秋の金木犀

天西 照実

秋の金木犀


 昨日は土砂降りだった。

 秋深まる季節に、真夏の夕立のようなゲリラ豪雨。

 最近の天候に季節感はなくなりつつあるが、植物たちは自らの花開く季節を守ろうと努力していると思う。

 人間よりも、天候に左右されやすい自然の中にあるのに。

 ……それなのに、秋の金木犀きんもくせいの香りを感じることができなかった。

 忘れていた。

 雨に散った花殻を見て気が付いたのだ。

 金木犀の花の香りは好きだ。

 もっと早く気づいていれば……。


 後悔とは、そういうもの。

 販売中止になる前に、もっと食べておけばよかった。とか。

 親孝行をしておけばよかった。友人に会っておけばよかった。

 それに気づいた時は、もう遅い。



『まだ若いのに』

 それが葬式の挨拶文句になる日も遠くない気がしている。

 夏の『暑いですね』と同じように。


 こんな時、どうしたらいい?

 焼香の作法すら、うろ覚えだったのに。

 もう一度、私は足元の布団を見下ろしてみた。


 私の体が死んでいる。


 目を見開いて、口も半開きのまま布団に横たわっている。

 これは確かに死んでいる。

 確かめようがなくても、わかるものはわかるのだ。



 突っ立って考えあぐねている、今の私は半透明だ。

 腹の中に人魂ひとだまのようなものが透けて見える。

 丸いかたまりの周りを薄緑色の炎が絡みついているような人魂だ。

 これがたましいのようなものならば、完全に肉体の外へ出ている。

 今の私の意識で動く半透明の体は、霊体ということになるだろうか。

 この意識は、まだ途切れそうにない。

 いや。死が突然訪れたように、この状態も突然消滅するのかもしれないが。



 ガタンガタンと、電車の通り過ぎる音が響いた。

 黄ばんだカーテンの引かれた窓に目を向けてみる。

 複数の路線が走る線路を見下ろす、アパートの2階だ。

 線路際でも駅まで距離があり、うるさいだけで不便だ。都会でも、多少安く部屋を借りられるという利点はあるが。


 先ほどまで、辺りは不気味なほど静まり返っていた。

 気がつけば、いつも通り昼の街のざわめきが聞こえる。

 ――外へ出てみようか。

 肉体から離れたら死が確定されてしまうのではないか。

 そう思って、しばらく離れることができずに考えあぐねていたのだが。



 今の私が幽霊という状態なら、やはり誰にも認識されることはないのだろうか。

 いや。これ以上考えていても、答えにたどり着けそうにない。

 私は外に出た。

 ドアノブに触れることも階段を降りることもなく、私はアパートの前の細道に立っていた。


 まだ明るい時間だ。

 人通りは少ない。さて、どうしたものだろう。

 こういう状態になったら、先祖や死神が迎えに来るのではないのだろうか?

 空を見上げても、私を迎えに来るような存在は見当たらない。


 しかし、辺りを見回していて気がついた。

 まだ、どこからか金木犀の香りが流れている。

 どこからだろう?


 足音は立たないが、体が浮いているわけでもない。

 私は半透明な足で道路を歩きだした。

 近所の金木犀の木は把握している。

 一番近い、隣のアパートの駐車場の金木犀ではなさそうだ。

 もともと、植物の少ない住宅地だ。

 次に近い金木犀の木は……。


 もう一度、空を見上げた。

 また雨が降りそうな、灰色の雲が広がっている。

 真上から、香りが下りてきている。

 風の流れのせいではない。確かに、空から香りを感じる。

 近付いてみたいと思った瞬間、足元が宙に浮いた。



 ……これが、逝き先案内だろうか。

 風流な終わり方なら喜ばしい。

 私は、金木犀の香りが流れる空へ昇った。



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