8、あたし、れなの身代わりになる

 玲奈の所持品のスマホが鳴った。長い着信音だ。画面には【長山悟】の名が。

 ここは医大七階の集中治療室。酸素マスクで呼吸する玲奈は意識不明だが、命に別条ないとの医者の診断だ。

 咲桜は玲奈のスマホを持って部屋を出た。廊下を歩き、非常用の扉を開き、階段の途中で電話に出た。

「はい、もしもし・・」

「もしもし、みくるちゃん、おれ、さとる」

 と男の声。

「みくる? 違いますけど」

 と咲桜は言う。 

「あれっ? 間違っちゃった? ごめんなさい」

 と言って、電話は切られた。

 咲桜の頭にクエッションマークがいくつも点滅した。

「あ、今の人、さとるって、名のったよ。画面にも悟って出ていた。てことは?」

 階段を上り、ドアを開けた時、また着信音が響いた。スマホ画面を見ると【新田健】の名が出ている。

 咲桜は再び階段を少し降り、電話に出た。

「はい、もしもし・・」

「もしもーし」

 ハイテンションだが、さっきより年配の男の声だ。

「はい」

「みくるちゃん、どうしたの? 昨日約束した店で待っているけど、今、どこ?」

「え? あの、ごめんなさい・・」

 何と答えるべきなのだろう・・・と咲桜は迷った。

 口ごもっていると、相手は急かすように言う。

「こちらから迎えに行こうか?」

「あ、いえ、あたし、みくるじゃないんです」

「またあ、その声、みくるちゃんの声だよね?」

「じつは、あたし、このスマホの持ち主の姉なんです。妹は、今、電話に出れなくて・・・あの、そちらは、妹と、どういう関係のお方なんでしょう?」

「えっ? ああ・・」

 動揺した声の感じだ。質問に答えず、電話は切られた。

 その時、別の着信音が鳴っていた。咲桜のスマホだ。画面を見ると【保護司、浜岡千尋】と出ている。

「はい、安藤です。こんにちは」

 と咲桜は挨拶した。

「こんにちは、浜岡です。安藤さん、家の準備はできてるけど、まだ来れないの? 待ってるんだよ」

 と千尋は言う。

「あ、そうだった。ごめんなさい。今すぐ、行きます。三十分くらいで着きますから」


 ナースステーションに、今日中に戻ってくるからと告げ、咲桜はエレベーターに乗った。

 待ち合わせ場所の宮隈駅前まで一里ほどだ。城跡が見えるけやき通りを、ピンクのスニーカーで軽やかに走り、広大な工場と高校の間の通りを駆け抜け、商店街を過ぎると、タワーマンションの向こうが新しいショッピングモールだ。その向こうの駅前ロータリーで一人の女が手を上げて振った。

 彼女が保護司の浜岡千尋で、咲桜と似た短い黒髪、顔は四角いが相手の心まで見抜くような強いまなざし、中肉中背の四十半ばの女性だ。服の色は咲桜と同じようなネイビーだが、裾の長いワンピースを着ている。

 咲桜が駆け寄って行くと、

「安藤さん、一時間の遅刻よ」

 と恨めしそうに言いながら、小さな青いポーチを差し出した。

 咲桜は頭をぺこりぺこり二度下げた。

「すいません・・・これは何ですか?」

「わたしからの、出所祝いよ。あんた、まだ、化粧なんて知らないでしょ?」

 そう言って、千尋は意味ありげに笑った。

「あたし、化粧なんて、しないと思いますけど・・・あ、ありがとうございます」

 咲桜はもう一度頭を下げる。

「いつか必要な時が来るかもよ。それより、わたしも忙しいのに・・・どうして遅れたのよ?」

「すみません。大変なことが起きちゃって」

「え? 大変なことって?」

 千尋の瞳が恐怖を見た猫のように丸く見開く。

 その目に呑まれそうになりながら、咲桜は説明した。

「妹の玲奈に、会えたんです・・」

「え? 施設を抜け出して、行方知れずの妹さんに会えたの? 出所してすぐに会えるなんて、そんな偶然ある?」

 千尋の目は、わたしに嘘は通用しないよ、と光っている。

「でも、交通事故にあって、一緒に救急車で病院に行って・・・命は大丈夫らしいんですけど、意識がなくて・・」

「まさか、そんなことってあるの? でも、あんたの目、嘘はついてないようね。だったら、急がなくちゃね。さあ、早く車に乗って」


 空色のスペーシアの助手席に乗って、新しい住まいへ向かった。

 車は神社横の通りを抜け、大河を渡る橋へ昇った。キラキラ揺れる懐かしい故郷の川を見下ろしながら渡り切り、マンションも建ち並ぶ住宅街へと下った。そこから二キロほどで左折し、細い道を太陽の方向へ目を細めながら進んだ。

