3、別れの日、二人は会えたの? 【その2】

 現代的建築の校舎が並び「我、ここに在り」と謳う奥、老朽化が目立つ校舎がゆがんだ月に無言で晒されている。

 その下に、人々が集まっている。

「生徒が死んだんだって・・」

 と誰かが話している。

「この学園の男子らしいよ・・」

 と声がもれている。


 自殺なのか、事故なのか。あるいは殺人事件?


 私服姿の二人の男性刑事が古びた校舎に入ると、闇を下って来る足音が聞こえた。人間の足音にしては、不規則で弱弱しい。耳を澄ますと、女の泣声も降りて来る。幽霊のような、異常な啜り泣きだ。

 男の一人が照明をつけて見上げると、階段の上の方で制服の娘が目を剝いて立ちすくんだ。

 二人は獲物を見つけた猟犬のように娘の元へ駆け上がった。

 行き場のない子猫のように涙目で震えるのは、細身で丸顔、短めの黒髪の大きな目の娘だ。

 茶色のコートを着た中年の西洋顔の男が、手に持った物を差し出し、唐突に尋ねた。

「このスマホは、あなたのですか?」

「え? あれっ? ど、どうして?」

 と痛々しい声で問いながら、娘はスマートフォンを手に取って、震える指で傷ついた画面を開いた。

「どうして、これを?」

 ポロポロ涙をこぼす目で男を見つめ、血の跡が残った唇を噛んだ。

 男は喰いつきそうな目で見返し、確認する。

「あなたは、安藤さくらさんですね?」

「どうして?」

 咲桜の声は、震え、かすれて消えそうだ。

 男はポケットから何やら取って、娘の目の前に出した。

 警察手帳だ。

「わたし、宮隈署の二宮です。お話を聞かせてもらってもいいですか?」

「け、警察・・」

 と口ごもる娘の唇の血と、紫に腫れた左頬から顎を、二宮は舐めるように見つめている。

 彼の後ろの紺のセーターの長身の青年が口を開いた。

「二宮さん、そのこ、安藤さくらさん、なんですか?」

「何だい? 高倉くん、このこを知っているの?」

 と二宮は娘を観察したまま聞く。

 高倉は二宮の横に進み上がって、咲桜に笑顔を向けた。

「知ってるも何も、まだ高一なのに、空手の組手で全国制覇した有名人ですよね? 女優の安藤サクラと同じ名だから、名前、覚えちゃったんですよ。テレビでもインタビュー受けていたよね? ああ、ほんとに、安藤さくらだ。あれっ? 顔、ひどく腫れてるじゃない。だいじょうぶ? それ、どうしたの?」

