11、十六歳の天才ファイターMEGUMI

「浜岡さくら? あなたは何者なんだ? 絶対、格闘技やってるだろ?」

 グローブを外し、リングを降りた咲桜に、赤ネクタイの男が詰め寄って問う。

「格闘技? 空手なら、七年前まで試合に出てたけど・・」

 と咲桜が答えると、男は彼女の手を握り、目を輝かせた。

「わたし、事務長の安本といいます。あなたなら、すぐにプロで活躍できますよ。見た目もいいし、ファンもたくさんできます。是非うちと契約してください。いいですよね、堀田会長?」

 安本が呼びかけたリングの向こうを、咲桜も振り返って見た。

 白髪白髭の老人が椅子から立ち、杖を突いて歩いて来た。七十歳以上の高齢者だが、顔色もいいし、目つきも鋭い。グレーの半袖ポロシャツに紺のハーフパンツを着ている。彼が堀田正義、このジムを作った会長だ。

「七年前まで試合に出ていた、と言ったね・・・」

 と言いながら、正義は咲桜をまっすぐ見た。そして、咲桜の前で立ち止まると、こう続けた。

「その試合を、わたしは見ていたよ。なにせきみは、わたしの教え子の安藤典道の娘だから。そうだろう?」 

 会長の目じりの深いしわと鋭い眼光に、何か胸を打つものを感じ、咲桜は問い返した。

「お父さんを、知ってらっしゃるんですね?」

「言ったろう、教え子だって。安藤典道、極真空手で日本一になった。飛び膝の名手で、彼の機関銃のような膝蹴りの連続技は、対戦相手の脅威だった。きみもそれを受け継いだ。だからきみの試合も注目してた。きみは極真空手の大会だけじゃなく、膝蹴りが禁じ手の高校空手の大会でも一年生で全国優勝した。それで、わたしはきみをこの世界に引き入れようと考えていたんだよ。だけどきみは、大変なことをしてしまった」

 そう言われて、咲桜は喉の奥で息を吞んだ。

 安本が横から聞いた。

「え? 大変なことって?」

 正義は咲桜を見据えたまま、彼に言った。

「安本くん、気づかなかったのかい? このこは、安藤さくらだよ。昔、この町で起きた事件を覚えちゃいないか? 高一の時、男子生徒を殺して刑務所に入った、少女Aが、このこだよ」

「少女A? 安藤さくら? あ、昔、この町で有名になった、あの安藤さくら?」

 事務長安本は、眉をひそめて咲桜を見た。

「あなた、人殺しだったの? それなのに、この名門ジムに入ろうとしたの? 見ての通り、ここには小学生から通ってる子が多いんだ。人殺しを入れたりしちゃ、ジムが潰れるじゃないか」

 咲桜の丸い頬から血の気が引いていった。それでも、食い下がるように言った。

「だけど、ホリケンに勝ったら、あたしを雇ってくれると・・」

「それは、あなたが勝手に言ったことでしょう・・」

 と怒る安本を正義が制止し、咲桜に言う。

「だったら、さくらさん、わたしがチャンスをあげようじゃないか。さっきの試合は、まともな闘いじゃなかったよね? きみもそう思うだろ? だからきみは、もう一度リングに上がって、うちのプロの女の子と、今度こそ真剣勝負をしてみないかね? それで勝ったら、わたしがきみを受け入れようじゃないか」

 安本が横槍を入れた。

「会長、何をおっしゃってるんですか? 安藤空手道場は、たしかあの事件でみんなが離れて行って潰れたんですよね? うちだって・・」

「まだこのジムの会長はわたしだよ・・」

 と正義が遮った。

「このこはね、もう刑期を終えて、地元に戻ってきたんだ。若い才能に、更生の機会を与えるのも、わたしの役目なんだよ。それに、元受刑者が努力して世界チャンピオンになったとしたら、過去に過ちを犯した者たちへの夢と希望になるじゃないか。キックボクシングは、誰にでも夢を与えるスポーツになるべき・・・それがわたしの信念なんだ」

 会長の怒れる神鷲のような目に圧され、安本は一歩下がった。

「会長は、まだ、息子の龍一さんを・・」

 彼がそう言いかけた時、リングサイドに残っていた若い娘が、もう我慢できないという感じで手を上げ、名乗り出た。

「会長、わたしにやらせてください・・」

 咲桜と同じくらいの体格で、身長百六十センチ弱くらい、髪はポニーテール、顔は卵型、あどけなさの残るかわいい娘だが、目に異様な闘争心の輝きがある。黒の半そでTシャツに黒の短パンを着ていて、咲桜に負けぬくらい手足が長く美しい。

「その人、相手を油断させて、不意打ちみたいな形でけんいちさんを倒しました。わたし、それが許せないんです。わたしが、けんいちさんの仇を取ります。だから、その人の勝負の相手、わたしにやらせてください」

