7、どうしてあたしなんかを?
咲桜が山田貞夫のマンションを出た時には、早くも救急車のサイレンが聞こえてきた。
三人のいかつい男たちも、泡を吹く貞夫を抱えてエントランスを出て来た。貞夫の呻き声は風にまぎれるくらい低くなっていた。
「何だよ? さくら、もう出てきたのか?」
不意の声に咲桜は目を丸くして横を見た。
隣の家の塀の裏から、娘が顔を出している。咲桜に似た丸顔に大きな目・・・六歳下の妹、玲奈だ。
咲桜は彼女に駆け寄り、腕を取って、男たちの目の届かない細道へ引っ張り込んだ。
「れな、どうしてここに?」
と聞きながら、草の生えた土の道をぐいぐい引いて行く。
「決まってるだろ? さくらが地獄に堕ちるのを確かめに来たんだ」
と濁った声で言いながら、玲奈は裏道の途中で立ち止まり、腕を振り切った。
そして悲しそうに見つめるだけの姉に、こう続けた。
「さくら、ひどい顔だな。口の周りのそれ、血だよな? でも、こんなに早く出てきたってことは・・・あいつらに、犯られていないのか? さだおのやつ、死にそうな様子で運ばれてきたけど、さくらがやったのか?」
咲桜はポケットから喰い千切った戦利品を取り出し、玲奈の胸へ差し出した。
傍らの塀の向こう、屋根瓦の上のカササギが、首を傾げてそれを見ていた。
玲奈は血まみれのそれを、眉間に縦じわを寄せて見つめた。
「何だよ? この、変なの?」
「れなへの贈り物だよ。焼くなり、煮るなりして、食べちまいな。それで、恨みを晴らすんだよ」
そう言う咲桜の手は小刻みに震え、大きく見開いた瞳は潤んでいた。
「はあ? どういうことだよ?」
「れな、小学生の時、あいつに・・山田さだおに、犯られちまったんだろ? それで、地獄に堕とされたんだろ? だから、お姉ちゃんが、仇を取ってやった。おねえちゃん、あいつを、もう一生、悪さできない体にしてやったからね。だかられなはもう、仕返しする必要ないんだ。これを食べて、恨みを晴らしておくれ。これからは、あたしと、あいつらの戦争なんだから、れなは関わっちゃだめだよ」
玲奈の瞳も、姉につられ大きく見開いて潤んだ。
「はあ? これって、もしかして・・・あいつの・・」
「あいつは、おれのバナナって言ってたけど、こんなに萎んじゃ、ただのウインナーだね。あいつが、くわえろ、なんて言うから、れなの恨みを晴らすために、噛み切ってやったんだ。新鮮なうちにお姉ちゃんが焼いてあげるから、れな、食べなよ」
咲桜の目は、狂おしいほど真剣だった。
その炎のような思いから遠ざかるように、玲奈は一歩、二歩、後ずさった。
「さくら、何言ってるのか、自分で分かってるの? 頭、おかしくなった? 刑務所で、狂っちまったのか?」
咲桜は血に汚れた手を差し出したまま、懸命にほほ笑んだが、ただ丸い顔が悲しくゆがんだだけだった。
「七年前、人を殺めてしまってから、あたしは地獄に堕ちてたんだ。それからずっと、ずっと、頭も心も狂ったままさ。でも、れなには、何の罪もないじゃないか。だから、どうか、れなはあたしの代わりに、まともな高校生活を送っておくれ。そのためなら、あたし、れなのために何だってする。そのためにあたし、ここに戻ってきたの。忘れないで・・・世界中の誰もかもがあんたの敵でも、お姉ちゃんだけはれなの味方だよ。誰もがあんたに石をぶつけ、矢を放っても、あたしがあんたの盾になる。そうだ、あんた、あたしに復讐するって言ったよね? だったら、あたしを奴隷みたいに、死ぬほどこき使って、あんたは幸せになりなよ。それが、一番の復讐だろ?」
そう言って近づいて来た手のひらから、玲奈は血生臭い肉片をもぎ取り、姉の顔に投げつけた。貞夫の身体の一部は、咲桜の頬に血の跡を残し、草の隙間に落ちた。
「さくら、ほんとに頭がイカレちまったんだね。気持ち悪いよ。もう、金輪際、あたしに近づかないでえ」
と金切り声をぶつけると、背を向けて走り出した。
すかさず咲桜は追いかけた。
草むらに残された貞夫の肉片の近くへ、カササギが舞い降りた。ピョンピョン跳ねて近づき、クチバシで突く寸前、キジトラ猫が竜巻のように突っ込んで来て、それをくわえた。そして好敵手を「ウーウー」うなって威嚇し、持ち去った。
咲桜は走りながら、妹に呼びかけていた。
「ばかだね。あたしにランじゃ勝てないよ。刑務所でも、毎日一時間以上走り込んでいたんだから」
「キチガイ、キチガイ」
と声のキーを上げて玲奈は叫ぶ。
玲奈も姉に負けず劣らず陸上選手並みの走力だ。理想的なフォームで腿を上げ、腕を振り、神社の裏の坂道を駆け降りる。住宅街を駆け抜け、田圃道を突っ切る。
だけど咲桜は離されない。見失うくらいなら、死んだ方がましなのだから。
「れな、絶対逃げられないんだから、あきらめな」
と大声で告げる。
「絶対逃げてやる」
と玲奈も負けず嫌いの声を出すが、息が切れてるのが分かる。
捕まえるのも時間の問題だと、咲桜は思う。
だけど彼女の知らない新興住宅街へ玲奈は入り、迷路をくねくね曲がりながら逃げるのだ。
そしてまた角を曲がり、コンビニの前の赤信号を、車を擦り抜けて渡り、どうだ、参ったかと、玲奈は振り返った。
それでも姉は夢中で追って来る。玲奈を見失わないことに心奪われ、車も信号機も目に入っていないようだ。すぐ横に黒い車が迫ってる。急ブレーキの音が響いたが、止まれる距離ではない。玲奈の身体に稲妻に似た電流が爆裂した。そして姉と同様のたぐいまれな反射神経と運動能力で動いていた。
「え?」
と横を向いた姉の腰へ、玲奈は飛び込むようにぶつかって押した。
押し倒された咲桜の足をかすめて黒い車体が襲った。バンッと音が弾け、眼前で妹が飛ばされるのを、咲桜は飛び出しそうな目で見た。一瞬の出来事なのに、スローモーションのように妹は宙を移動して、弧を描き、アスファルトに叩きつけられた。その身体へ黒い車が迫っていく。絶叫が咲桜から奔出した。仰向けの玲奈をタイヤが轢く寸前で車は止まった。
濁音混じりで「あー、あー」叫びながら咲桜は玲奈に駆け寄った。そしてうずくまり、フロントバンパーの下にもぐった彼女の上体を引きずり出して抱きしめた。
「れなあ、大丈夫? ねえ、返事してよ。れなあ、どうして? どうしてあたしなんかを? ねえ、れなあ・・」
どんなに必死に呼びかけても、しゃくりあげ泣き叫んでも、玲奈の半分白目を剝いた目は何も見ていず、その脱力した身体はピクリとも動かなかった。
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