第287話 囲師必闕

『囲師必闕』というのは、孫子が唱えた兵法の一つである。


 孫子は中国の思想家であり、戦争で勝利するための理論について指針化した人物だ。

 彼が提唱した理論の一つに『囲む師は必ず闕く』というものがあり、これは敵を包囲する際は必ず一ヵ所だけ逃げ口を開けておかなければいけないというものである。

 敵の逃げ場を完全にふさいでしまうと、相手は覚悟を決めて死に物狂いで戦うしかなくなってしまう。いわゆる、窮鼠猫を噛むという心理である。

 あえて逃げ込める場所を作っておくことにより、敵は「いざとなれば逃げればよい」と後ろ向きな思考になり、全身全霊で戦うという選択肢を放棄するのだ。


「グオオオオオオオオオオオオオオオッ!」


「ウホウッ! ウホウッ!」


 平原が燃えている。

 真っ赤な炎が生き物のように襲いかかってきて、そこに住んでいた大猿を追い詰めてきた。

 猿達は慌てて巣から出てきて、火が弱い方向に向けて逃げ出している。

 すでに何匹もの仲間が炎に飲み込まれているが、それを気にする余裕はなかった。


「オオオオオオオオオオオオオオオオオッ!」


「ウホオオオオオオオオオッ!」


 猿達……クレイジーエイプには、これが自然の炎でないことがわかっていた。

 彼らは賢く、狡猾だ。人間という生き物について理解しており、魔法についても知っている。

 これは魔法の炎だ。人間が攻め込んできたのだ。

 クレイジーエイプは炎を放っているのが人間であると知っていたが、戦うことなく逃げ惑う。炎の向こうに敵がいることは分かっていたが、この状況で戦おうなどとは思えなかった。


「オオオオオオオオオオオオオオオオオッ!」


 あと少しだ。

 あと少しで、炎から逃れて逃げ出すことができる。

 激しい生への渇望。腹が減っている。何でも良いから食べたい。

 植物でも動物でも魔物でも人間でも……何でもいい。とにかく、あらゆる物を食い散らかしたいとクレイジーエイプの本能が訴えかけてくる。


「ウホウッ! ウホオッ!」


 ここから逃れたら、絶対に人間を食べてやる。

 何度か人間を襲って食べたことがあるが、彼らは脂肪が少なくて食い甲斐がなかったのだが……自分達を襲ってきた報復に、一人残らず喰い殺してやるのも悪くない。

 荒ぶる食欲のまま、彼らの生存域へと押し入ってやろう。

 クレイジーエイプは生きることへの執着と抑えきれない食欲を抱いて、ひたすら炎がない方向に走り続けた。


「そこまでだ」


「ウホウッ……!?」


 だが……唐突に、足元がガクリと崩れた。

 突如として地面に大きな穴が開いて、クレイジーエイプを呑み込んだのだ。

 落とし穴に落下したクレイジーエイプの身体を鋭い杭が貫いた。落とし穴の底には、鋭く尖った杭が大量に設置されていたのである。


「こちらの狙い通りに動いてくれて助かったよ。悪いけど、そのまま死んでくれ」


「ッ……!」


 肉体を貫かれたクレイジーエイプが落とし穴の底から見上げると、そこに一人の人間が立っていた。若い男性だ。身体も細くて、食べ応えがなさそうである。

 まさか、あんな弱そうな人間がコレを作ったのかと疑問が浮かぶ。


「ウホウッ!」


 後続のクレイジーエイプが穴を飛び越えようと跳躍した。

 人間に襲いかかり、そのまま食らいつこうとするが……別の人間によって、穴に蹴り落とされる。


「させないぞ!」


 新たに現れたのは最初の男よりもさらに細身の女。

 女は自分の三倍ほどの体重があるであろうクレイジーエイプに鞭のような蹴りを浴びせ、落とし穴の底へと叩きつけた。


「【雷砲サンダーボルト】」


 男の手から雷が放たれ、穴の手前で足を止めたクレイジーエイプを貫いた。

 炎から逃げてきたクレイジーエイプが勢いのままに落とし穴に流れ込む。

 すんでのところで穴に気がついたクレイジーエイプが足を止めたり、飛び越えたりしようとするが、女の蹴りや男の魔法によって討ち取られる。


「ケ、テ……」


「ん?」


「タス、ケテ……」


 穴の底で杭に貫かれながら、クレイジーエイプが必死に命乞いの言葉を絞りだす。

 哀れみを乞うように人間を見上げて、慈悲を求めた。


「タスケテ……タスケテ……」


「人間の言葉……お前、その言葉をどうやって覚えたんだ?」


 しかし、男の目がさらに冷たくなった。

 不俱戴天の仇を見るように、殺意を込めてクレイジーエイプを見下ろす。


「お前達が殺して、食べた人間の言葉を覚えたんだろう? 命乞いをする彼らを喰い殺したな?」


「タス、ケ……」


「もういい、不愉快だ」


 男の手から風の刃が放たれる。

 鋭利な刃が落とし穴の底でどうにか生き残っていたクレイジーエイプの首を切断し、完全に絶命させた。

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