9、あたし? あたしはしがない殺し屋さ
「さあ、いつものように、くわえておくれ」
高揚した男の声がバスルームに響いた。
湯けむりを蹴散らして、反り返った肉棒が血管もあらわにビクンビクン近づいて来る。
咲桜の頭に、昼間貞夫のそれを嚙んだことがフラッシュバックされた。口内で萎んでいく肉棒を死に物狂いで噛み千切った感触と生血の味が、歯にも舌にも鮮烈に残っている。貞夫の絶叫が耳の奥に今も響いている。
大きく目を見開いたまま逸らせない。息もできないし、心臓がバクバク痛んで気が変になりそうだ。身体じゅうが熱く火照ったまま動かせない。
「さあ、早く」
気がつけば、信治の手のひらが咲桜の丸い両頬に触れている。
そこから炎の血流が頭の奥へさかのぼった。
屹立した亀頭が唇に触れた瞬間、咲桜の野獣の本能が爆裂した。
「キャアアアアアアア」
バスルームを揺るがす咲桜の叫び声とともに、左右の正拳が機関銃のように八発、信治の腹に叩きつけられていた。彼女の拳の凶器は、信治の分厚い脂肪へもドスドスドスドス深く食い込んでいた。
「くうううう」
呻きながら、信治は土下座をするように咲桜の前に倒れ、泡を吹いた。
咲桜は湯しぶきを上げて全身ピンクに燃える身体を浴槽から出し、男の横をすり抜け、バスルームを出た。ネイビーの服とハーフパンツを、震える手で濡れたままの身体に身に着け、下着はポケットに入れ、寝室を通り、ダイニングキッチン、リビングルームを抜け、ピンクのスニーカを履いて玄関を飛び出した。
マンションを出て、煌びやかな明かりが溢れ始めた繁華街を無我夢中で駆けた。走っているうちに日が暮れたが、夏の気温と風切る走りで、濡れた体はしだいに乾いていった。
「れなのバカ、あんな年の離れた男と、何やってんだよ? でも、みんなみんな、あたしのせいなんだよね? あたしが、父さん母さんを死に追いやり、れなを男たちの餌食にさせたんだね?」
そう問いながら走った。
身体を限界以上に傷めつけたくて、めちゃくちゃに走ろうと思った。
だけど、私鉄の駅の近くで、ふいに立ち止まった。
商店街の歩道で、一人の女性が男二人に腕を引っ張られ、
「離してえ、離してください」
と泣きそうな声で叫んでいるのだ。
「うるせえ。黙ってついてこい」
と言うのは、夏なのに黒の革ジャンを着た背の高い男だ。
「わたし、キックボクシング習ってるんです。離さないと、痛い目に合いますよ」
と悲しい声で引きずられるのは、髪の長い痩せた美人だ。十代後半の娘だろうか、ピンクのミニスカートから伸びた細い足が、街灯りに映えてきれいだった。
アロハシャツの筋肉りゅうりゅうの男が、足を止めて言う。
「へーえ、だったら、このおれを、蹴るなり殴るなりやってみなよ」
革ジャンとアロハシャツに挟まれ、娘は泣きべそで言う。
「ケ、ケガしても、し、知らないから」
「死んでも文句は言わないから、ほら、殴れよ」
と言いながら、アロハシャツ男は娘の蒼ざめた頬をピシャピシャ平手で叩いて笑う。
周りの人は避けて歩き、誰も止めようとしない。
咲桜は足音荒く近寄り、その男の肩を叩いた。
「今の言葉、本当だろうね?」
アロハ男はギョロリ目を剝いて振り向き、眉間に縦じわを寄せた。
「はん? 何だあ、てめえは?」
睨み返す咲桜の眼力も、岩をも砕きそうなくらい半端なかった。
「まったくこの街は、性欲にまみれた汚い野郎の掃き溜めなんだな。あたしが掃除して、燃やしてやろうか?」
男は咲桜を頭から足先まで品定めするように見ると、剥き出た筋肉をヒクヒクさせてすごんだ。
「てめえ、いったい、何が言いたいんだ? てめえが、この女の代わりになってくれるのかあ?」
「そうだよ。だからおまえ・・」
と言いながら、咲桜は革ジャン男を指さし、
「その手を離して、そのこを自由にしてやりな」
高身長の男は、不敵に笑って言う。
「バカか、おまえ。このこを自由にさせたいなら、力ずくでやってみな」
咲桜も眼光鋭く笑った。
「いいのかい?」
「カモン、ベイビー」
娘をつかんでいない方の指で、男は手招きした。
咲桜は相手が思うより速く、革ジャン男に詰め寄っていた。そして左の拳を顔面へへ突き上げる動作をした。竜巻のような凄まじい勢いだ。驚いた男は、とっさに娘から手を離し、右のカウンターパンチを合わせた。だけど咲桜の突きはフェイントだったのだ。男の長いリーチの右拳を上体はひらりとかわしながら、咲桜の右足が閃いていた。ピンクのスニーカーのつま先が、体重の乗った長い左足に激突すると、脛骨が破壊される鈍い音が鳴った。革ジャン男はもんどりうって倒れ、「うぎゃあ」と叫び、劇痛のあまり歩道をのたうった。
咲桜はすぐに振り向き、アロハ男を睨んだ。
「次はあんただよ。あんた、殴られて死んでも、文句は言わないって言ったよね?」
