第149話 馬鹿王子の母親は涙する①
(私の人生はいったい、何だったのかしら……?)
「フッ……」
断続的に揺れる馬車の中、短い溜息をついたのは四十路に足を踏み入れようかという年齢の女性だった。
黒いドレスに身を包み、馬車の中には彼女しかいないというのに顔をヴェールで隠している。
彼女の名前はエメラルド・アイウッド。
否、すでに離縁されているため、エメラルド・ガイゼルと名乗るべきだろうか?
(あるいは、エメラルド・シュラークかしら? 自分が何者かもわからないなんて、本当にお笑い草だわ)
エメラルドが自らをあざ笑い、ヴェールの奥でそっと口角を吊り上げた。
エメラルドはガイゼル帝国の皇女として、アイウッド王国に嫁いできた。しかし、生粋の皇女というわけではなく、元々は皇族の血を引いているだけの下級貴族の令嬢だった。
二十年前、暴君と呼ばれた先代のアイウッド国王の崩御、それに伴う国際情勢の不安解消のため……皇帝の養子となった上で王国に嫁入りした。
背景こそ複雑だが、要するに政略結婚である。
側妃となったエメラルドであったが……彼女には息子がいた。
エメラルドの息子の名前はローデル・アイウッド。
アイウッド王国の第三王子であり、先の反逆の首謀者ということになっている。
ローデルは反逆の罪により毒杯を授かったが、隣国から嫁いできたエメラルドは祖国への配慮から離縁だけで済まされていた。
それでも、アイウッド王国にいることは許されず、故郷のガイゼル帝国に送り返されようとしているのだが。
(帝国のために王国に嫁いで、息子を生んで……ろくに親子として接することも許されず、我が子の罪により祖国に追放される……本当に、私の二十年に何の意味があったのでしょう?)
エメラルドは帝国の皇女として、両国の友好関係のために王国に嫁いできた。わかりやすい政略結婚である。
その成果はそれなりにあったのかもしれない。
少なくとも、暴君と呼ばれた先代国王の崩御から二十年間、両国に安定をもたらしたのだから。
だが……そんな平和な時代に終止符が打たれようとしていた。
平和の架け橋であったはずの御子。二つの国の血を引く王子であるローデルの死をきっかけにして。
数年前から、その兆候はあった。帝国内部で王国への侵略を主張する派閥が勢いをつけていたのだ。
エメラルドが嫁ぐ以前から主戦派は存在していたが……穏健な皇帝が年を経て、命の火に翳りが見えてきたことで、以前よりもずっとずっと勢力を増しているらしい。
(私は二つの国を結ぶ架け橋にはなれなかった。そして……母親にも)
エメラルドはローデルを生みはしたものの、子育てには一切関わっていない。
ローデルは生まれてすぐに取り上げられてしまい、王太后によって育てられた。
腹を痛めて産んだ子への愛情がなかったわけではない。
しかし……エメラルドには力も勇気も無謀さもなかった。
当時の最高権力者であった王太后の意向に逆らえるわけがない。
ローデルの育児にも教育にも関わることはなく、母親として接したことはなかった。
(それなのに……まさか、泣いてしまうだなんて……)
王宮を出立する前、エメラルドはローデルと会う時間が与えられた。
親子らしい触れ合いなど皆無のはずだったのだが……久しぶりに、そして最後に顔を合わせた息子の顔に、エメラルドは思わず涙を流してしまったのだ。
自分の中に母親らしい感情が残っていたことに、エメラルドは自分でも驚いたものである。
(もしも、私があの子の教育に関わっていたのなら……何か、変わっていたでしょうか?)
馬車に揺られながらそんなことを考えるが……それはあり得ない仮定である。
ローデルが生まれた当時、王太后の権勢は絶大だった。それこそ、国王ですら上回るほどに。
隣国の皇女とはいえ、この国ではろくに味方のいないエメラルドが王太后に逆らうことなどできるわけがない。
むしろ、中途半端に関わっていれば、エメラルドもまた反逆の主犯格として命を奪われていたかもしれなかった。
(この結果は、きっと避けられなかった……でも、今さら祖国に戻ってどうしろというのでしょう。私に居場所などあるわけがないのに……)
帝国に戻っても、エメラルドが歓迎されることはないだろう。
両国の平和を望んでいる穏健派からしてみれば、エメラルドは使命を果たせなかった役立たず。
王国との戦争を望んでいる主戦派にとっても、決して面白い存在ではあるまい。
この年齢では政略結婚の駒としても使えない。
生家に戻ったとしても、厄介者として扱われることだろう。
「本当に……私の人生は何だったのかしら?」
思わずそんな独り言をこぼしてしまうエメラルドであったが……直後、馬車が大きく揺れて、外から怒号と争いの音が聞こえてきた。
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