12、妖怪、独り言女

 堀田キックボクシングジムを出る咲桜の左頬や足は、紫に腫れていた。しだいにむくんでいきそうだ。左目も赤く血走ってふさがりかけ、痛みで涙がにじんでいた。

 煌びやかな街の歩道を、うなだれ、左足を引きずるように歩き出すと、駆ける足音が追って来て、肩を叩かれた。

「ちょっと、おばさん・・」

 と呼び止めたのは、小学生の男の子だ。

 振り返った咲桜は、

「お、おばさん? あのね、あたしはまだ、二十三なのよ。お姉さんって呼びなさい」

 と、たしなめた。

 少年は一枚の紙片を差し出し、ニッと笑って、

「はい、顔の膨れたおばさん」

 と言う。

「何よ、これ?」

 咲桜はその名刺のような物を受け取り、近くの街灯へ歩んで、文字を呼んだ。

「会長が渡せって言うから・・」

 と少年が言う。

「キックボクシングジム、DARK LIGHT・・・代表、堀田龍一・・・ねえ、これ、何?」

 と咲桜は聞いたが、少年はもう駆け戻って、ジムの出入口で振り返り、手を振った。

 中へ入っていく少年に、咲桜は声を張り上げた。

「ねえ、あたし、おばさんじゃないんだからね」

 紙片に書かれた住所は、隣県ではあるが、幸いなことに県境の咲桜の新住所からは一里ほどだ。走って行くにはちょうどよい。

「これを渡したってことは、ここに行けば、雇ってもらえるってことかな?」

 と咲桜は歩きながら、ぶつぶつと独り言を続けた。

「DARK LIGHTって、どういう意味? 堀田龍一って、堀田ジムと関係あるのかな? でも、今日はもう遅いから、明日、仕事が終わってから行こう。今日は、もう、疲れすぎた。今日、出所してから、いろんなことがありすぎたもん。でも、れなに会えたことが、今日という人生の一番の奇跡だよ。それなのに、あたしのせいで、またれなを傷つけちゃった。れなが目覚めたら、あの年寄りをあたしが殴っちゃったこと、怒るだろうな。でも、れなにあんなこと、やらしちゃいけない。ああ、あたし、れなのためにどんなことだってしなくっちゃ」

 街の繁華街から、西へと歩き続ける。

 足をひきずり歩いていては、県境の新居まで一時間以上かかるだろう。新居といっても、築五十年の虫だらけの家だ。それでも七年暮らした刑務所と比べたら、何て素敵な居場所だろうか。

「これがシャバの空気なのね。シャバビダバダ、これが自由な空気なのね・・」

 と歌うように言って、咲桜は街を抱きかかえるように両手を広げた。

「出所一日目、今日のことを、思い返してみよう・・・あたし、故郷に帰って、まず、どうした? そうだ、住んでた家を訪ねたのよ。でも、そこに家はなかった。あの、山田のマンションが建ってた。それで、次に、しょうの家へ行ったのよ。でも、そこにも、山田質店が建っていた。ああ、しょう、しょう、今、どこにいるの? あたしのことなんて、もう、忘れちゃったかしら。あたしは今も、しょうだけなのに。刑務所の中でも、あたしは毎日、心の中のしょうと一緒に走っていたのよ。でも、あの、山田貞夫って男、あたしの人生にどれだけ関わってるの? ああ、これって、あたしが彼の息子を殺してしまった因果なのね? でも、それで、彼は、あたしの父さん母さんを死に追い込んだの? それで、あたしの妹を、まだ小学生の時に犯したの? それだけじゃなく、今日だって、あたしも辱めようとした。あたしのことはいいにしても、れなのことはどうしても許せなかった。だからあたし、ああ、あんなことしちゃった。あいつが警察に訴えたら、あたしは刑務所に逆戻りね。だけど、あいつ、警察沙汰にはしないと思う。だって、小学生の女の子を犯したと分かったら、あいつも刑務所行きになるだろうから。だから、あいつら、あたしを殺そうとするかもしれない。それでも、あたしだってあいつを不能にしたんだから、警察にも保護司にも相談できない。うん、それならそれでいい。後悔なんてない。これは、あたしとやつらの戦争だ。れなをけっして関わらせてはいけない・・」

 明かりがまぶしいパチンコ店の前を通り、コンビニ前の交差点の赤信号で立ち止まった。

「それにしても、れなは、何であいつのマンションの前まで来たんだろう?」

 独り言を発する頬を腫らした女に、信号待ちの人々が思わず見入った。なのに自閉症の娘であるかのように、咲桜の視界には周りの目線など入らなかった。

「あたしが地獄に堕ちるのを確かめに来た、ってれなは言ったけど、本当かな? だったらどうして、れなは自分の身を犠牲にして、あたしのかばって車にはねられたんだ? ああ、れな・・」

