第102話 アイシス・カーベルトと銀閃の君

「ハア……ハア……!」


「クソッ……どうして、こんなことに……」


「い、いやだ……死にたくない……」


 荒い呼吸をつき、泣き言を漏らしながら複数の人間がサブノック平原を走っている。

 彼らが目指しているのは平原の入口。この地獄から逃れる出口である。


「急げ! 足を止めるんじゃない!」


「で、でも……先輩……」


「足を止まれば死ぬぞ!? 魔物のエサになりたくなかったら走るんだ!」


 先頭を走っている男装の女性が後続を鼓舞する。

 彼らは魔法で身体能力を強化させ、けれど抑えきれない疲労から荒い息をしながら、必死になって両脚を動かしていた。

 十人ほどのグループ。いずれも王立学園の生徒である。

 彼らはサブノック平原の奥から入口に向けて、全身全霊で逃走をしていた。


(クッ……どうして、急に魔物が出てきたんだ……!)


 集団の先頭を走っている女性が表情を歪める。

 女子でありながら男子用の制服を身に着けた彼女の名前はアイシス・カーベルト。生徒会執行部のリーダーを務めている三年生だった。

 執行部として救助隊に加わっていたアイシスであったが……彼女は突如として平原の深部から押し寄せる魔物の群れに遭遇して、生徒達を引き連れて逃げていた。


 原因はわからない。

 立ち入り禁止とされている平原の深部……サブノックと呼ばれる魔物のナワバリから、突如として魔物が出てきたのだ。

 一匹や二匹ではない。出てきた魔物の数は数十、数百にも及ぶ。

 救助隊として従事するにあたっていくつものアクシデントは想定していたが……これは予想だにしていない出来事である。


 アイシスは一人でも多くの生徒を連れて、平原の奥から逃げ出した。

 逃げ遅れた生徒は何人もいる。足止めのために残った救助隊のメンバーも。

 それでも、アイシスは最善の選択肢として彼らを見捨てて、助けられる人間だけを掬い上げてきた。


(すまない……すまない……私にもっと力があれば……!)


 アイシスは魔法科三年でトップクラスの実力者である。

 すでに宮廷魔術師になることが確定しており、エリート街道を進む若手の最有力株だった。

 しかし、そんなアイシスの力をもってしても、この状況で出来るのは逃走だけだった。

 どうにか連れ出すことができた十人ほどの生徒を守りながら、平原を入口に向けて戻っていく。


「邪魔だ!」


「ガアッ!?」


「急げ! もっと速くだ!」


 前方に現れた魔物を魔法で倒して、他の生徒を先に促す。

 逃げる生徒達の表情は疲労一色であり、もはや戦闘ができるような状態ではない。

 アイシスが守ってあげなければ、平原を突破することは叶わないだろう。


「キシャアアアアアアアアアアアアアッ!」


「ッ……!」


 そんな時、頭上から怪鳥けちょうのごとき叫びが聞こえてきた。

 上から襲いかかってきたのは平原深部の魔物。背中に羽を生やした大蛇である。


「あっ……」


 そんな時、後方を走っていた女子生徒が転んでしまった。

 魔法科二年生の一人。アイシスにとっても顔見知りの後輩である。


「ユリーア!」


 そこで……アイシスは判断を間違えた。

 転倒した女子生徒を庇うため、足を止めて引き返してしまったのである。


(何をやっているんだ、私は……!)


 合理的に判断するのであれば、ここは見捨てるべきだった。

 アイシスにはこの場にいる生徒達を連れて逃げる責任がある。たった一人のために、他の全員を危険にさらすような判断をしてはいけなかった。


「このっ……!」


「先輩……!」


「シャアアアアアアアアアアアアア!」


 助け起こした後輩が抱き着いてくる。

 片手で後輩を抱きしめながら、アイシスはどうにか大蛇を迎え撃とうとした。


「ッ……!?」


 しかし、そんな時に銀色の閃光が走った。

 どこからか飛んできた光の矢が大蛇の顔面を撃ち抜いたのだ。


「何だと……!?」


 アイシスにはわかる。今のは魔法による攻撃だ。

 いったい、どこから……と光が飛んできた方向に視線を向けると、遥か彼方に豆粒のような人影が見えた。


(馬鹿な……あの場所から狙撃したというのか!? この距離だぞ!?)


 魔法によって強化された視覚をもってしても、遠く離れた人物が誰なのかを見極めることはできなかった。

 一つだけわかるのは、その人物がアイシスをはるかに上回るレベルの魔法使い……否、魔術師であるということだけ。


「シャアッ……!」


 大蛇はまだ生きていた。

 しかし、二発、三発と放たれた銀閃が大蛇の羽を射抜いて、地面に落とす。


「走るぞ! 急げ!」


「は、はい……!」


 アイシスは後輩の手を引いて、駆け出した。

 先に逃げていた者達の背中を追う。


(すまない……いや、ありがとう……この御礼はいずれ全力でさせてもらう……!)


 アイシスが顔の見えない誰かに、心からの感謝を向ける。

 先ほどの銀閃によって、恐怖や焦りまで吹き飛ばされてしまったのだろうか……アイシスの心は晴れていた。


「先輩……大丈夫ですか?」


「だ、大丈夫だ……」


 代わりに……アイシスの心臓が疲労とは別の意味で高鳴っていた。

 アイシスがその感情の正体に気がつくのは、まだまだ先のことである。

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