 そう言って近づいて来る娘に、安本が言う。

「めぐみちゃん、きみはまだ、プロで二試合しかしてないし、まだ高一だから、十五か十六なんだろう?」

「でも、アマの試合を含めて、負け知らずですよ。それにわたしより強い女子が、このジムにいますか?」

 と応える恵に、正義会長が言った。

「もちろんきみがこの試合の相手だよ。さくらくんに、プロの厳しさを教えてやってくれ・・」

 正義は咲桜に彼女を紹介した。

「さくらくん、このこは、まだ高校一年生だけど、うちで一番能力の高いこだよ。きみと同じ極真空手で負けなしだっかから、スカウトしたんだ。近いうちにキックボクシングでも、チャンピオンになるだろう。名前は海田めぐみ、リングネームは英文字でMEGUMIだ。めぐみくんと、正式な試合と同じ、三分三ラウンドで、闘ってみないかね? それで勝ったら、きみを認めようじゃないか。どうだい?」

 咲桜の頬にも眼差しにも、生きる血潮が復活した。

「今度こそ、勝てば、ここで働けるんですね?」

「ああ、約束しよう。奇跡は、続けて起きないだろうけどね」

 眼光鋭く咲桜の目を覗き込む正義の左頬に、深いしわが斜めに入った。

 

 リングの周りに、再び人だかりができた。

「めぐみー、めぐみー・・」

 と叫ぶ小学生たちの熱い声援が、羽虫の大群のように咲桜の頬をかすめ、飛び交っていた。

 ゴングが鳴り、三十歳くらいの女性レフリーが「ファイト」と合図した。

 三分三ラウンドだ。空手の試合時間より長いが、毎日の走り込みでスタミナに自信がある咲桜には、短すぎる時間だ。

 咲桜は空手のステップで小刻みに跳んで、サウスポースタイルに構える相手にいきなり詰め寄った。すると恵の前足、つまり右足がすぐに咲桜の前足、つまり左足に飛んで来た。ローキックだ。バシッと痛みが脛から突き上げた。

 驚いてとっさに後ろに下がっていた。

 何だ、この痛みは? このこの蹴りもヤバすぎる・・・

 もう一度踏み込んで、咲桜も同じ攻撃を試した。

 すると恵は前足を軽く上げて受け流し、同時に右ジャブを伸ばし、それが咲桜の顎を突き刺すと、とっさにグローブで顔をガードした咲桜のボディに続けざまに左ストレートを食い込ませた。バンッと衝撃の音が鳴り、一瞬遅れて劇痛が肝臓あたりを襲った。

 速い、重い・・・息ができない・・・でも、今下がったら、追撃される・・・ 

 そう心で叫んで、咲桜は左右の突きを出そうと踏み込んだ。

 それに合わせて恵の長い足が前に伸び、咲桜の胸から首をズンッと突いた。前蹴りだ。

 何、これ? 

 弾かれて後退する咲桜に華麗なステップで詰め寄る恵の頬が笑っていた。だが、目だけは鬼の睨みだ。

 咲桜は足を踏ん張り、左右のパンチを突きながら、もう一度前へ突進した。さっと身を引く恵の頬を咲桜の左ストレートがかすめると、その顔が横を向いた。続けて出された右ストレートもぎりぎりかわされた時には、恵は背を向けていた。

 何だよ? 

 と思った刹那、咲桜の本能が全身総毛立つような強烈な警告を発していた。

 その一瞬後に、彼女の左頬がボンッと爆発し、身体が右へ吹っ飛ばされていた。恵の回転バックハンドブローが炸裂したのだ。咲桜にはその速すぎるパンチが見えなかった。

「ワン、ツー、スリー・・」

 とレフリーの声が衝撃に燃える耳の裏で聞こえた。

 何なの? あたし、倒れたの? ちくしょう、倒れている場合じゃないのよ・・・まだ、始まったばかりじゃないか・・・ああ、れな・・・

 と思い、無我夢中で立ち上がった。

「シックス、セブン・・」

 とカウントしながら、レフリーが両手を上げる仕草をしている。

 ファイティングポーズを取るように促しているのだが、咲桜はそんなこと知らない。続行させろとレフリーを睨みつけるが、ダメージ深い彼女の目には、白髪の老婆に変貌したレフリーが斜めにゆっくり回って見える。

「エイト、ナイン・・」

「やるよー、ほら、まだやるって・・」

 と咲桜は叫んだが、テンカウントが告知され、レフリーが腕を振って終わりを示唆した。

「ばかやろう、やるって言ってるじゃないか。びっくりして、ちょっと倒れただけじゃないか。あたし、まだ息一つ乱しちゃいない。あたしは、負けるわけにはいかないんだ」

 そう泣きつく自分の声さえもグラグラ揺れる灼熱地獄の底で響いているように咲桜は感じ、よろよろとマットにしゃがみ、ロープにもたれていた。











   















 

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