10、ごめん、負けられない

 やがて、一人の小学生っぽい少年が、こらえきれずに「あははは・・」と笑った。

 すると破られた静寂の裂け目からビリビリはみ出すように、彼の周りの子供たちも笑い出したのだ。そして誰もが笑い出すと、咲桜はその笑いの渦にブクブク呑まれて息苦しくなった。

「あなた、知らない顔だけど、プロのキックボクシングの試合に出たことあるの?」

 と赤ネクタイの男が聞いた。

 咲桜が顔から火を噴いて首を振ると、男の目が笑った。

「キックボクシングの経験はあるんだよね?」

 咲桜はもう一度、首を横に振り、どもりながら言った。

「い、今から、始めるんです」 

「だったら、まず、ここの会員になって、一からトレーニングしなくちゃ」

「あたし、妹を高校に行かせたいんです。お金が必要なんです。昼間は他の仕事が入ってますけど、夕方六時からなら毎日来れます。だから、ここで雇ってください。言ったでしょう、必ずチャンピオンになるって。そしたら、このジムも、有名になるから、あたし、役に立ちますよね?」

「あなたみたいな素人が、何夢みたいなことを言ってるんですか」

「だったら、ここのジムの、一番強いプロの男性と戦わせてください。それであたしが勝ったら、雇ってくれますか?」

 赤ネクタイの男は、唇の片方を引き上げて笑った。

「たまにいるんですよ。荒くれたヤンキーが、戦わせてくれと乗り込んでくることが。でもね、誰一人うちのプロファイターにかなう者はいないんです。まして女性のあなたが、相手になるわけないでしょう?」

「そんなの、やってみないことには、分からないでしょう?」

 そう言って咲桜は振り返り、面白そうに自分を見ている人たちを指す手をゆっくりと横に回した。

「さあ、この中で、一番強いやつは名乗り出なよ」

「ホリケン」

 と青いボクシンググローブを着けた男の子がすかさず言った。

「ホリケン?」

 と咲桜は聞く。

 赤いボクシンググローブの男の子が言う。

「お姉さん、知らないの? このジムで一番強いのは、元K1チャンピオンのホリケンだよ。大晦日のテレビに出たこともあるんだから」

 白いトレーニングウエアの小さな女の子も自慢げに言う。

「ホリケンは、このジムの会長の孫で、熊だって倒すくらい強いのよ」

「テレビは長いこと見てないから、知らないけど、ホリケン、今いるの?」

「いるよ。ほら、こっちだよ」

 と白ウエアの女の子が手招きする。

 咲桜が意気揚々と人だかりへ歩いて行くと、白い壁の横の子供たちの後ろに、三十歳くらいの男が白い歯を見せて立っていた。

「こんばんわ、ホリケンこと、堀田けんいちです」

 と明るく自己紹介する。

 顔は細く、眉も目も鼻も唇も細い。髪はスポーツ刈り。黒のTシャツにハーフパンツを着ている。

「ずいぶん痩せていらっしゃるのですね。筋肉は目立ってますけど」

 と咲桜は言う。

「しっかり減量してるからね。体脂肪率ゼロさ。測ったことはないけどね」

 と言って目をへの字に細める。

 咲桜も目を細め、聞いてみた。

「あたしと勝負してくれますよね?」

「もちろん、ぼくでよかったら」

 拳一が快く受け入れると、周りに子供たちが「わあー」と沸いた。

 拳一は、咲桜の肩にさりげなく手を置いて、こう続けた。

「そのかわり、あなたが勝てなかったら、このジムに入会してくれますよね?」

 咲桜はうなずき、片頬だけえくぼを見せた後、両頬で笑い、

「オーケー」

 と言った。


 誓約書には【安藤咲桜】ではなく、【浜岡咲桜】と記入した。戸籍上、保護司の浜岡千尋の養子ということになっているのだ。

 トレーニング場の奥のリングに上がり、赤いグローブを着けられ、マウスピースも口に入れられた。ヘッドギアも着けようとするので、それは断固拒否した。玲奈のために、どんな手を使っても勝たねばならぬのだ。

