第2話 プロローグ 後編

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 ぼくは呆然と彼女を見つめる。逆に彼女はぼくに目もくれずに真っ直ぐピアノの前まで歩く。そして、ピアノの前に座ると静かに鍵盤蓋を上げた。


 彼女はぼくの方を見ることなくピアノの鍵盤に向き合うと、そのままゆっくりと指を添える。


 そこからはまるで別世界のようだった。


 ぼくの鼓膜を揺らす彼女の音色──その旋律はぼくの心を強く揺さぶった。


 昨日聴いた彼女の旋律とはまた別のものだ。その美しさと力強さにぼくは息を呑むことしかできなかった。


 繊細で儚く、それでいて力強さを感じる不思議な旋律。


 彼女の紡ぐ音の粒はまるで宝石のように輝きを放つ。


 その音色にぼくは心を奪われて動けなくなる。ただ黙って彼女の奏でる音に耳を傾けることしかできなかった。


 こんなにも素晴らしい音がこの世にあったのかと本気で思うほどに彼女の音色は素晴らしかった。


 彼女が旋律を奏でるたびにぼくの中で新たなインスピレーションが湧きどんどん物語が溢れ出てくる。彼女の奏でる音が、ぼくの中にある物語をより鮮やかに彩る。


 彼女の才能は本物だ。このぼくに新たな物語を生み出すほどの才能を持っている。


 ぼくは今、猛烈に感動している。こんなにも素晴らしい才能を持つ彼女との出会いに心から感謝をしている。


 改めてぼくは彼女の存在を認識した。


 ふと、ピアノを弾く彼女の姿を見ているうちにぼくは気づいていた。


 彼女はただ単にピアノが上手なだけじゃなく、音楽を奏でるのが好きなのだと。


 だから、こんなにも楽しそうにピアノを弾いているのだと思う。


 その証拠に彼女の表情からはどこか楽しげな感情が見え隠れしていた。


 あぁ、美しい。


 その笑顔が、美しい音色が、ぼくの心を強く揺さぶる。


 もっと彼女のことを知りたいと思う。彼女という存在をぼくの中に刻み込みたいと切に思う。


 それほどまでに月城沙音という人間にぼくの心は奪われてしまった。


「ふぅ……」


 最後の一音を奏で終えた彼女は一息つくと、ゆっくりと椅子から立ち上がる。そのままピアノの蓋を閉じようとする彼女を見て、ぼくは思わず拍手をした。


 その音でようやく彼女はぼくがいることに気づいた。


「うわっ!? ビックリした!!」


 彼女は驚いた様子でこちらに視線を向ける。


「月城さん、素晴らしい演奏だったよ」


「えっ……あ、ありがとう」


 ぼくは素直な感想を伝えると、彼女は困惑しながらも照れたようにお礼を言った。


「えっと、あんた誰?」


「初めまして月城沙音さん、ぼくの名前は本郷沙葉、君と同じこの学校の三大美人の一人さ」


 ぼくの言葉に目の前の少女は眉間にシワを寄せて、怪しげなものを見るかのような目を向けてきた。


 ぼくは彼女に歩み寄りながら自己紹介をする。


「なに、三大美人って……初めて聞いたんだけど」


「そのままの意味さ、君とぼくは今この学校でトップスリーの美少女と言われているんだ」


「……はぁ」


「興味ないかい?」


「全然、あーしが可愛いのは事実だけど、それを知らない奴に言われてもね」


「それもそうだね」


 ぼくは納得して頷いた。確かにそう言われればその通りである。


「まあぼくも自分が三大美人なんて呼ばれているなんて今日知ったんだが」


「確かにあんたは美形だけどさ、それ自分で言うのはどうかと思うよ」


「事実だから仕方がないさ」


「あなたナルシスト?」


「世間一般ではそうなるかな」


 実際、自分の容姿にはそれなりの自信はある。自分で言うのも何だが、顔の形は整ってグラビアモデル顔負けのスタイルをしていると思っている。


「あはは、面白いねあんた」


 彼女は屈託のない笑みを浮かべて言った。その顔も魅力的で思わず見惚れそうになる。


「それはともかく、ぼくは君の演奏を聴いて感動してしまった」


「え、マジで」


「ああ、マジさ」


「ふーん」


 彼女は少し考える素振りを見せた後、再び口を開く。


「どうしてあーしの演奏を聴きたいって思ったの?」


「そうだね……強いて言うなら君の音楽に惚れたからかな」


