13、看板もない DARK LIGHT
咲桜のソーイングスタッフの仕事は、業務用ミシンで袖の部分だけ縫うという単純作業だ。七年の刑務作業の経験がある咲桜には、失敗が許されない作業をひたすら繰り返す集中力も忍耐力も身についていた。
咲桜の指導を担当した泉京子が、昼休みに言った。
「浜岡さん、あんた、わたしが三年かけて身に着けた技術を、どうしてたったの数時間でできちゃうの?」
「え? ああ、うちにミシンがあって、自分の服とか縫うのが好きだったんです」
と咲桜は噓をついた。
保護司の浜岡千尋と工場長の指示で、彼女が安藤咲桜で、殺人の罪で刑務所に入っていたことは秘密だった。誰が殺人犯と一緒に仕事をしたいと思うだろうか。そして誰が殺人犯の仕立てた服を着たいと思うだろうか。
「やんなっちゃうわ。あんたなら、初日から定時に帰れそうね。ところで、その顔のアザ、どうしちゃったの?」
心配そうな目で咲桜の顔を見つめる京子は、四十歳代の四角い顔のすっぴんだ。
「キックボクシングで、KOされちゃいました」
と、今度は本当を言った。
「あらあら、嘘がうまいのね」
と京子は疑念の目で見る。
咲桜は笑って尋ねた。
「あの、さっき、定時で帰れるって言われましたが、時間通りに帰れないこともあるんですか?」
「こんな時代なのに、ここはノルマ制なのよ。でも、ゆるいノルマだから、仕事が速く正確な人には助かるわ。基本、午後五時までが定時なんだけど、わたし、新人の頃は、与えられた作業がこなせなくて、八時までやってたのよ。今では、四時には帰れるけどね」
そう自慢げに言う京子を、咲桜は呑み込むような目で見つめた。
「あたしも・・・あたしも、早く仕事やってしまったら、四時に帰れますか? 妹が、事故で入院してるんです」
玲奈のために懸命にミシンを動かし、咲桜は午後四時前に職場を出た。
そして玲奈が入院する病院へと走った。
走りながら、今日も独り言を発していた。
「そうよ、あの職場じゃ、あたしのこと、絶対知られちゃいけない。あたし、この町じゃ、生きていちゃいけない人間なんだもの。あたし、この町の人を殺した人間なんだ。だから、この町の誰も彼もに、石をぶつけられても仕方のない人間なんだ。いや、どこであろうと、生きてちゃいけない人間なんだよ。でも、あたし、どんなに死にたくても、死ねないんだ。れなにだけは、辛い思いさせちゃいけないから。だからあたし、死に物狂いで生きなくちゃ。れなのためなら、この身がずたずたににちぎれても、何だってするんだ・・」
病室へ行ったが、玲奈のベッドはすっかり片付けられていた。
死んだのかと思って、咲桜は腰を抜かし、ポロポロ涙をこぼした。
「今朝、目覚められて・・・止めたんですけど、どうしても退院すると言って、出て行かれました」
と女性看護師は言う。
キャー・・・・・・
と咲桜は心で長い長い悲鳴を上げていた。
話によると、父を名乗る男性が現れて、病院代も全額払ったとのことだ。
その男性は四十歳代くらいの痩せた男で、黒のサングラスに銀髪だったらしい。ならば林田信二ではなさそうだ。
「四十代で、髪を銀に染めてる? 黒サングラス? チャラいのか、いきがってるのか? それにしても、あのこのスマホ、あたしの家にあるのに、どうやって連絡したんだ?」
と咲桜はしゃべりながら病院を出た。
「ああ、だけど、れなの意識が戻ったってことは、何て幸運なことだろう。これであたしも生きていけるぞ。だけど、れな、姿をくらますつもりなの? どうやって捜せばいい? そうだ、あのこのスマホだ・・・持っててよかった。きっとれなは、取りに来るだろう・・何とかなるぞ・・」
