咲桜、散る?

ピエレ

 1、予期せぬ殺人

「何だよ? こんなとこに呼び出しやがって。さくら、おまえも、縛られたいってか?」

 咲桜より二十センチ以上長身の山田卓が、瞳の底深くまで、咬みつく寸前の毒蛇のようにジリジリ睨みつける。

 そんな卓の眼が揺らいで見え、安藤咲桜は自分の涙にぶるっと震えた。

 それでも死に物狂いの戦士のように熱く目をこらえたまま、

「縛りたきゃ、縛りやがれ。その代わり、しょうには、もう手をだすな。出したら、ギャフッて言わすよ。あんたらのせいで、しょう、転校して、遠くへ行っちゃうって言ってるんだ。あたし、もう、我慢できんから」

「はあ? さくら、おまえ、しょうと、デキてるんか?」

 卓の薄い唇の右端が吊り上がり、右目の下にしわが寄った。

 炎のような咲桜の丸い頬を黒髪が乱れた。

 そこは古い校舎の屋上で、冷たい風がしばしば渦巻いてヒューヒューうなり、制服のスカートがハラハラ騒ぎ立てた。

「デキてるって、どういう意味だよ?」

 娘の無垢を、卓は鼻で笑った。

「ガキか、おまえ」

「ガキって・・・あたしら、高一のガキじゃんか」

「おまえ、あいつと、やってんのか、って聞いてんだ」

「はあ? やってるって、何をだよ? あたしとしょうは、中一の頃からの、一番の友達なんだ。今じゃ、お互い、一番、大切に思ってんだよ」

 必死に見開いた大きな目から、たまった涙が決壊し、ニキビがまばらの頬を夕陽にもまれ流れた。

 それを見た角ばった厳つい顔が、額にしわを震わせ笑った。

「それで、何かあ? しょうをおれがあんまり可愛がるからって、おまえが泣いてどうする気だよ?」

「可愛がるって、いじめてるだけじゃねえか。それを、もう、やめろって、言いに来たんだよ」

「はん? いやだと言ったら?」

「さっき、言ったろ。ギャフッて言わすって」

「ほーお、おまえが、空手道場の娘で、全国優勝して有名なのは知ってるけどよ、ケンカ負け知らずのおれに、そんな細いからだでやれるわきゃねえだろ? 手足を折られて、もう空手の試合に出れなくなっても、いいのか?」

 咲桜のこじ開けたような瞳が、落陽に赤く光った。

「ばかだね。しろうとのあんたに、あたしが負けるわけないだろ?」

 男の頬がゆがむようにひくひく笑った。

「しろうとのおれに手を出したら、それだけでもう、試合に出れなくなるぜ」

 卓が魔王のような影を伸ばして近づき、ゾッとする目で娘を見下ろした。

「あんただって、こんなことしてたら、ラグビーの試合、出れなくなるじゃんか」

 と咲桜は反抗するが、その言葉は卓の心の火に油を注いだようだ。

「ばかめ。おれはとっくにラグビー部をやめさせられてるんだ」

 卓は細い目を血管が赤く剝くほど見開くと、左手で咲桜の黒髪をつかみ、理不尽な力で引っ張り上げた。

「いてえだろが。離さないと、後悔するよ」

 娘のひたいに苦悩が刻まれ、頬はさらに火を噴いた。

「おお、よく見ると、いい女じゃねえか。うるんだ目が、でけえ宝石みたいだ。唇も、プルプルしてて、たまんねえぜ。頬も桃のようにおいしそうだ。しょうの代わりに、可愛がってあげようか? しょうとやってないのなら、おれがやってあげるぜ。生贄になって、おれの女になりな」

