5、監獄出れば故郷は地獄?
「さくら姉御、あたいのせいで、迷惑かけて、すまねえ、です」
咲桜の手を痛いほど握り、囚人服の柳井夢が蛇口を開いたように涙を流す。
ネイビーブルーの私服に着替えた咲桜の目もうるんでいる。
「もう、姉御って呼ぶのはやめてって言ってるでしょ。ゆめさんの方が、二歳も上なんだから、呼び捨てでいいよ。それに、迷惑だなんて、あたし、あなたがいなかったら、両親の後を追っていた。父さんも母さんも、あたしのせいで何もかも失って、自殺したんだから」
夢は細い目をいっぱいに開けてぷるぷる首を振った。
「さくら姉御が、あいつらをやっつけてくれなかったら、あたいこそ、自殺するか、あいつらに殺されるしかなかったんだ。でも、そのために、姉御、刑期が伸びてしまって・・・このご恩は、いつか必ず返しますからね」
咲桜も同じように首を振る。
「あたし、人を殺してしまったんだよ。いくら十六だったとはいえ、人を殺して、自分だけ生きて、たった七年で社会復帰するなんて、相手の家族に申し訳立たないんだ」
「出所して、これから、どうされるんです?」
「みんなに後ろ指さされても、地元の宮隈市に戻らなくちゃ。妹がいるからね。れなっていうんだ。いつもあたしになついていてね、とてもかわいかった。でも、今、十六歳の大事な思春期なのに、あたしのせいで、惨めな思いしてるかもしれないんだ。だとしたら、あたしが何とかしてあげなくちゃ。ゆめさんは、もう心配いらないよね? あたしよりずっと体でかいんだから、もう、いじめられちゃ、だめだよ」
夢は空手の左右の突きと、上段蹴りで空気を切り裂いてみせた。
「もう四年もさくら姉御に鍛えられたんですよ。今じゃ誰もあたいにちょっかい出せませんよ」
と彼女は笑ったが、咲桜の電光石火の中段突きをみぞおちに受け、「キャア」と悲鳴を上げた。
「まだまだ隙だらけなんだよ。これからも毎日トレーニング続けなきゃだめだよ。ゆめさん、すぐに太っちゃうからね」
と言う咲桜の脇腹へ、夢は得意の左中段蹴りで返したが、忍術のようなステップで軽くかわされた。
「あたいが出所したら、またさくら姉御の弟子になれるように、毎日体を鍛えています」
と言いながら、夢は続けて右上段蹴りを放ったが、もうそこに咲桜はいなかった。
「あねごー・・・さくらあねごー・・・カーム・バークッ・・」
夢の呼ぶ声を背に、咲桜は女子刑務所を後にした。
七年ぶりの宮隈駅前には、大規模のショッピングモールができていた。土曜の午後なので、広い駐車場も満車に近い。
ピンクのスニーカーで懐かしい町を走り抜け、まず訪ねたのは、かつて自宅だった場所だ。
安藤典道極真空手道場は、跡形もなく、そこには四階建てのマンションが建っていた。
「何なの、これ? おかしいよ」
というのが彼女の帰省の第一声だった。
近くの大池公園へ行くと、洪水対策の地下調節池の工事中で、高い壁に囲まれている。遠回りして下川翔の家へと走った。
「何なの、これ? おかしい、おかしい」」
下川木工所も消えていて、その跡地は、一階が駐車場の四階建てのビルとなっていた。
【山田質店】の黄色い看板が目立っている。
エレベーター横の階段を駆け上がり、店内へ入った。二階は質流れ品の売り場だ。
レジの若い女性店員に尋ねてみた。
「おのう、この店って、いつ頃できたのでしょうか?」
唐突の質問に戸惑う視線を咲桜へ向けた店員の目が、ふいに丸くなった。
「あれっ? 安藤さん・・」
「えっ?」
咲桜は彼女の胸の名札を見た。
長野、と記されている。
「長野? え? 長野あゆみ? 中二の時、同じクラスだったあゆみちゃんだよね? わあ、久しぶり」
咲桜は微笑もうとしたが、歩美の顔はこわばっていた。
「久しぶりじゃないわよ。友だちだと思われたら、困るでしょ。あなた、人を殺しておいて、何でここにいるの? まさか、近くで暮らしてないよね?」
「あ、ごめんなさい」
咲桜は頭を下げ、店を出た。
階段を下りながらつぶやいた。
「七年たっても、この町じゃ、あたし、今も殺人犯なんだ。でも、あたしのことなんて、どうだっていい。しょうは? しょうは本当に遠くへ引っ越して、もう戻ってこないの?」
彼女の声はしだいに引き攣ったような泣声になった。
彼女が階段を下りた時、駐車場に入った黒のアルファードから、強面の男たちが出て来た。スキンヘッドの大男に、角刈り黒髪の男、そして茶髪の男だ。三人とも三十歳前後に見える。最後に黒い帽子の体の大きな五十歳代の男が車を出た時、運命のいたずらか、咲桜はその事件を眼前で目撃した。
別の車の陰に隠れていた娘が、つむじ風のように飛び出し、
「山田さだおー」
とうなりながら、鉄の棒を振り上げ、黒帽子に叩きつけたのだ。
直撃したら致命的だったが、男が「ひっ」ともらしながら腰を抜かしたため、鉄棒は耳をかすめ、肩に鈍い音で食い込んだ。
