ。やがて思い当たったように咲桜を見つめて言う。

「もしかして、あんた、世界チャンピオンになるって、言ったか?」

 咲桜は顔をほころばせた。

「ええ、ええ、あたし、ここで毎日練習して、必ず世界チャンピオンになります。ならなきゃだめなんです」

 龍一の表情は変わらなかった。

「何てことだ。あれは、夢じゃなかったんだな」

「夢? ひどく酔っぱらっていたから、覚えてないのですか?」

 龍一の両手がスズメの巣のような頭を抱えた。

「うーん、思い出せねえなあ」

 咲桜は考えた。

 これって、災い? それとも、好機? 空手の試合と同じように、もし好機なら、逃しちゃダメだ・・・

 じっと龍一の目を見つめ、嘘を言ってみた。

「堀田さん、言いましたよね・・・おれが、あんたを、必ず世界チャンピオンにしてやる、って。だから、あたし、本気でここに来たんですよ」

 龍一の細い目が丸くなった。

「へっ? おれが? 悪いけど、ここのジムは、選手が誰もいなくなって、閉めたんだ。ごめんな」

 咲桜は、リングの上から赤いグローブを差し出して言った。

「閉めた? 閉めたですって? なら、どうしてこのグローブは、こんなにピカピカに磨いてあるんです? どうしてこのリングは、マットもロープも、こんなにきれいに拭いてあるんです? 選手なら、ここにいるじゃないですか・・・とびっきり世界一に近い、あたしが」

 龍一はさみしそうに笑った。

「何でみんなここを去っていったか、知らねえだろ? ここはね、あんたのような人が来るような所じゃねえんだ」

「いいえ、いいえ、こここそ、あたしの居場所のはず。だからこそ、堀田せいぎ会長は、あたしをここに紹介したはず」

「何だって? あんた、親父に言われてここに来たのか?」

 龍一の表情がさらに険悪になった。

 やっぱり、この人、酔っぱらって何も覚えちゃいないんだ・・・

 と咲桜は思った。

 そしてまた嘘を言った。

「そうよ、堀田さんは、泣いて感謝してましたよね? そしてあたしに言いましたよね・・・命を懸けて、あたしを強くしてやるって」

 龍一は震えるように首を振った。

「酔っぱらいのたわ言を、真に受けちゃだめだぜ」

「はあ? 責任取ってくださいよ。じゃなきゃ、あたし、ここでずっとシャドウキックボクシングをやり続けますからね。ご飯も水も取らず、トイレもいかず、たとえ山から下りてきた熊に襲われても、たとえ震度七の地震に襲われても、死ぬまでやり続けますからね」

「分からないやつだな。じゃあ、本当のことを教えてやろうか・・・おれはな、二度も人を殴って病院送りにしてよ、刑務所に入ってたんだぜ。どうだ、参ったか? だからみんなここから去って行ったんだ・・」

 勝ち誇ったような目でギラギラ睨む龍一を、咲桜も燃えるような目で見返した。

 そうなの? ああ、そうなのね・・・だから会長は、あたしをここに行かせたのね・・・

 そう心で叫んでいた。

 龍一はとどめを刺すように言う。

「さあ、だから言ったろう・・・ここはあんたみたいな、かわいいお嬢さんが来るとこじゃないって。あんたも、ケガしたくなかったら、とっとと出て行きな」

 咲桜は不敵に笑った。

「悪いけど、かわいい以外は、何一つ当たっちゃいませんよ。そもそも堀田さん、どれくらい刑務所に入ってたんです?」

「一回目は、執行猶予が付いたけど、二回目で、一年間の実刑だったんだぜ。それでこのジムは、完全に終わったんだ」

 咲桜はリングのロープの上から身を乗り出し、赤いグローブで龍一を指した。

「はあ? たった一年で、ガタガタ言ってんじゃないよ。あたしはね、高一の時、同級生を殺して、今まで七年、刑務所にいたんだ。あなたみたいな、チンケな罪じゃないんだから。どうだ、参ったか?」

 咲桜も勝ち誇ったように龍一を見下ろしたが、その目は潤んでいた。

 龍一もヒリヒリするような痛い目で咲桜を見つめた。

「あ、あんたは・・・さっき、何とかさくらって、名乗ったよな・・・もしかして・・」

 咲桜の泉のように見開いた瞳から、涙が溢れだした。

「そうだよ。七年前、世間を騒がせた、安藤さくらは、このあたしだよ。あたしは、ずっと、地獄の底で這いつくばってんだ。あなただって、どん底に沈んでるように見えるけど、違いますか? だとしたら、あたしら、もう上へ上へ、這い上がって行くしか、道はないじゃないですか? 今、ここから、新しい道を作るために、闘っていくしか、ないじゃないですか?」

 龍一の目はカッと熱く見開いていた。

「安藤、さくら・・・安藤のりみちの娘なのか? 本当に、そうなのか?」

「うん」

 うなずく娘を見る男の瞳も潤んでいた。

「ああ、だから親父は・・」

「何だよ? あなたも、あたしの父を知ってるの?」

「知ってるも何も・・・ちくしょう、これがおれの運命なのか」

 そう打ち震えるように言うと、龍一は咲桜を手招きし、家奥の扉へ歩いて行った。

 戸を開けて、振り返り、リングの上で戸惑っている娘に言う。

「何してる? 早く来い。夕メシ食うぞ」

「え?」

 咲桜は石像のように固まったが、数秒後には、

「うわあああ」

 と顔をくしゃくしゃに笑叫し、飛び跳ねていた。


 

















 

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