「昨日たまたま君がピアノを弾いているのを見てね、その音色がぼくの中で強く印象に残ったんだ。だからもう一度君の演奏を聴きたくてここに足を運んだんだよ」


「……マジで言ってる?」


「本気だとも」


「そ、そうなんだ……あーしの演奏ってそんなに良かったんだ……」


 彼女は照れくさそうに頰をかく。予想外の反応にぼくは戸惑ってしまう。


「意外だ、コンクールで星の数ほど賞を取っている君がそんなことで喜ぶとは思わなかった」


「そんなことまで知ってるんだ、あーしのこと、まあいいけど……別にコンクールで賞を取ることは普通じゃん、それを褒められたって嬉しくもなんともないし」


 まさに天才の思考回路。普通の人が努力して成し遂げることを当たり前だと思っているのだ。


「それよりもさっきの曲さ、ホントーに感動した?」


「ああ、もちろん」


 ぼくは迷うことなく即答する。あんな素晴らしい音色を聴いて感動しないはずがない。


「ふーん……そうなんだ……」


 彼女は嬉しそうな笑みを浮かべて呟いた。その表情はどこか誇らしげで、同時に嬉しそうだった。


「なんか、嬉しいかも、実は……この曲あーしのオリジナルなんだよね」


「へえ、そうなのか……すごいな……」


 ぼくは思わず感嘆の声を上げる。まさか、オリジナルだったとは。音楽の才能があるとは聞いていたが、作曲までできるとは思わなかった。


「あーしさ、何か頭にメロディーが浮かぶと、身体がムズムズして我慢できなくてつい音楽室に来てノリで弾いちゃうんだよね」


「なるほど、だから昨日と違う曲だったのか」


 彼女の話を訊いてぼくは納得する。確かに昨日聴いた曲と今日聴いた曲は雰囲気が違った。


 つまり、昨日も衝動的に音楽室に来てしまったということだろう。


「でも、まさか君のオリジナルだとは思いもしなかったよ、本当に素晴らしい旋律だった」


 ぼくは心から称賛の言葉を贈る。すると、彼女は恥ずかしそうに頰を搔く。その仕草はとても可愛らしくてぼくの心を刺激する。


「あはは、やっぱりあーしって天才だからさ、作曲だってよゆーで出来ちゃうんだよね」


 彼女は自画自賛するように胸を張る。その様子はどこか誇らしげだった。


 彼女がここまで自己肯定できるのは才能故なのかもしれない。


「ところでさ、さっきから気になってたんだけど、そのノートはなに?」


 彼女はぼくの持っていたノートを指さして尋ねてきた。


 そういえば持っていたままだったな。


「ああ、これはネタ用のノートさ」


「ネタって……お笑いの?」


「小説の」


「はぁ!? あんたが小説書いてるの!? すご!!」


 目を丸くして驚く彼女。どうやらかなり驚いているようだ。


「ちょっと待って、もしかしてあんたプロの小説家なの?」


「いや、趣味だよ」


「へぇ~、でも趣味でも小説書けるとか、すごいじゃん!」


「ありがとう」


「それで? どんな話を書いてるの?」


 興味津々といった感じで質問してくる彼女。まぁ、別に隠すようなことじゃない。


「一応学校新聞で連載している『雪が解けたあとに』という小説を書いている」


「へぇ~……えっ!? マジで!?」


 ぼくの言葉を聞いて、さらに驚いた表情を見せる月城さん。

 そして、そのままぼくの手を掴むと興奮したように詰め寄ってきた。


「ねぇ!! もしかしてあんたが三少葉先生!?」


「ああ、そうだが」


「うわっ! マジで!?」


 今度は感激しているのか瞳を輝かせて見つめてくる。コロコロと表情が変わる子だ。見ていて飽きない。


「あーしめっちゃあの小説大好きでさ、特に主人公の女の子がめっちゃ可愛くて!! もう最高にキュン死しそうでさ」


「それは光栄だ」


 目を輝かせながらぼくを見つめる月城さん。ここまで言われると作者として冥利に尽きるというものだ。


「あーしあんまり小説は読まないんだけど、この作品だけは特別っていうかさぁ、一行目を読んだときから一目惚れしたんだよね」


 彼女にここまで褒められると正直かなり嬉しい。自分の作品に自信があるとはいえ、やはり読者からの感想というのは心にくるものがある。


「それにキモいと思うんだけど……あーしさ、読み終わったら思わずピアノの前まで駆け寄っちゃったりしてさ、君の小説を元に曲作ったりしてさ……今思うとキモいんだけど……」