 信号が青になり、人々は好奇の目をチラチラ咲桜に向けながら進みだした。

 咲桜も流れに乗った。

「れな、身体を売って、高校を休学処分になって、施設も抜け出して、あんないいマンションで暮らしていたなんて・・」

 道行く人々は、ブツブツつぶやいてる咲桜を気味悪がって距離を置いたが、一人の男性だけは、こっそり後ろに付いて、咲桜の靴音に合わせて足音を忍ばせ、聞き耳を立てていた。彼女の話が、あまりにも興味を引いたからだ。それに咲桜の後ろ姿は、心震えて焦がれるほど魅力的だった。

 二人はしだいに街から離れ、薄暗い裏道へ入って行った。

「でも、だめよ、れな、そんな暮らしは、幸せじゃないんでしょ? だから、復讐しに、山田質店に来たんでしょ? だいたい、れな、あんた、何人の男性と関係を持ってるの? あたし、れなの身代わりになる気でいたけど、一人とでもムリだった。気づいたら、あの牟田ってお年寄りのお腹を、ボコボコに殴っていた。あの人、まさか死んでいないよね? でも、くわえてくれって言って、あんなもの、あたしの口へ突き出すんだもの。思わず、また嚙み切ったらどうしようって、パニックちゃった。だからあたし、下着をポケットに入れて逃げ出したの。そして街を走ってたら、女の子が男二人に連れて行かれそうになってたから、その男たちをやっつけてやったわ。それから、あたし、その女の子が通ってるキックボクシングジムで雇ってもらおうと訪ねたのよ。そこで一番強いという堀田拳一をKOしたけど、ダメだった。あたしみたいな人殺しはムリなんだって。でも、会長さんが、もう一度チャンスをくれたんだけど・・・ん? あれっ?」

 裏通りの街灯の横を通り過ぎた時、身の危険を察した咲桜は、いきなり振り返りながら足を止めた。

 目の前の自分の影の後を、別の影が追うのが見え、ぞっとして耳を研ぎ澄ますと、自分の靴音に合わせる足音も聞こえたからだ。

 すぐ後ろに男が立ち止まったのを見て、咲桜は目を大きく見開き、固まった。

 咲桜のふさがりかけていた左目は角ばって震え、街灯が紫に腫れあがった左頬を怪しく浮かび上がらせた。

 薄暗い道に二人きりだ。

 二人には、生温い夜風が通り抜ける隙間もないように思えた。

 恐ろしいほど長い数秒後に、咲桜は低い声で尋ねた。

「あんた、もしかして、あたしの独り言、聞いてた?」

 男は目を吊り上げて見開き、弱弱しく首を横に振ったが、ふいに怪物に直面したかのように「うわあああ」と叫びながら逃げ出していった。

 男が闇にまぎれ、見えなくなって、咲桜は家路を続けた。

「今の人、何だったの? あたしを化け物みたいに・・」

 独り言は止まらなかった。

「それにしても、あのMEGUMIって若い娘、強かったなあ。蹴りもパンチも、女子のレベルじゃなかった。あたしの攻撃も見事にかわすし。まだ十六って言ってたから、もっともっと強くなる。だったら、あたし、世界チャンピオンになんかなれないじゃない。ああ、疲労と打ち身で、もう身体がずたずただあ。でも、ああ、これがシャバで生きるってことなのね。同じことの繰り返しの塀の中と比べたら、なんて幸せなことだろう。そしてあたしには、明日だってある。明日という、また新しい人生が・・・明日も一日、精いっぱい生きたら、いつかあたしでも、そうよあたしでも、世界チャンピオンになれるわ。そうよ、あたし、負けない。だって、あたし、あのMEGIMIにだって、勝つまで闘うから。何度倒されても、何度でも、何度でも、勝つまで闘うから・・・そしてお金を稼いで、れなを大学に入れるのよ。あたしが失った青春を、れなには絶対生きてもらうの。そうよ、それがあたしの、生きる、ってことなの・・」

 咲桜は痛む足をかばうこともなく走りだしていた。

 歩けば遥か遠い場所でも、走ればすぐそこにあるかのように感じられたのだ。

 大橋への坂を駆け上り、黒銀の鱗を揺らす龍のような大河を超えていくと、夏の大三角の間の天の川も彼女の頭上でチラチラ流れた。星座たちの幾千の物語が、時空を超え彼女を見ていた。

 咲桜は走った。翔と走ったあの頃のように。

 彼女の逆風にも乱れぬ息遣いも、首を滴る熱い汗も、闇の先を見つめる真直ぐな瞳も、ドクドク高鳴る胸の鼓動も、タンタンタンタン前へと駆ける若い足音も、満天の星々に負けず輝く命だった。キラキラ輝く生命だった。

 走り続ける限り、新しい居場所はすぐそこだ。

 

 















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