筋肉質の男は、目を飛び出しそうなほど見開いて咲桜を見た。
「てめえ、いったい、何者だ?」
「あたし? あたしは、しがない、殺し屋さ。今宵のあたしは、とても虫の居所が悪くてね、悪いやつがいたら、八つ裂きにしたかったんだ」
そう言うと咲桜は、空手の突きや蹴りのシャドウで、空気を切り裂く音を派手に起こした。そして彼女が男の目の前へ飛び回し蹴りと背面回し蹴りの二連発でつむじ風を起こすと、その目にもとまらぬ恐怖に男は腰を抜かし、ひゃあひゃあ言いながら革ジャン男へ這った。そして腕を取って相棒を引き上げると、二人で逃げていった。
周囲の視線が咲桜を取り巻いていた。携帯で動画を撮る者も複数だ。
ヤバい、殺人犯のあたしが、こんなことしてたら、刑務所に逆戻りだ・・・
と咲桜は心で叫び、その場を去ろうとした。
なのに、
「待ってください」
と、ピンクのミニスカートの娘が呼び止めるのだ。
咲桜は振り返って、目を潤ませて見つめてくる彼女を見た。
礼を述べるのかと思ったが、
「あの、お姉さん、わたしを弟子にしてください」
なんて唐突に言う。
「はあ?」
首を傾げる咲桜に、娘は駆け寄り、涙が残る目を輝かせる。
「わたし、アマチュアですけど、キックボクシング習ってて、でも、試合に全然勝てないんです。あ、わたし、黛かおると言います。あの、ほら、あそこ・・」
と言って、薫は五十メートルくらい先のビルを指差した。
「あのビルの、一階と三階がキックボクシングのジムで、週二回、通ってるんです。ジムには、プロの選手も数人いらっしゃるんですけど、女性で、お姉さんみたいに凄い人はいません。だから、わたしを弟子にしてください」
そう言うと、彼女は右手を差し出しながら頭を下げた。
咲桜はその手を握ろうとはせず、
「ちょっと質問していいかな?」
と聞いた。
薫は上目づかいで咲桜を見つめ、
「ええ、ええ、何でも聞いてください」
と声が震えるくらい嬉し気に言った。
「その、キックボクシング、ってやつは、プロがいるんだね? ってことは、お金になるんだね?」
咲桜の瞳は怖いくらい見開いていた。
「え?」
「どれくらい、お金になるのかな?」
「え? よく、知りませんけど・・・あ、そうだ、世界チャンピオンになって、有名になれば、ファイトマネーはひと試合、一千万を超えることもあるって聞いた覚えがあります。わたしには、雲の上の話ですけど」
咲桜の目の色がみるみる変わり、ギンギラ光った。
別れも告げずに背を向け、ついさっき薫が指差した明るいビル街の方向に走り出していた。風を切り裂き、人込みを縫って走った。青信号を待って大通りを駆け渡ると、ビルの一階の広いガラス窓に【堀田キックボクシングジム】の大きな文字が浮き出ている。見上げると、三階にも【堀田K-1ジム】の看板が出ていた。
まだ化粧が少し残る頬を薄紅に染めて、咲桜は一階の受付へと飛び込んだ。
受付の向こうにパソコンが開かれたデスクが幾つか並び、男性二人と女性一人が座っていた。
「あのう・・」
太い声で呼びかけると、三十代の顔立ちの良い男が立って、近づいて来た。
「こんばんは」
と男は愛想よく言う。男の赤いネクタイが、白シャツに派手に浮き立っている。
「あのう・・」
と咲桜はもう一度言うが、言葉の続きが出てこない。
白い壁の向こうから、たくさんのミット打ちの音が聞こえている。
男は笑みを浮かべ、勧誘の言葉を並べた。
「入会希望の方ですか? うちに入会すれば、運動不足解消、ストレス解消、ダイエットも楽しくできるし、何より生活の充実感ができますよ。そのうえ、あなたはとてもツイています。今ならキャンペーン中で、一万円の入会金が何と無料なんですよ。よかったら、今からでも、一度体験なさってください」
咲桜の丸い頬の薄紅が、にわかに夕陽のように濃くなった。その火照る頬がぷるぷる横に振られ、燃えるような瞳が男を吞み込んだ。
そして咲桜は、どもりながらも、声を張って言ったのだ。
「あたし、あたし・・・あたし、世界チャンピオン、になる」
いきなりの宣告に、デスクに座る他の男女も目を丸くして彼女を見た。
トレーニング場にいた男女も、子供たちも、その大きな声を聞いてぞろぞろ出て来た。
「えっ?」
赤ネクタイの男の表情が困惑に固まった。
咲桜はもう一度声を張り上げた。
「あたし、世界チャンピオンになる。半年以内に、絶対チャンピオンになる。そして、このジムを、有名にしてみせる。だから、あたしを、ここで雇ってください」
咲桜の爆打つ心臓はマグマのように燃えているのに、周囲の空気は一瞬凍りついていた。
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