 小学生から高一までの頃、父の空手道場に入会希望で来る未経験者と、体験の手合わせをしたこともあった。それを咲桜は思い出していた。

「いいか、さくら、何があっても、素人にケガをさせちゃだめだぞ。相手を褒めて、その気にさせるんだぞ」

 と父の典道にきつく言われていた。

 このホリケンだって、絶対そうだ・・・

 と咲桜は考えていた。

 あたしが攻撃すると、ひらりひらりかわしたり、グローブで受けたり、防御に徹底してくるに違いない・・・そして、折を見て、あたしの撃ち終わりに合わせて軽いパンチや蹴りであたしから戦意を奪おうとするだろう・・・この男が元チャンピオンだというのなら、本気を出されちゃ負けるのは目に見えている・・・だったらあたしは、弱いふりをしていて、チャンスを待って一気に倒すしかない・・・

「キックボクシングは、初めてだから、二分二ラウンドで行こうか」

 と拳一が言う。

「ダメダメダメ・・」

 と咲桜は赤いグローブを振った。

「相手を倒すまで、時間無制限でお願いします。そちらさんが、スタミナに自信がないと言うなら、別ですけど」

 咲桜の提案に、拳一は白い歯を見せた。彼はマウスピースもはめていないのだ。

「おもしろい人だなあ。いいよ、じゃあ、きみがへばって動けなくなるまでやってあげるよ」

 咲桜も、ほんの少しだけ笑みを浮かべた。

 幼い頃から、父母が教える空手こそが、彼女の【生きること】そのものだった。女子刑務所に入れられても、空手が彼女の【救い】であり【希望】だった。だから塀の中での七年間、一日も休まず空手のシャドーをやり、走り込みをやり、トレーニングをした。それが活かされる時が来たのだ。


 ゴングが鳴らされ、多くの子供や大人が見守る中、二人の闘いが開始された。

 拳一は華麗なステップで白いマットを跳ね、「シュシュシュシュッ」と口に出しながらワンツーストレートからのフック、そして回し蹴りを見せた。もちろん空を切っただけで当てやしない。目にもとまらぬ速さだが、咲桜の目にははっきり見えた。

 悪いけど、あたし、負けられないの・・・

 そう思いながら、咲桜はぶるっと脅えたフリをした。そしてわざと空手のフットワークは使わず、へっぴり腰で左の拳を相手の顎へ突き出した。

 拳一は顔を向かって左に、つまり本人からすると右にずらして避けた。

「ほう、なかなか速いパンチを打つじゃない。才能あるよ」

 と拳一は余裕たっぷりで褒めた。

 この嘘つきめ・・・

 と心で思いながらも、咲桜は嬉しそうに言った。

「あ、ありがとうございます」

 彼女が次に右拳を突き出すと、拳一は今度は顔をさっきの逆に逸らした。

 そう、そういうふうに避けるのね・・・

 と咲桜は心に刻んだ。

 女相手に下がったりしないのね・・・足技も試したいけど、蹴りはないと思い込ませなくちゃ・・・

 続けて左で中段突きを打ってみた。

 拳一は右ガードをさっと下げて肘で受けた。

 咲桜は右フックも試した。

 すると拳一は頭をひょいと下げて空を切らせる。

 なるほどね・・・さすがにプロは、防御が完璧だ・・・

 と咲桜は心で叫んでいた。

 でも、その防御が、命取りにもなるんだ・・・さあ、そろそろ、打ってくるかしら・・・

 大振りで右ストレートを顔面に打ってみると、やはり向かって右へかわしながら、軽く左ジャブを合わせてきた。

 咲桜は避けずにそれを頬で受け、驚いてみせようとした。

 だけど相手の攻撃はそれだけではなかった。続けざまに右のローキックが飛んで来たのだ。バンッと痛みが彼女の左脛に食い込んだ。

 軽いジャブも、ほんの挨拶代わりのローキックも、プロのパンチや蹴りは脳にヒリヒリ電流を走らせた。それが咲桜の闘争本能に火をつけた。

 何だ、この蹴りの速さと威力は・・・

 と咲桜は瞬時に考えた。

 こんな蹴りを何発もやられたら、足がもたなくなるぞ・・・この男を仕留めるには、もう、すぐにあれを使うしかないのか? 

