第17話 リン

 リュウ ウェイと山神かおるは蘇州の製薬会社の社員で共に第5研究室の研究者だった。


 会社の中では主にウイルス用ワクチンの開発室と位置づけられているが、それは表向きで裏では戦争で使用する新型の殺人ウイルスの開発が進められている。


 殺人ウイルスで最も重要なことは下記である。

 ・わずかな量で空気中に拡散し感染する

 ・数時間で死に至る

 ・死後、痕跡を残さない

 ・解毒剤もワクチンも無い


 この4項目を満たすウイルスをウェイと薫はわずか3年で完成させた。


 この日までに二人は何度も会社に宿泊し、取り憑かれたように実験と試作を重ね、家には数日しか帰っていない。


 この冷酷非情なウイルスは小瓶ひとつを飯田橋あたりで開封すると風に乗って拡散し、東京都くらいは間違いなく1日で全滅する。それも人が死ぬとウイルスも直ぐに消滅してしまうので痕跡も残らない。


 まさに悪魔の所業といえるウイルスである。

二人は直ぐに会社の社長に完成を報告した。


「ワン社長約束通りウイルスを期日までに作りました。」


「さぁリンを私たちに返してください。」


ーーーーー


 2015年、中国で中堅ランクの製薬会社 蘇州製薬の社長ワン ジンは不動産投資で巨額の負債を抱え、会社倒産の危機に迫られていた。


 また、それだけではなく家も財産も全て根こそぎ奪われても払いきれず一家心中も頭をよぎる。


 そんな中でK国から殺人ウイルスの製作依頼が舞い込み、豊富な開発費と成功報酬が提示された。ワンはわらにもすがる思いでこの話に飛びついた。


 しかし、研究者がこの開発に協力するはずがなかった。人道に反し、悪魔に魂を売るような話である。


ーーーーー


 ウェイと薫は結婚はしていなかったが娘がいた。


 名前はリンと言う。二人とも歳を重ねてから出来た子供だったので可愛いくて可愛いくて仕方なかった。


 実験に明け暮れる理系の二人に結婚という従来の仕組みに興味は無いが、お互いが協力しあい会社から与えられたマンションの狭い部屋で家族3人がつつましく暮らし、夜は川の字になって寝る。そんな毎日にささやかな喜びを感じていた。