咲桜は借家へと走って帰った。
借家の近くの弁当屋でノリ弁を買い、帰り着いたのは五時半過ぎだ。
玲奈のスマートフォンには、十二件の着信履歴が表示されていた。自分の電話番号を入れ、通話を押した。それから玲奈の電話番号を自分のスマホに登録した。
弁当を食べ終え、玲奈のスマホもウエストポーチに入れ、【DARK LIGHT】を訪ねることにした。
西南西の山地の方へ三十分ほど走ると、しだいに田舎道になり、街灯もまばらになった。スマホで地図を見てその住所へ行き着くと、古民家が散在する山の麓のその場所に、古い倉庫のような家があった。
「何、これ? キックボクシングジムなんてないじゃない・・・看板もどこにもないない・・」
と咲桜は落胆した。
スマホの明かりを頼りに表札を探したが、それも見当たらない。古びたチャイムを押してみても、壊れてるようだ。窓から覗いても、カーテンで中は見えない。戸口を開こうとしたが、鍵がかかっている。
「こんばんわあ」
山にこだまするほど大声で呼んでも、窓が揺れるくらい扉をドンドン叩いても、返事はない。
「えーい、ひらけー、ゴマ」
と呪文を唱えても、やはり開かない。
「オープン セサミ」
「イフタフ ヤー シムシム」
と異国語で唱えても、風にヒューヒューあざけられるだけだ。
黒々と闇にそびえる山から魔物が降りて来そうな周りの辺境を駆け回ったが、どこにもジムらしき建物はなかった。
あきらめた帰り道、一組の男女とすれ違った。
咲桜は引き返して、二人に尋ねてみた。
「あのう、ちょっとお伺いしたいんですが、このあたりに、ダークライトっていうキックボクシングジムはありませんか?」
男からの酒の匂いが強烈で、咲桜は彼らを呼び止めたことを後悔した。
暗くてよく見えないが、男は女に支えられ、フラフラ揺れている。
「ダークライト? へっへっ、そういや、そんな名のジムもあったなあ」
と酔った男が絡むように言う。
女は黙っているが、闇の中でも刺すような視線を咲桜は感じた。
「あったって・・・じゃあ、今はないんですか?」
と咲桜は問う。
「へっへっ、とっくに、閉じてらあ・・」
と言って、酒臭い顔を近づけようとする男を、女が押さえている。
「だいたい、あんた、何しにダークライトに来たあ?」
「世界チャンピオンになるために」
と咲桜はきっぱり告げた。
「ほーい? 世界チャンピオン? ほはあ? なめとんのか? そんな大それたやつが、こんなちんけなとこ、来るわけないだろ? 気味が悪いやつだなあ。悪いこと言わんから、帰りな、お嬢さん」
手を振って去ろうとする男を、女も支えて背を向けた。
咲桜も背を向け少し歩いたが、なぜか気になって、二人の後をつけた。
果たして男女はあの倉庫のような古屋へ行き、鍵を開けた。
ええい・・・
深さの分からぬ泉に飛び込むような気持ちで、咲桜は猪突猛進した。
「堀田せいぎ会長の紹介で、ここに来ました・・」
と二人の背に叫んだ。
振り返った男は、震えたように見えた。
「そんなやつ、知らねえな・・」
と返す言葉も怒りに震えている。
女が戸口から入って、照明をつけた。
明りにあらわになったのは、三十代くらいの美しい女で、上下黒のラフな服装だ。
咲桜は思わず、
うわあ、美人・・・
と心で発していた。
「帰らないと、痛い目にあうぞ」
と男はあっち行けとばかりに手を振る。
五十歳くらいの黒い顎鬚が目立つ男だ。酔って赤い頬も細いが、眉も目も鼻も唇も細い。ひどく酔っているのに、得体のしれぬ隙のなさを感じる。
何だ、この殺気は? それに、この顔、どっかで見たぞ・・・
と咲桜は思った。