 田畑の手前の、六棟並ぶ築五十年ほどの平屋の一番奥が、保護司が準備した家だった。

 二部屋もあり、エアコンもあり、照明も水道もガスコンロも洗濯機も箪笥もあった。どれも使い古しのようだが、刑務所暮らしが長かった咲桜には夢のような新居だ。押し入れには質素な敷布団と毛布があって、それは新品のようだ。

 押し入れから飛び出したゴキブリをスリッパで叩きながら、千尋は言う。

「ごめんね、こんな古い家しか借りれなくて。でも、ここは、家賃安いし、あんたの職場に歩いて行けるんだ」

 咲桜は窓を開け、大きなクモを追い出しながら言った。

「いえ、ありがとうございます。家も仕事も準備していただいて、このご恩は忘れません。ただ・・・何でもしますので、もっと給料の高い職場をお願いできませんか。入院代は妹をはねた車の保険から出るかもしれないけど、妹を高校とか大学に行かせたいんです」

 すがるような目で咲桜が見るので、保護司は目をそらした。

「わたしは与えられた仕事をやっているだけだから、それ以上は自分で何とかしておくれ。それに、あんたの妹さんがいた施設の話だと、妹さん、高校には入ったものの、一学期の途中で問題起こして、休学処分を受けてるそうじゃないの」

「問題って、どんな?」

「はっきりとは分からないけど、パパ活、って言うのかな、たぶん・・」

「え? パパ活って、何ですか?」

「七年も刑務所にいたら、知らないのかな。昔なら、援助交際って言ってた。そういうやつさ。さあ、予定よりずいぶん時間が過ぎちゃってるから、急ぐよ。お次は、明日から働く職場を案内するからね」

 そう言うと、千尋は先に家を出た。

  

 保護司が紹介したのは、近くの工業団地にある織物工場だった。刑務作業の経験が生かせる仕事で、贅沢しなければ一人で暮らせる収入が得られる。だけど玲奈を養うには足りなかった。