 彼女は恥ずかしそうに頰を搔く。その様子がとても可愛らしいと思うと同時に、ぼくの小説をそこまで気に入ってくれていることに喜びを覚える。


「そこまで君の心を動かしたのなら作者として冥利に尽きるね」


「いやー、マジであーしの心にダイレクトアタックされた感じ?」


 彼女は胸を押さえてぼくを見つめる。その瞳からは尊敬の念を感じることができた。


「ところでさ、もしかしてそのノートには小説の続きが……?」


 月城さんが目をキラキラさせながらぼくの持っているノートを指差してきた。


「残念だがあくまでこれはネタ帳だからね」


「そっか……それは残念、いやでも助かったって言うべき? やっぱちゃんと連載で読みたいし、けど、早く続きが気になるって言うジレンマ」


 表情をコロコロと変えながら葛藤する月城さん。


 どうやら相当ぼくの書いた物語が好きらしい。それだけに作家としてここまで好かれるのはとても嬉しいことだ。


「まぁ、小説の続きではないが今さっき書き上がったものならあるが」


「マジで!?」


 ぼくの言葉に月城さんは目を大きく見開く。その瞳は期待に満ち溢れていた。


「ああ、それでもよかったら読むかい?」


「うん、ぜひ!!」


 ぼくは小さく微笑むと、文章が書かれているページを開いて彼女に渡した。


「よかったら読んで感想をくれないかい?」


「オッケー任せて」


 彼女は嬉しそうにそれを受け取ると、さっそく読み始める。そして、すぐさまに彼女の顔色が変わっていく。


「どうかしたか?」


「……」


 ぼくが尋ねるが彼女は無言のまま。しかし視線だけはしっかりとノートに書かれた文章を追っていた。


 どうやら彼女は気づいているようだ。この文章が何を元ネタに書かれていることを。


「……」


 やがて、最後まで読み終えたのか彼女はパタンとノートを閉じると、彼女の瞳から涙が零れた。


「……超ヤバい、これあーしが昨日弾いた曲じゃん」


「気づいたみたいだね」


 月城さんは涙を流しながらぼくに視線を向ける。その表情は驚きに満ち溢れていた。


 月城さんは涙を拭いながら答えた。


「ごめん、なんか感動して泣いちゃってさ」


「いや、気にしないでくれ」


「てかさ、あんたもあーしみたい人の創作物を勝手にネタにするとか良い度胸してるよね」


「はは、それは申し訳ないね、でも君の音楽があまりにも素晴らしかったからさ」


 ぼくは素直に自分の気持ちを伝える。それは紛れもないぼくの本心だ。


「嬉しいけどさ……マジで最高だわこれ……」


 彼女は再び感動した様子でノートを胸に抱え込む。その姿はまるで恋する乙女のようだった。


「まさかここまで感動してくれるとはね、ぼくも満足だよ」


 ぼくは素直に喜んだ。元ネタの提供者にここまで喜ばれるのは作者冥利に尽きるというものだ。


「……ねぇ」



 月城さんはノートを胸に抱え込んだまま、真剣な眼差しでぼくを見つめる。


「ありがとう……あーしの曲をこんな風に別の形で表現してくれて本当に嬉しい……」


 月城さんは本当に嬉しそうな笑みを浮かべる。そんな彼女の笑顔は太陽のように眩しくて、見ているだけで心が温かくなる。


