2、別れの日、二人は会えたの? 【その1】

 下川翔は、学生服のまま、いつもの場所で咲桜を待っていた。

 そこは二人の家の間にある、野球場ほどの広さの大池公園だ。大池公園という名なのに、長い池の跡はあるが、今では大雨が降らなければ水は少ない。

 黄葉した銀杏並木の間の滑り台とブランコの横をぶらぶら歩き、青いジャングルジムの周りを回ったりして、翔は来ない咲桜を待ち続けた。

「さくら・・さくら・・・」

 時折、その名がこぼれ出て、悲しげに見開いたとび色の目には、忘れえぬ思い出が見えていた。



 三年四か月前の初夏の頃、翔はその公園で彼女と初めて言葉を交わした・・・・・・

 浅い池をにぎわすショウブの華麗な紫を眺めていた時、駆け寄ってくる足音に振り向くと、鮮やか色の半袖短パンの運動着の娘に声をかけられたのだ。彼女の素肌は、輝くピンクの服よりもっとまぶしかった。

「ねえ、下川しょうくん、一緒に走ろう」

「えっ?」

 引っ込み思案で無口の翔は、クラスで「ハマグリしょう」と呼ばれ、しだいに皆から無視されるようになり、友だちもできなかった。そんな彼に、同じクラスの安藤咲桜が、家の近くの公園で、いきなり話しかけてきたのだ。

「しょうくんの家、あそこの木工所でしょ? あたしの家は、こっちの空手道場だよ。だから、一緒に走ろうよ」

「な、何言ってるの?」

 翔が彼女の丸い顔を見つめると、大きな瞳が底なしの湖のようにきらめいて、彼を深く引きずり込んだ。かと思うと、その目が三日月のように細くなり、咲桜は膝を折って「あははは」と、周囲のどの花より鮮麗に笑い出したのだ。

 それは彼にとって青天の霹靂だった。

 彼が胸を焦がして失語症に陥っていると、咲桜は桃色の花を咲かせるようにぱあっと立ち上がり、頬もぴちぴちに染め、また呑み込むように翔の目を覗き込んだ。

「しょうくん、ちゃんとしゃべれるんだね。クラスでぜんぜんしゃべらないのに」

 翔は何か言い返そうと苦心したが、ただ彼女の瞳の深すぎる輝きに溺れ、立っているだけで精いっぱいだった。

 咲桜はそんな彼を見つめ、今度は「うふっ」とえくぼを咲かせて笑った。

「やっぱり、しゃべらないんだ。だったら、ほら、一緒に走ろうよ」

 彼女が訳の分からないことを言い続けるので、翔は首を傾げ、なぜかこうおどけてしまった。

「オレ、ニホンゴ、ワカラナーイ」

 自分の言葉にびっくりして、翔の頬に炎が上った。

 ああ、やっぱり、何もしゃべらなきゃよかった・・・声も変だったし・・・ハマグリしょう、のままがよかった・・・

 と後悔の海にぶくぶく沈んだ。

 なのに咲桜は、探し続けた秘宝を発見したようにキャッキャと哄笑し、彼の腕に熱い体でしがみついたのだ。そして苦しいほどに身を引き攣らせて笑うと、彼の腕を強力なゴムのような弾性で引っ張った。

「だったら、走るよ」

 と声をスキップさせ、走り出す。

「え? え? おまえ、危ないやつなの?」

 と問いながらも、翔も駆け出した。

 咲桜は一瞬、怒ったフグのように頬を膨らませたが、

「アタシモ、ニホンゴ、ワカラナーイ」

 と翔の真似をした。

 何で走っているのか分からなかったが、翔は小学校の頃から、長距離走には自信があった。

 女子に負けるはずない、と思って走った。

 だけど咲桜の運動能力は別次元のものだったのだ。

 負けるはずない・・・負けるもんか・・・と、翔は必死について行ったが、二十分も疾走すると脇腹が痛くなり、ヤバい・・・ヤバい・・・と攣りそうな右ふくらはぎをかばっていたら左足が痙攣し、ついにへたり込んでしまった。