 平日の夕方からと、土日に働ける職を探そう・・・そう心に決めて咲桜は病院へ戻ろうと通りを駆けた。

 城跡が見えた時、電話が鳴った。咲桜の携帯の着信音ではない。玲奈のスマホを持ったまま外出していたのだ。

 走りを止めて、画面を見ると、【牟田信治】の表示だ。

 歩きながら電話に出た。

「はい、もしもし・・」

「わたしだ。夕方六時、マンションに行くよ。大丈夫?」

 かなり年上の男性の声だ。

「え? あ、あのう・・」

 咲桜は何と言うべきか迷った。

 相手は黙って答えを待っている。

「あの、医大に、来れますか?」

「医大? 宮隈医大? なぜそこに?」

「あの、知り合いが、入院してて」

「オーケー、じゃあ、六時に、医大前のローソンでいい?」

「分かりました」


 医大七階の集中治療室に戻り、濡れタオルで目覚めない玲奈の汗を拭いた。

 いつのまにこんなに大きくなったのだろう。玲奈はすでに咲桜と変わらない体の大きさで、胸のふくらみは咲桜より大きく見える。


 約束の夕方六時の三十分前に、咲桜は意を決して千尋にもらった青いポーチを開いた。

 オレンジのルージュ、ネイビーのアイシャドウ、そしてファンデーションが入っている。

「こんなの、あたしが使う訳ないじゃん」

 と言いながらも、鏡を見て、顔にも首にもファンデーションを厚く塗った。

 アイシャドウも、ルージュも、しっかり塗った。


 医大前のローソンへ歩くと、すでに駐車している白いレクサスの窓が開き、茶髪の男が片手を上げた。

 咲桜は戦場の最前線に乗り込む気持ちで反対へ回り、助手席の扉を開けた。

「あの、乗ってもいいですか?」

「当り前じゃないか。早く乗りなさい」

 と男は言う。

 人目を気にしている様子だ。

 咲桜が乗り込むと、すぐに発進した。

「みくるちゃん、化粧なんて初めてだね。そんな化粧、どこで覚えたの?」

 チラチラ咲桜を見ながら、男は運転する。

 髪を明るく染めているが、六十代の年配のようにも見える。ホームベース型の顔で、俳優になれそうなくらい目鼻立ちが整っている。昔は女性にモテただろう、身長も高いし、優しい紳士のオーラもある。白い半そでシャツに黒のスラックス、そして濃茶のスニーカーのどれにも隙が無い。何より香水の匂いが気品あって心地よいのだ。

「牟田さんのために、化粧しました。変ですか?」

 と咲桜は言う。いつの間にか頬が熱いが、化粧のおかげで目立たないかもしれない。

「牟田さん? いつものように、しんじ、でいいよ。化粧は、変じゃないけど、別人のように大人びて見えるよ。まあ、みくるちゃんは、二十歳ってことになってるから、化粧もいいかも。魔性の女っぽいよ」

 そう言うと、信治はハンドルから左手を離し、咲桜の膝の上の手を握った。

 咲桜は一瞬ピクッと肩を震わせたが、何とか手を引かずに我慢した。それでも指を絡ませてくるので、心臓が異常に鳴りだし、息もできず、声も出せず、手に汗がにじむのを覚えた。

 この男は、れなの何なんだ? れなは、いつも、こんなことしてるの?

 と心が叫んだ。


 十五分ほどで、地下駐車場のある大きなマンションに着いた。

「どこへ行くのです?」

 と車を降りずに咲桜は聞いた。

「みくるちゃんのルームに、決まってるだろ? わたしがみくるちゃんに買ってあげたマンションだよ」

 と信治は首を傾げて言うと、先に車を降りた。


 エレベーターで十階まで上った。

 1003号室が玲奈の住処らしい。

 どうすればいい? 鍵を持っていない・・・

 と咲桜は戸惑った。

 だけどそれは杞憂にすぎなかった。

 信治が暗証番号を嬉しげに押して、ドアを開けたのだ。

 中に入ると、いきなり十二畳のほどのリビングルームだった。見たこともない超大型テレビがあって、高級なソファがある。広い窓からは街が見下ろせる。その奥のダイニングキッチンを通り、信治は咲桜の腕を引いてふかふかのダブルベッドのある寝室へ直行した。

「夕食の前に、気持ちいいことしなくちゃね」

 そう言って、咲桜を軽々と抱き上げた。

「キャッ、ダメダメダメ」

 と咲桜は甲高い声を出していた。

「どうしたの? 今日は、いつもと違うじゃない」

 と言って、信治は黒髪にキスをした。

 それだけで咲桜は心臓が止まりそうになり、涙ぐんでいた。

「ごめんなさい。あたし、今日は、いっぱい走って、あ、汗臭いの」

 信治は笑いながら咲桜を下ろした。

「オーケー、じゃあ、先にお風呂に入って」

 と言って、隣のバスルームへ行き、浴槽に湯を入れた。

 湯がたまるまで、冷蔵庫からアイスクリームを出して食べた。専門店の果肉たっぷりの最上級イチゴアイスだ。

 それから咲桜は一人で風呂に入った。一人では大きすぎるくらいの贅沢な浴槽に足を伸ばすと、悲しいほど自由な気分になった。

 あの、しんじって人とうまくやれば、れなを高校に通わせるに違いないわ・・・

 と湯船で温まりながら咲桜は思い巡らせた。

 それどころか、大学にも行かせれる。あたしができなかった青春時代を、れなには送らせなきゃ・・・だって、れながこんな、体を売って生活してるのは、みんなあたしのせいだもの・・・そうよ、あたしさえ、我慢してこの人につくせば・・・あたし、れなのために何だってするって決めたの・・・だから、れなの代わりに、あたしなんか、どうなってもいいの・・・あたし、れなの身代わりになる・・・

 そう決意した時、ふいにガラガラ音が聞こえた。バスルームの扉が開いたのだ。

「え?」

 目を丸くして横を見た。

 湯けむりの向こうから、咲桜の二つの目に飛び込んできたのは、素っ裸の男の激昂した肉棒だった。

 
















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