「どうやら君が思い描いた世界とちゃんと一致できたみたいで安心したよ」


「うん、めちゃくちゃピッタリだった……てか欲張りなこと言っていい?」


「なにかな?」


 月城さんのお願いを訊きながらぼくは首を傾げる。一体彼女は何を言うつもりなのだろうか。


 ぼくは疑問に思いながら彼女の言葉を待つ。すると、彼女は恥ずかしそうに口を開いた。


「その……もっとあーしの曲を……聴いて……たまにで良いからさ、こんな風に文章にしてほしいなって思って、例えば今日弾いた曲とか……」


 もじもじしながら上目遣いで言う月城さん。その様子がとても可愛らしくて、ぼくは思わず笑みを浮かべた。


 その仕草はとても愛らしくて、もしぼくが男であれば思わず抱きしめたくなる衝動に駆られただろう。


 そのくらい可愛く、そして美しい。


「もちろん良いよ」


「えっ!? マジで!?」


 ぼくの答えに月城さんは目を輝かせる。


「むしろたまにとは言わず君の曲全てを書いてもいいと思っている」


「えぇ!? マジで!?」


 ぼくの言葉に月城さんはさらに驚きの声を上げた。


「ああ、もちろん君の許可があればの話だが」


「するする!! そんなの許可するに決まってんじゃん!! ていうかマジで書いてくれるの!?」


「ああ、君の曲を聴けることはぼくにとって至福の時間だからね」


「マジか!! やった!!」


 月城さんは飛び跳ねて喜びを露わにすると、突然、ぼくに抱きついてきた。


「あーしもめっちゃあんたが気に入った!! ねぇ、あんた名前は? そういえばさっき言ってたけど、もう一度ちゃんと聞きたいなって」


「ぼくの名前は本郷沙葉だ」


「沙葉かぁ~じゃあサヨサヨで決定だね!」


 どうやら彼女はぼくのことをあだ名で呼ぶことに決めたらしい。まぁ、別に構わないのだが……。


「じゃあぼくは君のことを月城さんって呼んでいいかい?」


「やだ、なんか他人行儀だし、あーしのことは親しみを込めて下の名前で呼んでよ」


「ふむ、それじゃあ……沙音?」


 ぼくが名前で呼ぶと彼女は嬉しそうに微笑んだ。


「てか、あーしとサヨサヨの名前めっちゃ似てない?」


「確かにそうだね」


 月城さんに言われてぼくも気づいた。


 確かにぼくも月城さんも名前には『沙』という同じ漢字が入ってなおかつ二文字だ。こんな偶然があるのだろうか。


「それにさ、あーしとサヨサヨの瞳の色も同じだし、なんか運命感じるかも」


 月城さんはぼくの瞳を覗き込みながら言う。


 ぼくと彼女の瞳の色はまるでサファイアのように輝く青色だ。


「運命か……フフフッ」


 ぼくは小さく笑う。


 現実は小説より奇なりとはまさにこのことだ。でも、悪くはない。


「見れば見るほどマジでそっくりじゃん、マジサヨサヨ何者だし」


 何者と言われてぼくは少し考えるが、すぐに思い付いた。


 ぼくという人物を客観的に見た場合この言葉が適切だろう。だから、ぼくはこう答えた。


「ぼくは物語が好きなただの文学少女さ」


 ぼくは恥ずかしげもなく堂々とそう彼女に告げるのだった。

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