 なのに咲桜は、座り込んで彼の足を伸ばしながら、

「しょうくん、合格」

 なんて、また意味不明なことを言う。

 翔はゆでられたカニのように顔を赤くしかめ、ゼエゼエ息を荒げながらも、

「はあ? 今度は、絶対、負けないから」

 と強がった。


 その日から、幾度もランニングに誘われ、翔はしだいに咲桜に負けずに走れるようになった。

 ある朝、中学校へ行く通り道、咲桜は翔の家のチャイムを押した。

 そしてそれから毎朝、翔と一緒に登校した。

 無口な翔も、咲桜にだけは、なぜだか何でも話せるようになった。

 彼女の気持ちを聞く勇気はなかったが、いつの間にか翔は、咲桜のことばかり思うようになった。

 そして同じ高校に進学し、やはり二人で登校した。

 幾度か聞かされた彼女の夢が、彼の人生の目標にもなり、それを実現するために翔は毎日勉強した。

 二人でいる時が幸せすぎて、離れていると、心が半分失われた感じがしていた・・・・・・・・・



 そして今、この夕暮れ時、翔は大池公園で咲桜を待ち続けている。

 いつしか東南の空にいびつな十日月が白く浮かびだし、翔の瞳も似た形で悲しく光った。

 遥か西の山々の紅が燃え尽きる前に、公園の南へ歩き、二階が咲桜の住む家である【安藤典道極真空手道場】を訪ねた。


「さくら? まだ帰っていないよ」

 と咲桜の父であり師範でもある典道は、翔をまっすぐ貫くように見つめて言う。

 彼はかつて日本一にもなったことのある空手家で、無骨だが武勇のオーラ漂う端正な顔立ちだ。自分より少し小柄なのに、翔には白い空手道着の典道が大きく見えて圧倒された。

 典道の後ろから、彼の弟子であり、妻であり、咲桜の母である陽葵が出て来て、しゃべりかける。

「あら、下川くんじゃない。さくらと一緒じゃないの? あのこ、用事があるから、帰るの遅くなるかも、って言ってたけど」

 陽葵が翔に話す時は、いつもお日様が笑うように笑顔だ。彼女は紺のウインドブレーカーを着ている。

 会う約束してたんですけど・・・

 と言いかけて、翔は止めた。

 ペコッと頭を下げ、道場に背を向けた。

 走って大池公園の銀杏並木の下に戻ったが、夕闇が重濃くなっていく公園には誰もいない。亡霊だけがブランコを揺らすような灯りなき空間に、寒さに震える木の葉がざわめいている。

 白かった十日月が木星と連なって黄色くなり、反対の西空には遠ざかる白鳥座も光りだしていた。

「さくら・・さくら・・・」

 翔が呼んでいると、淡く沈む北斗の方から、女の声が響いた。

「しょう、もう、行かなくちゃいけないんだよ。しょう、早く来なさい」

 足早に近づいて来る女は、黒い服を着ていて、靴音と顔だけが夜に浮いている。

「母さん、おれ、行きたくない。おれだけ、ここに残っちゃだめ?」

 と翔は切なげに問う。

 彼の母の下川由里の声も切羽詰まってる。

「何言ってるの? わたしらには、もう住む家もないんだよ。あんた、借金取りたちに捕まって、ヤクザな仕事を強制されたいの? 今は、やつらの手の届かない遠くへ逃げるしかないんだよ」

 由里がばたばた駆け寄って、翔の腕をつかんだ。

 腕を引かれながら、翔は訴えた。

「おれ、好きなこがいるんだ。離れるくらいなら、死んだ方がましなんだ」

「好きなこって、さくらちゃんのことかい? あんた、まさか、うちが借金まみれで、今夜、夜逃げするって、あのこに言ってないよね?」

「遠くへ引っ越すとは、伝えたよ。でも、借金取りのことは、言ってない。ただ、おれ、その山田の息子にいじめられてるだろ。だから、いじめが嫌だから転校するって、伝えただけ。だけど、おれ、ちゃんと、お別れ、してないんだ。だからどうしても、今夜、会わなくちゃ」