そうだ、ホリケン・・・ひげがなければ、堀田拳一によく似てるんだ・・・
開いた戸口から、キックボクシングのリングがチラチラ見えた。
咲桜は挑発するような口調で言った。
「だったら、あのリングの上で、痛い目に合わせてください。でも、そんなに酔ってちゃ、あたしには勝てないと思いますよ。あたし、堀田会長さんのジムで、堀田けんいちさんを、KOしました・・・あなたは、堀田りゅういちさんですよね? 堀田会長やけんいちさんと、どういう関係ですか?」
男は目を血走らせて怒った。
「ほわあ? 帰れー。帰れと言ってるだろが。おれはなあ、あいつらとは・・・何の関係もない男だ。あんた、ここを紹介されたってことは、どういうことだか分かってんのか? あいつらに、はめられたんだよ。ここはな、あんたみたいな、まっとうなお嬢さんが来るところじゃねえんだよ」
そう言って、男は咲桜の両肩を理不尽な力で押した。
突き放されて転びそうになった咲桜は、強靭な足を小刻みにさばいて数歩遠ざかり、振り返ってわめいた。
「何だよ? あたしは、真剣な気持ちで来たんだ・・・この酔っ払い野郎、もう、あたしの頭のてっぺんからつま先まで、怒りが百度を超えて沸騰したぞ」
「へっ、だから何だって言うんだ? おれの怒りは、マグマを超えて噴火してるぜ。あんたのその腫れた顔、もっとパンパンに腫らしてやろうかあ」
狂犬どうしのように、吠え合った。
「やれるもんなら、やってみやがれ」
さらに吠えながら、咲桜は男に突進した。
そして矢のような左の正拳を突き出した。
どんなに酔っているとしても、隙のないオーラを見せている男だ。彼が堀田龍一なら、簡単に防御するか避けるだろう、と咲桜は思い込んでいた。
なのに、ゴンッと左拳が男の左頬に激突したのだ。
男は派手に吹っ飛んで、女の足元に仰向けに倒れた。
奇怪なことに、相手は一ミリも避けなかったはずなのに、咲桜の左拳には、のれんを叩いたような手ごたえしか残っていなかった。まるで幽霊を殴ったかのように。
美人の女は、男を助け起こしもせず、無言をぶつけるように咲桜を見ていた。燃えるような瞳で。
男はペッと唾を吐き、暗い目で咲桜を睨みつけると、上体を揺らしながら立って言う。
「へへっ、十万円、今すぐ払いな」
「え?」
「お嬢さん、十万円・・・治療費と、慰謝料だよ」
「え?」
「世間って、そういうもんだろ? 格闘家が人を殴ったら、当然払うべきだろ? まさか、知らねえのか?」
「あ・・」
「へん、今すぐ払えねえのなら、ここには二度と来るな。ここは、あんたなんかが来ちゃいけねえとこなんだよ」
血走った男の目は、深い地獄の底から湧き出るような怒りに震えていた。
その怒りは、自分の手に負えるものじゃない、と咲桜は感じて後ずさっていた。
山裾からの帰り道、咲桜は身体にこびりついた男の絶望的な怒りを振り払うように走った。乱暴に走るには暗すぎる道だ。何かにつまづいて頭から転びそうになった。それでも飛びぬけた運動神経で、くるっと地面で一回転して一瞬で立ち上がり、その勢いでまた走り続けていた。
いつの間にか、涙が溢れて止まらなくなっていた。
「やだ、あたし、何で泣いてるの? 転んで、びっくりしたから?」
と自問したが、熱い涙で答えが見えない。
どこかで聞き覚えのある音楽が聞こえ始めた。走っても、走っても、ひとりぼっちの月のように音が追いかけて来る。涙をぬぐって振り返っても、誰もいない。
ウエストポーチの中の、玲奈のスマホが鳴っていたのだ。
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