 薫は母らしい事があまりしてあげられない中で日本人の子らしく休みの日だけはリンの髪を細い三つ編みにしてオシャレして3人でよく近くの公園に出かけている。


 リンは素直で優しく両親思いの子に育った。


 いつも会社で残業し、遅くなった両親を助ける為に買い物から掃除、洗濯、炊事と全てこなしていた。


 そんなある日薫が家に帰るとリンがいない。


 ウェイに連絡して早退してもらい近所や学校など手当たり次第探し、警察にも届けたが何も情報は得られなかった。


 二人は日頃の疲れと心配のあまりに憔悴しきって家で呆然としていると、ワン社長から連絡が入る。


「驚かないでほしい」


「君たちの娘はK国に拉致されている」


「今K国の国防大臣から直接連絡があった」


「3年以内に依頼しているウイルスを完成させろ、さもないと娘はなぶり殺しにすると言ってる」


「この事を他人に漏らしたり警察に話すと殺す。また期限を過ぎても殺すと言ってるぞ」


「どうする、君たち」


 ウェイと薫は絶句したが、気持ちを落ち着けてその日1日だけ考える猶予を貰った。


 ウェイも薫も娘をなんとか助けたいが、殺人ウイルス開発は人として絶対許されることではない。


薫「この話受けましょう」


ウェイ「しかし、人の道に反してる」


薫「私達なら出来る気がするの」


「ただし、解毒剤も秘密裏に同時に作るのよ」


「それを3年で開発出来なかったら仕方ないわ」


「断ったらK国は簡単にリンを殺すはずよ」


ウェイ「分かった。やってみよう」


 その日から二人だけの戦いが始まり、狂ったように開発に没頭し期限通り3年以内に完成させた。


 リンの近況はK国から月に一度だけビデオを送ってきて無事に成長し、狭いコンクリート剥き出しの部屋でなんとか暮らしていることは分かっている。


 ワン社長「K国の方から明日朝7時に君の家でウイルスと製造データを受け取り、そこでリンさんを引き渡すと言ってる」と告げた。


 ウェイは開発したウイルス1ビン分をステンレスのボトルに入れると絶対漏れないようしっかり蓋を閉めてジュラルミンのケースに納めた。


 また、万一を考えて解毒剤の入った注射器3本はプラスチックケースに入れてスーツの内ポケットに忍ばせる。


 門外不出のレシピデータを全てUSBに納めて鞄に入れる。


 ウェイと薫は用心のため、その前日は会社に泊まり、次の日の朝6時に着くように家に向かった。


 朝7時、マンションの玄関チャイムが鳴る。

部屋から玄関のカメラ映像を見ると目隠しされたリンとサングラスをした黒いスーツ姿の痩せた男が3人いる。1人はリンの後ろで銃を突きつけているような歩き方で歩く。


 会社から与えられたマンションはいわゆるゴーストマンションで一棟にウェイの家族しか住んでいない。


部屋は玄関を入ると直ぐにリビングと台所になっている。


 中国では阿漕なあこぎな不動産投資で建設されたマンションが乱立し、開発途中で投げ出された建物が何百棟もある。

 故にこの状態で玄関にいても誰にも会うことがない。


たぶんリンは銃で脅され、家に連れられてるとは知らないのだろう。


 久しぶりのリンを見て薫は自然に涙が頬を伝う。


 彼らはマンションの部屋まで来ると鍵がかかっていないドアを開け、中に全員入ってくる。


 男達はすぐさま全員スーツの内側のホルスターから銃を抜く


「約束の品物はこれだな」と言ってジュラルミンのケースを開けて中を確認する。


「データを渡せ」


 薫が鞄からUSBを取り出してリビングの机の上に置く。


薫「リンを早く返して」


リン「お父さんお母さん助けて」


リンは薫の声のする方に走った。


 男達はデータを受け取ると持参したパソコンに挿して本物かどうか確認する。


 その間にウェイはポケットから目薬くらいの小さな小瓶を取り出し


「お前たちこれが私達の開発したウイルスだ」


「この量を床に落としたらここにいる皆んな数分以内に死ぬ」


「さぁ銃を降ろせ!」


K国の男「それを割ったらお前も死ぬぞ」


 と言い返した瞬間ウェイは躊躇ちゅうちょなくビンを男達の足元に叩きつけた。


 パリンと小さな音ともに床に青い液体が広がる。男達は慌ててジュラルミンケースを抱え、USBを鞄に入れて玄関ドアに猛然と走る。


 しかし、先程鍵が開いていたドアが押しても引いても全く開かない。男達はパニックになった。


  「何故。何故だ、何故開かないんだ!」


叫びながら男達は床に倒れ始める。


ウェイ「内側から開かないよう細工しといたんだ」


 ウェイやリン、薫も急激に目眩がして床に倒れる。


 その時ウェイは静かに着用しているスーツの内側から解毒剤入りのプラスチックケースを取り出し、意識が朦朧としながらから注射器を取り出そうとした時、K国の男が


     「そういうことか!」


 とふらつく足でウェイに突進してくる。


 突き飛ばされたウェイがケースを見ると注射器は1本割れてしまっている。


 突進してきた男はリビングの机の角で頭を打ち悶絶した後動きが止まり息絶えた。


 残った2本のうち1本を意識が無くなりそうになるのを必死で耐えながらウェイはリンの腕に注射した。次に薫の腕に刺そうとした時、


薫「私はいいわ、貴方に注射して」


「これで良いのよ」


 そして薫はリンの目隠しを取り、細い三つ編みを撫でた後左隣りに横になり手を握って目を閉じた。


 ウェイは残った注射器を折って投げ捨てると


「薫、僕も一緒に行くよ」


 そう言うとリンの右隣に横になり、遠のく意識の中でリンがまだ小さかった頃を思い出しながらリンの顔を見続け満足そうな顔で旅立って行った。


ーーーーー


 リンが目を覚ますと朝の9時になっていた。

 