 右手の大きな指が身震いする左胸をむんずとつかんだ瞬間、「ひゃっ」っと甲高い声がもれ、一秒ちょっと、永い時が止まった。

 男の指に力が込められた瞬間、娘の右足が閃いた。

「くそ野郎」

 という甲高い叫びとともに、男の股間を蹴り上げたのだ。

 空手有段者の一撃は、卓の予想を超える衝撃だった。

「くううう」

 とうめきながら、卓は膝の力をなくして倒れ込み、股間を両手で押さえ、よだれを吹きながらのたうった。

「後悔すると、言ったやろ」

 と咲桜は声を震わせた。

「きたねえぞ」

 卓の声は裏返っている。

「きたねえって、どの口が言ってやがる? 陰でコソコソいじめを繰り返してきたゴキブリ野郎が。あんたのタマタマ、二個ともぶっ潰してやろうか」

 そう咲桜は吐きかけたが、全身痙攣させていた卓が動かなくなると、

「おい、すぐる、何とか言えよ・・・えっ? おい、どうした?」

 と声を細め、ひざまずいて肩を揺すった。

 息すらしてないことに気づくと、

「あああ・・」

 ともらし、心臓に耳を押し当てた。

 その瞬間、獣の罠がバチンと閉じるように、男の強靭な両腕が咲桜の背に巻き付いたのだ。

「え?」

 反射的に身をねじろうとしたが、鋼鉄の重機に挟まれたように動けない。

 卓は一度大きな呼吸をすると、渦巻きのように体を回転させ、咲桜の二倍を超える体重で上に覆いかぶさった。

 彼の右手が離れた刹那、咲桜の左腕が自由になった。

 その隙を逃さず、反射的に正拳を突き上げていた。

 卓は一ミリも避けなかった。左拳が鼻にめり込んだが、その直後、彼の大きな右拳も咲桜の左頬を横から撃ち抜いた。

 経験したことのない重量級の鉄拳に、ゴンッと音を響かせながら脳がグワンッとゆがみ、閃光が目の奥に散った。咲桜はほぼ無意識に腕でのガードを試みたが、右手は自由を奪われたままだ。防御の左拳の横から再び爆烈な右フックが飛んできて、左顎を吹き飛ばした。目の前が真っ暗になり、ゆがんだ意識の奥で死の恐怖が背骨から脳天まで凍らせ、叫び声も出せない。左腕を頭まで上げたが、卓は鉄槌のような右拳を今度はみぞおちにめり込ませた。地獄へと続く底なし沼へ沈んでいくように、胃のあたりの劇痛が増していき、咲桜はヒクヒク身をちぢめた。

「おれをマジに怒らせた、おまえが悪いんだぜ」

 という声とともに、咲桜の唇あたりに卓の鼻血が落ちてきた。

 少し遅れて胃液の逆流が咲桜の胸につかえ、喉に奔出した。咲桜はそれを男の顔へ力の限り吹きかけた。それが今できる唯一の必死の抵抗だったのだ。それは咲桜の顔にも返って来たが、卓は目に入ったしぶきを拭おうと、「何だあ?」と発しながら、両手で顔をこすった。

 両手が自由になったその機会を咲桜は逃さなかった。

「ウオー、ウオー・・・」

 と絶叫しながら、左右の拳を続けざまに突いた。

 すると赤黒く回っていた視界が、ぼやけながらも開けてきた。

「ウオー、ウオー・・・」

 男の心臓あたりへ、砕けそうなほど拳を突き上げていた。殴らなきゃ、犯られるのだ。

 幼い頃から父母の指導を受け、毎日鍛え続けた空手王者の正拳は、生命を脅かす凶器に他ならなかった。四発、五発と鉄拳がアバラヘ食い込んでいくと、咲桜の心の奥底に潜んでいた野獣の血がマグマのように噴き出し、胸中でゴウゴウ暴れだした。眼光鋭く獲物を見据え、ねじ込む拳の破壊力が増した。

 それを十発も受けると、肋骨が破壊される恐怖の痛みに、卓はたまらず狂女から離れ、ごろごろ横へ転がって、上体を起こした。

 咲桜も反対に転がって、立ち上がったが、脳や胃に深いダメージが残っていて、敵が二重にぼやけた。男から遠ざかろうと、ふらつきながら歩き、倒れそうになって、錆びたフェンスにもたれた。古い金網のフェンスがぐにゃりぬにゃり揺れ、四階の屋上から見下ろす景色も斜めに回って揺れた。そこが底なしの奈落に感じられた時、突風が髪を乱し、上体が浮きそうで不安定な金網にしがみついた。