 その技は、咲桜の最大の武器だが、七年前、山田卓を死に追いやった呪われた必殺技だった。できれば使いたくなかった。

 でも、あたし、れなのために、絶対に負けられない・・・それに、この四角いマットの上が、生まれた時からずっと、あたしを呼んでいたような気がする・・・何でか知らないけど、この白いマットの上なら、死んでもいい・・・

 そういう思いが、噴火直前のマグマのように胸でドクドクたぎりだしていた。

 泣きそうなしかめっ面を演じて、咲桜は敵の方へよろけた。彼女の泣きべそを見た拳一の表情に、一瞬後悔の影が見えた。その隙を、研ぎ澄まされた咲桜の集中力と勝負勘は見逃さなかった。

 今だ・・・ 

 そう身体が叫んで、反射的に動いていた。

「オー」

 と叫びながら、左拳を顔面へ突き出しながら、左へスライドさせた。彼女の涙目は、その瞬間から生死を争う修羅の目に劇変していた。思った通り、拳一はとっさにそちらへ顔をずらしていた。その顎に、腰の入った左ストレートが炸裂した。その瞬間、その左拳が炎となり、グイッと回転した。そしてその炎は灼熱となって、咲桜の左腕から胸へ、胸から脳天へ、そして全身へと燃え上がった。彼女の内の奥底から、彼女自身も知らない恐ろしい闘神が目覚め、沸騰し、膨れ上がったのだ。

「ウオー」

 そのコンマ二秒後には、右のパンチが襲って来るのを察した拳一が本能で逆に避けた。

 だが咲桜の拳も右へ曲がるように突き出していて、続けざまに顎を砕いてブルッと凄まじく捻転した。

 拳一は何が起こっているのか理解できなかった。ストレートでもフックでも当たるはずのないはずのパンチが、逆方向へ曲がりながら伸びて来たのだ。しかも信じがたいスピードと威力で顎に衝撃を与えるではないか。脳がグワングワン揺れ、殺気を感じ、生存本能で青いグローブを顔の前に上げ、防御した。

「オーウオー」

 その刹那、桜の左の中段突きがバンバン音を立て、レバーに捩じり込むように二連発で食い込んだ。

 その痛みが身体を引き裂く前に、右フックが飛んでくるのが拳一のプロの眼には一瞬見えた。そして反射的に、必死で頭を下げた。

 だけどその右フックはフェイントだったのだ。

 膝を曲げて頭を下げた拳一の右脇腹の内側に、レバーブロー二連発の鈍痛が遅れて襲い、さらに身体が沈み込んだ。

「ウオー」

 その彼の無防備になった顎に、咲桜の飛び膝蹴りが絶叫とともに爆裂した。天性のバネに加え、刑務所での二千五百五十五日のトレーニングで強化された彼女の跳躍力は超人的となっていた。ゴンッとえげつない音がして、拳一は一瞬宙に浮き、身体をくの字にしたまま倒れ落ちた。受け身も取れず、頭がマットにドンッと叩きつけられてはねた。そしてもう、白目を剥いて動かなかった。

 あまりもの一瞬の劇攻に、リングの周りの誰もが目を疑った。技が速すぎて、どうしてホリケンがマットに沈んでいるのか理解できなかった。ただ「オーウオーオーウオーウオー」と連発された魔獣の叫び声と、乱れ太鼓のごとく続いた打撃音が、耳奥に怖いほど残っていた。

 小学生の女の子が一人しゃがみ込み、声を上げて泣きだすと、男の子も一人、ガクガク震えて泣きだした。

 二人の男がリングに駆け上って拳一を介抱し、専属の医師を呼んだ。

 我に返った咲桜が、彼の横にしゃがみ込んで謝った。

「ごめんなさい、ホリケンさん。あたし、どうしても負けられなかったの」

 拳一は胸をヒクヒク上下させて呼吸するだけで、それ以外何の反応もなかった。












 

 













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