 咲桜は何か言おうとして、言葉を呑み込むように首を振った。

 二宮刑事が言う。

「ここは寒いし、ゆっくり話を聞きたいから、ご同行願えますか?」

 咲桜は悲しみこぼれる瞳を彼にぶつけ、もう一度首を振る。

「あたし、行かなくちゃ・・・今じゃないと、だめなんです。どうしても、行かなくちゃ」

 ぴょこっと頭を下げ、二人の横を擦り抜けようとする。

 二宮が、彼女の細腕を問答無用の力でつかんだ。

「人が死んだんです。そこに、あなたの携帯が、落ちていたんです」

「え? 死んだ? あいつが? あ、あたしが、こ、殺した?」

 虚ろな目をしてふらつく娘を、二人の警官が支えた。その時彼女の汗まみれの首に手が触れた高倉が、二宮に告げる。

「このこ、ひどい熱ですよ。顔色もひどいし、頬もひどく腫れてるし、汗も・・」

 高倉の心配を遮って、二宮はむさぼるような目で咲桜を問い詰めた。

「殺した? あなたが? あなたが、殺したんですね?」

 咲桜は階段から転げそうな勢いで身をよじった。

「お願いです。行かせてください。一時間以内に、戻って来ますから。必ず戻って来ますから。どうか、行かせて、ねえ・・」

 悲痛な涙目で二宮を見つめ、金切り声をあげた。


 パトカーの後部座席で、咲桜は事情聴取を受けた。

 山田卓の遺体は、専門の職員の鑑定検査を終え、運ばれて行った。

 泣くばかりの娘から、ようやく屋上での出来事を聞き出し、高倉が他の制服警官と現場へ向かった。

 後部座席の隣に座る二宮が、重い口調で咲桜に言った。

「あなたが彼を屋上に呼び出したんだよね? どんな事情にせよ、空手有段者のあなたが、空手の技を使って、結果、相手が死んだんだよ。重い罪だってこと、分かるよね?」

 すでに涙は涸れて、咲桜は精気を失った虚ろな目をしていた。

 ふいにドンドン窓ガラスが叩かれ。彼女の横のドアが開かれた。

「お姉ちゃん」

 と子供の声が呼んだ。

 妹の玲奈だ。

「さくら、無事なの?」

 と母の陽葵の声も響いた。

 二人の後ろには、父の典道もいる。

「れな、お母さん、どうしてここに?」

 と咲桜はこわばった顔で問う。

 陽葵が娘の目をじっと見つめて言った。

「下川くんが、二度もうちへ来て、さくらに緊急の用があるって言うから、さくらに電話したのよ。そしたら、高校で、事件があったって聞いて、急いで来たの。あれっ? さくら、何で頬が腫れてるの? 目も赤いし。それに、どうして? どうしてパトカーに乗ってるの?」

 咲桜の目の色が変わっていた。母の問いには答えず、射すように見つめ返して、

「しょう、が? 家に二回も来たの? 緊急の用って?」

「分からないけど、深刻そうというか、必死な感じだったわ」

 陽葵はそう告げると、娘の奥に座る茶色のコートを着た男に視線を移し、話しかけた。

「すいません。もしかして、警察の方ですか? 娘はどうしてここに?」

 中年の男は丁寧に会釈して応えた。

「こんばんは、わたし、宮隈署の刑事の二宮です。安藤さくらさんのお母さんですね? 実はこの学園の生徒が心肺停止で発見されまして、この事件に娘さんが関わっていますので、お話を伺っています」 

 陽葵はもう一度娘を見つめた。

「事件に関わってるって、さくら、何があったの?」

 咲桜はぶるっと身震いし、訴えるような潤んだ目で母を見た。

 そして途切れ途切れ、口ごもりながら言う。

「お母さん・・・ごめんなさい・・・あたし・・・ずっと、トイレ、我慢してるの・・」

「えっ? ああ・・・刑事さん、何でトイレ、行かせないんですか?」

 腹立たしそうに聞く陽葵に、二宮は落ち着いた口調で言う。

「今、事件の捜査の途中ですので・・」

 彼の冷静さが、かえって陽葵の怒りの炎に油を注いだ。

「だから、何です? さくら、泣きそうじゃないですか。病気になったら、どう責任取るんです? ほら、さくら、出ておいで」

 手を引いて、陽葵は娘をパトカーから出した。

 ふらつく咲桜の左腕を母が支え、校舎の横のトイレへ歩いた。

 玲奈も「お姉ちゃん」と呼んで、咲桜の右腕に抱き着いて支えた。

 二宮刑事がその後を追うと、典道に腕をつかまれ、引き留められた。

「ん? あなたは、誰です?」

 と言って二宮は腕を払おうとしたが、不思議なことに身動きが取れない。

「わたしは、さくらの父ですが、なぜ、娘を追いかけるんです?」

 と典道は悠然と問う。

「逃走の可能性があるので」

 と二宮が答えると、典道の太い右眉が吊り上がった。

「はあ? わたしの娘は罪を犯す子じゃないし、逃げたりする子でもありませんよ」

 トイレの前では、咲桜が母と妹を叫ぶように見つめ、小声だが意思の固い声で告げた。

「お母さん、れな、ごめんね。あたし、どうしても、行かなくちゃいけないの。一時間で、戻って来るから。だから、お願い。あたしは、ずっとトイレに入っていることにして」

「え? 何で?」

 驚いて引き留めようとする陽葵を振り切り、咲桜はトイレに入るとすぐに反対側から飛び出して行った。忍者のように足音をひそめ、小走りで駆け去った。

 陽葵が振り返ると、刑事は夫に腕を取られて何やら言い争っていた。

「公務執行妨害・・」

 だとか、

「上等だ・・」

 とか、不穏な言葉が飛び交っていた。


 修明学園から翔の家まで二キロ弱だ。

 いつもの咲桜の足なら七分もあれば走れる。

 だけど今宵は手負いの獣のように幾度も転んだ。視界が赤黒く染まって斜めにゆっくり回り、膝に力が入らない。走るのは危険だと、脳の奥が叫んでいる。それでも、どんなにふらついても、走らずにはいられない。