 翔は足を踏ん張り、母を見つめた。

 それでも由里は引っ張っていこうとしたが、息子の意思の固さに負け、声を震わせた。

「十分だけだよ。十分だけ、別れを言ってきな。それ以上たったら、わたしら、捕まって、ひどい目に合うかもしれないからね」

 母の手を振り切るように翔は駆け出した。

 だけど、携帯電話も売り払っている彼には連絡しようがないし、待ち合わせのこの公園か、咲桜の自宅くらいしか、たったの十分で行く当てなどない。

 もう一度、安藤空手道場に走り込んで行った。

 陽葵を見つけ、駆け寄り、息を切らせながら頼んだ。

「お母さん、さくらさんに、電話していただきませんか? 緊急の用があるんです。おれ、携帯、持ってないんで」

 陽葵は目を丸くしながら懐からスマホを取り出した。

 その時、稽古場の方から、白い道着を着た小さな女の子が翔目がけて飛んで来た。

「わあい、下川お兄ちゃんだあ」

 と、はしゃぎ、翔の胸に顔からぶつかったかと思うと、すぐに頬を染めて離れ、陽葵の周りを一周してから、翔の左腕にぶら下がり、「うふふ」と笑った。

「れなちゃん、ハロー」

 と言って、翔は右手で少女の髪を撫ぜた。

 少女は小学三年生で、咲桜の妹の玲奈だ。

「ハロー」

 と嬉しさを弾けさせて笑い、愛くるしい瞳で翔を見上げる。

 携帯電話を耳に当てた陽葵がつぶやく。

「おかしいな。さくら、出ないよ」

「代わっても、いいですか」

 と言って、翔は手を差し出した。

 渡されたスマホを、翔は耳に押し当て、重苦しく鳴り続ける呼び出し音を聞いた。 

 あきらめかけた時、電話がつながった。

 翔は堰を切ったように呼びかけた。

「もしもし、さくら、あのね、今すぐ会いたいんだ。ほんとに時間がなくて、今すぐ・・・さくら?」

「もしもし、このスマホの持ち主は、どなたでしょうか?」

 と中年の男の声が応じた。

 翔はなぜか嫌な予感にピクッと肩を震わせた。

「えっ? 安藤さくらの携帯に、電話してますけど・・」

「持ち主のお名前は、安藤さくらさん、なのですね? なんか、聞いたような名だなあ」

 翔は不審に思って問い返した。

「あなたは、誰ですか?」

「あ、申し遅れました。わたしは、刑事の二宮という者です。そちらは?」

 翔の動揺が、声のトーンに現れた。

「刑事? えっ? さくらに、何かあったんですか?」

「そうですね、状況を説明しますと・・・修明学園で、男子生徒が心肺停止で見つかりまして、おそらく校舎の四階か、あるいは屋上から落ちたようなのですが、生徒の横に、このスマホが落ちていたんです。スマホの損傷からして、このスマホも、同じ場所から落ちた可能性があります」

「えっ? それで、さくらは? さくらは、無事なんですか?」

「落ち着いてください。今のところ、このスマホの持ち主は見つかっていません。これから、捜査しなくちゃいけないので、また、こちらから連絡します」

「え? ちょっと待ってください。どういうことです? え?」

 切られた電話を耳から離す翔を、陽葵と玲奈が驚きの目で見つめていた。

 陽葵が裏返りそうな声で聞いた。

「ねえ、刑事って、どういうこと? さくらに、何かあったの?」

 翔は陽葵に携帯電話を返しながら伝えた。

「高校で、男子生徒が校舎から転落死したみたいで、死体のそばに、さくらさんのスマホが落ちていたそうなんです。だから、ああ、行かなくちゃ」

 疾風のように去りそうな腕を、陽葵は真っ青な声で引き留めた。

「さくらは? さくらは無事なの?」

「それが、分からないみたいで・・・だから、おれ、行きます」

 そう言って、翔は彼女を振り切り、駆け出した。

 星降る公園を風を切って疾走すると、銀杏並木に月光が蒼く揺れた。長い池の跡の横を抜け、街灯のある道に出ると、彼が二階で暮らしてきた家が見える。

 そこの一階は、翔の父、佑次の木工所であるが、経営破綻で人手に渡っている。

 家の外の荷物を積んだトラックの向こうに父母が見えたので、翔は駆け寄りながら訴えた。

「父さん、母さん、おれ、行かなきゃならないとこがある」

 だけど父の茂は、翔を一目見ると、片手を『あっち行け』というふうに振り、すぐに向うを向く。

 そこには別の男が立っていて、その巨体から、父に多額の金を貸している山田だと、翔はすぐに気づき、血が凍ったように身をすくませた。彼は、翔をいじめる同級生の卓の父だ。