 左右の手はそれぞれ両親と握っていることに気づき右手に何か違和感を感じて見てみると折り畳んだ紙が握らされている。なんだかまだ少し頭がふらつくが、広げて中を見ると


ーーーーー


 愛するリンへ

 

 この部屋は殺人ウイルスが蔓延している。

 

 お前が先に目を覚ましても直ぐ外に出てはいけない。窓を開けたり換気扇も使用しないでください。


 このウイルスを室外に出さないように部屋の四隅に特殊な空気清浄機があるから全部スイッチをつける事。


 次にジュラルミンケースに入ってるステンレスボトルの蓋を開けシンクの棚に入っている白いボトルの中に全部入れ、ボトルを振って中の液体を混ぜる事。これでウイルスは無効化する。


 室内の空気は3時間でウイルスが消滅するだろう。


 USBは時間が経つとデータが消える設定がしてあるので気にしなくて良い


 以上の作業終了後も念の為半日は部屋を出ないで欲しい。


ーーーーー

 

 リンはメモを見て「分かった」と呟くつぶやくと直ぐに書かれている通り実行した。


 確かに窓を見ると透明なテープで隙間が目張りしてある。換気扇もだ。


 「なるほど」と声を出しながら。


 しかし、父と母が起きてこないので不思議に思い顔を近づけた時始めて亡くなっているのに気づく。


 まるで寝ているように安らかな顔をしている。    


 ずっと今まで生きていると錯覚していた。


 リンは初めて両親をまじまじと見つめ、もう起きることの無い二人を抱きしめて泣いた。


 心から愛している両親とやっと逢えたのに、、、一緒に暮らしてた時の楽しかった思い出が蘇り涙が枯れるまで泣き二人をベッドに運び並べて手を繋がせる。


 玄関やリビングで哀れにあわれに倒れている男達もサングラスを外して目を閉じさせ顔に白いタオルをかけた。


リンは放心状態のまま時間が過ぎるのを待った。


 約束通り作業から半日以上経った。


 リンは警察に電話して状況を説明し、警察の到着を待った。


 しかし、いくら待っても警察官は来ない。



 深夜3時過ぎリンは玄関ノブをガチャガチャ回す。


 父の言っていた通り中から開かない。どうしようかと考えていたら外側から誰かがノブをゆっくり回す。


 リンは恐ろしさのあまり後ろに飛び跳ねた。


 ドアがそっと開く。


 顔が半分見え、中を覗いてくる。


 顔を見ると女性のようだ。


 リンは咄嗟に近くにあった傘を握りしめていた。すると女性が話しかけてきた。


「貴方がリンね」


 声は聞こえず頭の中に話しかけている。


「そうだけど」


「私は景子、貴方のお婆ちゃんの姉よ」


「部屋から出てきて」


「大丈夫、怪しくないわよ」


 リンは恐る恐る半分開いている玄関から顔を外に出すと部屋の外に50才くらいの女性が立っている。


 景子に言われるまま外の廊下に出てみると室内で死亡しているのと似たような男達が3人廊下に倒れている。


リン「これはどうなってるの」


景子「貴方を訪ねてきたらこの人達と鉢合わせてあまりに失礼なんで眠ってもらったのよ」


リン「貴方ひとりでやったの」


景子「そうよ」

と、あっさり言い放つ


「見たところ、リンはまだ能力の使い方を知らないようね」


「どっにしてもここにいるとまた男達が来そうよ」


「私について来て」


リン「でも何も用意してないし、お金が」


景子「そんなの直ぐに全て揃えてあげるわ」


  「急ぎましょう」


二人がエレベーターを降りると深夜にもかかわらず7、8人の男が暗闇から出てくる


「おいっ、お前ウェイの娘だなウイルスはどうした」


景子「ねっ、失礼な人達でしょ」


 景子は飛びかかってくる男達を前に右手を水平に切った。


 男達は腹を力一杯殴られたように海老反りになり後ろへ吹き飛び、道路に倒れて息苦しそうに口をパクパクさせ痙攣している。


 リンは驚いて声も出ない。


景子「さぁ乗って」


 景子はレクサスのSUVに乗り込み、助手席ドアを開けてリンを乗せるとタイヤを鳴らしながらアクセルを一杯に踏込み深い夜の闇に消えていった。

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