 中一の秋から、咲桜は翔と走ってきた・・・・・・

 空手で日本一になりたくて、道場の稽古とは別に、小学校の頃から毎日一時間ほどのランニングで足腰を鍛えていたが、一人で走るのは嫌だった。だから中一の秋、近くの公園で、勇気を振り縛って翔に声をかけたのだ。

 下川翔は、中学で同じクラスになり、ずっと気になっていた相手だ。クラスでは貝のように口を閉ざし、浮いた存在だったが、なぜか彼の顔を見ると咲桜の胸はキュンと鳴った。そして何とか一緒に走ることができた時、ああ、そうだ、やっぱりあたし、翔が好きなんだ、と実感したのだ。

 ある日、学校へ行く途中、意を決し、体当たりするように彼の家のチャイムを押した。

 玄関から出てきた翔は、まだ着替えてなかった。

「しょうくん、学校へ行こう」

 と咲桜は精いっぱいの明るさをぶつけて呼びかけた。

「一緒に?」

「うん」

「学校のみんなに見られるのに、恥ずくないの?」

「恥ずいよ。でも・・・ああ、もう、嫌ならいい。一人で行く」

 頬をパンパンに燃やして、咲桜は一人、歩き出した。

 どうやってそんなに早く着替えたのか、二分もたたず、翔が猛ダッシュで追いついて来た・・・・・・


「しょうが好き」

 いつか言おうと思っていた。

 言えずに中二になって、別のクラスになった。

 だけど言わなくても大丈夫だった。毎日一緒に登校したし、夕方には二人で公園や河原を走った。翔も同じ気持ちだと、見つめあう瞳の深さで解り合えた。

「しょうが、心の底から好き」

 中三の時、絶対告げようと決めた。

 だけど告げれずに卒業した。

 告げなくても幸せだった。クラスは違っても同じ高校に進学できたし、相変わらず一緒に学校へ行けた。目と目で話ができたし、触れ合う指の温もりで愛を確信できた。泣きたい時にはずっと肩を抱いてくれた。

 いつまでもその手を離さないと心に決めていたのに、半月ほど前から翔の態度がよそよそしく感じられるようになった。明らかに何かを隠しているような・・・・・・別れの気配に、眠れない夜が続いた。