先にエレベーターへ向かっていた三人の男が、血相変えて娘に飛びかかり、彼女の二発目をぎりぎり防いで、鉄棒を奪い捨てた。そして必死にもがく娘を二人がかりで取り押さえると、スキンヘッドの男が顔面を殴った。強烈な一打だったが、娘の右足が一閃し、その男の顎に蹴りを返していた。
咲桜の背筋を電撃が貫いた。それは彼女の父、典道の上段蹴りに似ていた。
普通の男性だったら意識が飛びそうな一撃だったが、レスラーのように強靭なスキンヘッドの男は、目を吊り上げて顔を真っ赤にし、身動きの取れない娘の腹に「クソがあ」と怒りの鉄拳を撃ち込んだ。
娘は「くうう」と呻きながら、口から赤い唾を吐き出した。顔を殴られた時、口の中を切ったのだろう。彼女は、昨日、五十歳代の裕福な男を誘惑した、あの【みくるちゃん】と呼ばれていた娘だった。今日は、グレーのシャツとハーフパンツ姿だ。
スキンヘッドは、鉄の棒を拾うと、
「さあ、お仕置きの時間だぜ。おれの顔を蹴ったそのイケナイ足、叩き折ってやろうかあ」
と、地獄の底から湧き出るような声で告げると、娘ににじり寄った。
咲桜は夢中で動いていた。忍者のように素早く駆け寄り、振り上げられた手にビュッと風切り音を発する上段蹴りをぶち当てた。鉄棒が吹き飛び、驚いたスキンヘッドが振り返った瞬間、飛び膝蹴りが顎を突き上げた。
「何だあ、てめえは?」
と娘を取り押さえている男の一人が叫んだ時、スキンヘッドが目を剝いて崩れ落ちた。
咲桜の身体は止まらなかった。胸の中は血潮がバクバク沸騰していたが、頭は的確な攻防を瞬時に計算していた。一瞬で娘に近づくと、二人の男の脛を機関銃のような連射で何発も蹴った。
男たちが足を抱えてのたうつ隙に、咲桜は娘の左腕を引いた。
「さあ、逃げるんだよ」
そう言って娘の顔を見た瞬間、顎に強烈な正拳を受け、脳が激震した。
娘が右拳で殴ったのだ。
咲桜は片膝をつき、二重にぼやける娘を睨んで問う。
「何でえ?」
娘は咲桜の手を振り払って、睨み返すと、錆びたナイフのような声を出した。
「さーくらー、さくらだね? 間違いない、さくらだ。ここで会ったが、百年目、わたしはね、あんたと、この山田さだおに復讐するためだけに、今まで生き延びてきたんだ」
「えっ? どういうこと?」
咲桜は娘の顔を確かめようとしたが、まだ脳が揺れている。
ただ聞き覚えのある声が頭に響いてくる。
「はあ? どういうことだってえ? あんたのせいで、父さんも母さんも、この男にすべてを奪われ、死ぬしかなかったんだ。そしてわたしはまだ小学生だったのに、こいつに犯された。だから、わたしが死ななかったのは、あんたと、この男に復讐するためなんだよ」
咲桜はブルッと頭を二回振って、意識を回復させようとした。
「えっ? えっ? ってことは・・・あなたは、もしかして、れな? れな、なの?」
「チッ、わたしはひと目で気づいたのに・・」
「ああ、れななのね? こんなに大きくなって。よかった。あたし、れなに会うために、ここに戻ったんだよ。それより、何だって? この男に、小学生の時、犯されたって? どういうこと?」
視力が戻った咲桜は、近づいて来る黒い帽子の男を見た。
身長百八十センチ以上はある男で、血走った細い目で毒を吐くように咲桜を睨みつけている。
「安藤さくら・・・安藤さくらなんだな? おまえ、おれの大事な一人息子を殺しておいて、もう刑務所出て来たのかあ? 息子のすぐるは、もう生きることができないのに、何でおまえがここで生きているんだあ?」
とどろどろに濁った声で問う。
その角ばった顔に、何度も悪夢に出て来た山田卓の面影が重なり、咲桜の身体はどうしようもなく震えた。
その狼狽を貞夫は見逃さなかった。肉食獣のように距離を詰めると、右手で咲桜の胸倉をつかみ上げた。
「あやまれや。そしてどう責任を取るのか、今、はっきりさせろや。この場所は、人目があるから、これからおれの家に来てもらおうか。いいよな? 人として、責任取るよな? おい、野郎ども、車を出すから、さっさと立たんかい」
貞夫は咲桜を黒のアルファードへと引きずった
そしてリモコンキーで開かれた後部ドアから彼が引き込み、茶髪の男が座席へ押し込むと、二人で咲桜を挟んで座った。
咲桜はまだ開いているドアの向こうの玲奈に叫んだ。
「れな、施設に帰らないって話を聞いてるけど、本当なの? ねえ、今、どこに住んでるの?」
玲奈は燃えるような目で姉を見つめていた。
「ばかだね。あんたや、そいつらに、教えるわけないだろ。わたしの代わりに、そいつらがあんたに復讐してくれそうだから、わたしは嬉しいよ。さくら、わたしみたいに、地獄へ堕ちろや」
そうゆがんだ口で言い放った時、ドアが自動で閉じられた。
スキンヘッドの大男が角刈りの男の手を借りて助手席に乗り込み、角刈りの運転で黒の高級ミニバンは駐車場を出た。
「れなあ、また会えるよね? 必ず会いに行くからねえ」
遠ざかる車からもれる姉の絶叫を睨む玲奈の目が、しだいに壊れていった。
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