「下川さん、調べはついてるんだ。あんた、隠し金がずいぶんあるよね? まさか、それ持って、このトラックで逃げるつもりじゃねえよな?」

 獣がうなるような声で凄んで、山田は茂の胸倉を左手一本でつかみ上げ、続けて吼える。

「奥さんと子供と一緒に、死にてえのか? あん? 何なんだ、この荷物はよ? ちくしょうめ、仲間を呼ぶからな」

 右手で携帯電話を出し、かけようと操作してる時、着信音が鳴った。

「ちぇっ」

 舌打ちして、携帯を耳に当てた。

「はい、そうだけど、どちらさん? 何? 警察? 警察が、何の用で?」

 と山田は問い、相手の話を聞いていたが、みるみる表情が蒼ざめ、こわばっていった。

 その時、ガツンと怖い音が響いて、山田は半分白目を剝き、ガクッと両膝を沈めた。それから切られた大木のようにうつぶせに倒れたのだ。

 その後ろには、大きな角棒を手にした由里が、鬼のような目を見開いてぶるぶる震えていた。

 何が起こったのか、翔は瞬時に理解して、まるで自分が頭を強打されたかのように膝が震え、ふらついた。

 大男と一緒に倒れた茂がすぐに立ち上がり、生血が溢れ出した後頭部を見て目を丸くした。

「ゆり、おまえ、何てことを・・」

 由里は地面でガタガタ鳴る木材を離すこともできず、低い声で言う。

「早く逃げるんだよ。わたしたち、こうなったら、それしか、生きる道はないんだ」

 山田が傷ついた頭に手を当て、うめき声をあげ始めた。

 男の指がみるみる赤く染まるのを見た茂は、

「あああ・・」

 と動転しながらトラックの運転席に上がり込んだ。

 由里は翔に駆け寄り、角棒を持ってない方の手で腕を引いた。

「しょう、早く乗るんだよ。ほら、早く」

 とわめくように言い、息子を押して真ん中に乗せ、棒を荷台に放って、自分も左に乗り込んだ。

 夜逃げの荷を積んだトラックが急発進した時、山田はうつぶせのままだった。

 翔が悲痛な声で父に頼んだ。

「父さん、修明学園に寄って欲しいんだ。ちょっとだけでもいい。一生のお願いだよ。おれ、さくらに会わなくっちゃ」

 茂はぶるぶる首を振るだけで、何も言わない。

 翔はハンドルを握る腕にすがって、恐ろしい顔の父を見つめた。

「ねえ、父さん、さくらの夢は、高校の先生になって、空手部の指導をすることなんだ。何度も、そう話してくれた。だから、おれ、別れる前に一言告げたいんだ・・・おれも、高校教師になって、さくらと一緒に働く、って。必ずなるから、また、きっと会える、って。一言伝えるだけでいいから、高校へ寄ってよ。それに、今、高校で事件が起きたみたいなんだ。刑事も高校に来ているから、さくらに何かあったらと、不安なんだ。だから、お願い」

 無言の茂の代わりに、由里が口を開いた。

「警察沙汰なら、今のわたしら、近づいちゃだめじゃないか。捕まったら、終わりなんだよ。それに、わたしら、もう二度とこの土地には戻れないんだ。だから、この土地の高校で一緒に先生になるなんて、ありえないんだよ」

「そんな・・・言っただろ・・もう会えないくらいなら、死んだほうがましだって」

 翔の泣き声を撥ね退けるように、由里は夫に強い口調で言う。

「しげちゃん、早くこの町を出るよ。できる限り、遠くへ行くんだよ。わたしら、生きなくっちゃ」

 廃車寸前のトラックは、どんなに追いかけても追いつけない沈んだ夕陽の方角へ、壊れかけたエンジン音とむせび泣きを震わせ走り続けた。























 

 
























 

 

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