 そして昨日、一緒に河原を走って、途中、川岸の大きな石に肩を触れて座り、休憩した。川面にキラキラ揺れる夕陽の道を眺めながら、膨れ上がった不安の中で聞いたのだ。

「ねえ、しょう、もしかして、新しい相手、できた?」

 怖くて翔の目を見れなかった。

「え? どういうこと?」

「隠さなくていいよ。あたしの勘は、今、槍のように尖ってるんだ」

「何だ、それ?」

「ずっと一緒だったから、分かるんだよ・・・しょうは、あたしと、別れるつもりなんでしょう?」

「え? あ、やっぱり、分かる?」

 翔の動揺が、咲桜の胸にグサグサ刺さった。込み上げる涙をこらえ、光る波の揺らめきに目を向けたまま聞いた。

「どうして?」

 翔が答える前に、一つ、二つ、大きすぎる涙が、咲桜の目からこぼれ出た。

「ごめん。今は、言えない」

「相手は、誰なの?」

 二人とも、声がくぐもった。

「え? 相手? 何で?」

「それは・・・だから、三年間も、一緒に学校へ行ったり、こうして走ったりしたんだから、教えてくれてもいいじゃない・・・同じクラスのこなの?」

 涙をぬぐって、やっと翔を見つめた。

 よく見ると、翔の首の下あたりが紫色になっている。

「えっ? その首の痣・・・それって、もしかして・・」

 翔は目をそらし、無言のまま、襟を立てて首を隠した。

 咲桜はもう、我慢できなかった。

「だから、相手は誰なのよ?」

 と言って立ち上がった。

 翔が首を振って口ごもっていると、咲桜はいきなり背を向け、

「もういいから」

 と涙声で言い、冷たい川の中へザブザブ足を踏み入れた。

 あたしが消えればいいんだ・・・

 ヒステリックに心が泣いていた。

 冷たい流れに腰まで揺られた時、翔も川に飛び込むように追って来て、

叫んだ。

「山田すぐる」

「えっ?」

 振り返った咲桜の目は、大きく見開いてゆがんでいた。

「山田すぐるって、あの、ラグビー部の? あんた、男が好きだったの?」

「好きって、何言ってる? おれ、あいつに、いじめられてる。おれのクラスでは、みんな知ってるし。この首だって、縄で縛られた跡が残ってる」

「はあ? どういうことよ? じゃあ、どうして? どうして、しょう、近頃、あたしによそよそしくなったの?」

「それは・・・あいつのせいで、おれ、転校することになった。家族で引っ越すから、さくらと、さよならしなくちゃいけない」

 本当は山田卓の父、貞夫に、下川家が多額の借金をしていることがこの町を出る理由なのだが、逃げることが知れたら大変なので、父母にかたく口止めされていた。

「引っ越す? どこへ?」

「遠くへ。とてもとても、遠くへ。だから・・」

 そう言って翔は手を差し伸べた。

 めまいがしそうなほどキラキラ揺れる川の道に沈む二人の指が絡むと、悲しい目と目も熱くもつれ合った。



 そして今、咲桜は翔に会うために走っているのだ。

 頭が痛くてクラクラするし、吐きそうなほど胸も苦しい。きっとひどい顔だ。人を殺した極悪人の顔など、見せれたものじゃない。

 それでも会って、最後に言いたい。

 愛してる、と百万回言いたい。

 精いっぱい笑って、翔がかわいいと言ってくれた笑顔を見せるのだ。

 そして、愛してる、愛してる、愛してると、百万回言えれば・・・いや、たったの一回でいい、愛してると、伝えることができれば、もう思い残すことなく死んでもいい。

 今、その一言が、命より重いのだ・・・・・・


 通い慣れたいつもの道を走り抜け、やっと下川翔の家にたどり着いた。

「ああ、よかった。明かりがついてる」

 希望の灯だ。

 なだれ込むように階段の下にあるチャイムを押した。

 何度押しても応答がない。翔も両親もいない感じだ。

 木工所の横の階段を駆け上がり、二階の戸を叩いた。

 ノブを回してみると、鍵はかかっていない。

「しょう、いないの? あたしよ、さくらよ」

 中に入ると、どの部屋も照明がついたままだ。散らかっているのに、家具などが明らかに減っている。

「何で? 何でえ?」

 引っ越すんだ・・・

 という翔の言葉が咲桜の胸に悪夢のように甦った。

 とてもとても、遠くへ・・・

 と頭を殴るように響いて、膝の力が抜けた。

「ねえ、嘘だよね? こんなの、現実じゃないよね?」

 底無しの暗黒へ堕ちて行くようにうずくまった。

 周波数を上げるサイレンの音が聞こえが、やがて遠ざかって行った。

 ぶるっと震えて立ち上がった。

「ああ、そうだった。昨日、約束したじゃない・・・大池公園のジャングルジムで会おうって・・・遅くなっちゃったけど、しゅうなら、まだ待ってくれてるよ」

 死にそうな蒼い顔の彼女の瞳に、何ものにも負けない意思がみなぎった。

 部屋を出て、揺れる階段を降りた。街灯のある裏道をちょっと走り、左の細い小道へ入ると、悲しい月明かりの夜が広大な口を開けている。その中へ飛び込み、落ち葉交じりの芝の上を駆け続けた。肌を刺すような風の中、尖りゆく星々も彼女と並走した。長い池の跡の横を過ぎ、ジャングルジムに行き着いたが、どんなに目を凝らしても翔はいない。滑り台にも、ブランコにも、銀杏並木の下のベンチにも、いない。

「しょう、ごめんね。あたし、遅れちゃった。ねえ、どこにいるの? あたし、ここだよ。ねえ、しょう・・」

 辺りをさまよい、どんなに呼んでも、どんなに泣き叫んでも、いない。辛すぎて倒れても、胸が痛すぎてうずくまっても、絶対的にいないのだ。

「あ、そうか、しょうはあたしの家に、二回来たって聞いたんだった。だったら、もしかして・・」

 最後の望みとばかり、立ち上がって、夜風に震える銀杏の間を走った。

 最後の角を曲がると、家の前にパトカーが止まっていて、足音に振り返った二宮刑事と目が合った。

 二宮は蛙を睨む蛇のように目をそらさず近づいて来たが、咲桜は必死の形相で翔を捜した。

「しょーう、しょーう・・」

 闇を引き裂く赤いパトライトの点滅に、咲桜の絶叫が響いた。




















 

 


 

 

 

 












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