 その背を卓の声が突いた。

「何だ、さくら、フラフラで、足がもつれてるじゃねえか。言ったろう・・・そんな細いからだで、ケンカ負け知らずのおれをやれるわけないって。へへっ、もう、おとなしく、観念しな」

 脳が揺れている娘を見て、怯えていた卓は立ち上がった。胸骨あたりがバキバキ傷んだが、右腕で鼻血を拭い、作り笑いを咲桜へぶつけた。

 咲桜は振り返り、敵を見た。烈しく睨みつけると、二重に揺れる敵が一つになった。

 卓は、獲物に迫る蛇のように、静かに近づいて来る。

 咲桜は、口中に再び逆流してきた酸っぱい胃液を吐き捨てると、呼吸を整え、左のつま先を敵に向けた。戦い方は、いやというほど身体に染みついている。斜に構えて、軽くステップを踏み、うなるように警告を与えた。

「それ以上近づいたら、あたしの必殺技をお見舞いするよ」

 卓は三メートルの距離でいったん止まったが、

「ばかめ、おれのタックルはゾウにも負けねえんだよ。もう、おまえは、おれの女だあ」

 と叫ぶと、ラグビー戦士の習性なのか闘牛のように頭を下げ、臆せずタックルに飛び込んで来た。

 咲桜には敵の隙が大きく見えた。目をぐわっと開け、軽く後ろへステップしながら身をかがめると、右足左足と小刻みに前へ踏み込み、斜め前へ強靭な脚力で跳ね上がった。そして怒涛の突進を浴びせて来る卓の顔面へ、空中で右膝を突き上げた。ガンッと音が鳴り、鍛え上げた空中殺法が、目にもとまらぬ鋭さで顎を打ち砕いた瞬間、卓の意識が飛んだ。それでも大男の突進力は、軽量の咲桜を遥かに凌駕していた。そのままぶつかって、錆びた金網に咲桜の背を激突させたのだ。その衝撃でフェンスは悲鳴をあげて斜めに壊れ、咲桜は男の巨体ともつれながら、大津波にドバッと巻かれたように後方へ回転していた。回転しながら、彼女の背筋から首へと稲妻のような戦慄が痺れさせた。彼女の本能が、死の危険を絶叫したのだ。とっさに両手を伸ばして何かをつかむと、「うおおお」と叫びながら、死に物狂いで握りしめた。直後に腹部と両足に激しい衝撃と痛みを覚えたが、「うううっ」と歯を食いしばり、指に力を込めた。宙ぶらりんの足の遥か下の地獄から、ドスッと鈍い音が響き、流血のような涙がどろどろ溢れ出したが、壊れてゆらゆら危ういフェンスをつかんでいた両腕を必死の叫びで曲げ、足も使って昇り、金網も越えると、涙をぬぐい、周りを凝視した。前にも、横にも、後ろにも、どんなに目を凝らしても、もう、どこにも卓はいなかった。やがて力尽きたように彼女の膝がガクッと折れ、屋上に倒れた後、大の字になると、目が白く裏返った。


 それからどれくらい失神していたのだろう。手負いの心身がぴくぴく動き、バチッと黒目が見開かれた。

 いつの間にか古い屋上は真っ暗で、娘の瞳孔は大きく開いていた。彼女を吞み込んでいるのは、ヘドロがまとわりつく深い海中のような闇だ。

「ああ、もう、行かなくちゃ」

 と声がもれた。

 自分が起こした重大事件よりも、翔との約束が彼女には大切だったのだ。

 よろめきながら立ち上がり、鉛のような足を引きずって、亡者の足取りで歩き出した。高熱に侵されてるのか、夜風に身体が身震いしていた。

「ところであたし、ああ、何をしでかしちまった? あああ・・」

 ねじれていく階段を転がり落ちそうになりながら、幾度も顔をぬぐったが、再び噴き出した涙は、彼女の人生を埋め尽くすように止まらなかった。





 










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