第3話 文学少女と天才ピアニスト その一
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時刻は七時前、陽も傾き辺りがオレンジ色に染まった頃、ぼくはようやく帰宅した。
いつもならこの時間には家で執筆をしているのだが、あれから沙音との会話が盛り上がりすぎて気づけばこの時間帯になってしまった。
「ただいま」
ぼくが玄関に入ると、お母さんが出迎えてくれた。
「おかえりなさい沙葉……あれ? なんだかご機嫌ね?」
「そうかな?」
ぼくはそう言いながら靴を脱いで家に上がる。どうやら無意識のうちに顔に出ていたようだ。
「ええ、何か良いことでもあったの?」
「そうだね……強いて言うのならぼくにとって素敵な出会いをしたよ」
「あら? あらあら、もしかして好きな男の子でもできたのかしら?」
お母さんはニコニコと笑みを浮かべながら尋ねる。どうやら完全に誤解しているようだ。
「違うよ、ちょっと面白そうな女子の先輩と知り合っただけだよ」
ぼくは苦笑しながら答えた。
「あら残念、まぁいいわ、お風呂沸いてるからお父さんが帰ってくる前に入ってらっしゃい」
お母さんは残念そうに肩をすくめると、キッチンへと戻っていった。どうやら夕飯の支度をしているらしい。
「は~い」
ぼくは返事をすると、自室に向かう。
自室に着くと替えの下着と部屋着という名のジャージをタンスから取り出して、風呂場へと向かう。
脱衣所で服を脱ぎ、洗濯籠の中へ入れる。洗面所にメガネを外した自分と目が合う。
キリッとした目付き、やや釣り目がちな瞳に長いまつ毛。瞳の色も鮮やかな青色をしている。ナチュラルボブの黒髪に、きめ細かい白い肌、スタイルも抜群だ。
客観的に見れば美人の部類に入るだろう。鏡を見ながら改めてそう思う。
それにしてもやっぱり似ているな。ふと、沙音のことを思い出した。
沙音のサファイアのような綺麗な青の瞳。彼女の瞳と自分の瞳を比べると、やはり沙音と自分の瞳の色が同じなのがわかる。
なんだったらメガネを外した自分の顔と沙音の顔もどことなく雰囲気が似ているような気がする。
まあ、似ているだけだろう。世の中には似た人間が三人はいると言う。偶然その三人の二人が出会っただけだ。
ただ、それはそれで運命と言うものを感じる。
そんなことを考えながらぼくは浴室に入った。
シャワーを浴びて髪を洗い始める。
やはり髪は短いと楽でいい。長いと洗うだけで一苦労だ。
そういえば沙音の髪はとても綺麗なロングヘアーだったな。
シャンプーの泡を洗い流しながら、沙音の美しい金髪を思い出す。
あそこまで長いと洗うのも乾かすのにも時間がかかるのではないだろうか。
ぼくも一応、女の端くれなのでその大変さは理解出来る。
中学までは彼女と同じくらい髪を伸ばしたこともあった。
あれはあれで似合っていたが、今となっては過去の話。ぼくはあの髪型に戻すつもりは毛頭ない。
正直、髪の手入れとか面倒くさいからサボりたい気持ちがあるから短くしている部分がなくもない。なんだったら手入れとかしなくていいのならしたくないくらいだ。
ただ、お母さんとお父さんにせっかく美人に産まれたんだからちゃんとしなさいと怒られてしまったので、仕方なくちゃんと手入れをしている。
ぼくは髪を洗い終わると、身体の隅々までしっかりと丁寧に洗って、最後に湯船に浸かる。
ふぅ……やっぱりお風呂は良い。一日の疲れが一気に取れる感じがする。
湯船の中で足を延ばして天井を見上げる。
それにしても、本当に今日は良い一日だった。沙音と出会えたことだけで言えば、今日一番の出来事だと言っていい。
彼女の演奏を聴いてから、ぼくは小説を書くことに熱中した。
まるで何かに突き動かされるように執筆する手を止められなかった。
まさかここまで彼女の曲に惹かれるとは思ってもいなかったが、ぼくにとって彼女と出会えたことは幸運としか言いようがない。
これからぼくはずっと彼女の曲を聴き続けるだろう。
そのくらい、月城沙音という少女の音楽には惹かれるものがあった。
「考え事をしていたら意外と長く入ってしまった」
このままずっと湯船にいたいが、残念ながらぼくは長湯ができないタイプなので程々のところで出ることにする。
ぼくは湯船から上がると、脱衣所でバスタオルで身体を拭いてから替えの下着とジャージを着る。
そして洗面所にある鏡を見て前髪を気にしながらドライヤーで髪を乾かす。
しかし中学時代のジャージを部屋着に使用しているのは、女子的にどうなのだろうか疑問が過るが、この方が楽だし、ジャージの方が動きやすいから仕方がない。
そんなことを考えながら髪を乾かし終わると、ぼくはドライヤーをしまって洗面所を出る。
「沙葉~ご飯できたわよ~」
ちょうどお母さんに呼ばれてリビングへ向かうと、食卓には今日の夕食が並んでいた。
お母さんが料理が並べ終わると同時に玄関が開く音が聞こえた。どうやらお父さんの仕事が早く終わったらしい。
「ただいま」
リビングの扉が開き、スーツ姿のお父さんが帰ってきた。
「お帰りなさい、あなた」
お母さんは嬉しそうに微笑みながらお父さんを出迎える。
「ただいま、沙葉」
お父さんは微笑みながらぼくにも挨拶をした。ぼくもお父さんを出迎える。
「お帰りなさい、お父さん、今日は早かったんだね」
ぼくが訊くとお父さんは苦笑しながら答えた。
「ああ、いま担当している作家さんは筆が速い人だから打ち合わせがスムーズに進んでね」
お父さんはネクタイを緩めながら椅子に腰掛けると、ぼくも自分の席に着く。
ぼくの父の仕事は出版社の編集だ。主に小説を中心に扱っている会社で、お父さんはそこで編集者をしている。
「そうなんだ、なら今日は時間がある? 新しい小説書いたんだけど読んでほしいなって」
「ああ、あとで読ませてもらうよ」
「ありがとうお父さん」
ぼくは嬉しそうに微笑みながらお礼を言った。すると、お母さんが席に着くと、家族での食事が始まった。
「最近は学校はどうだ?」
「テンプレ的な質問だね」
「そうか? 沙葉の学力については心配してないが、親としては気になるものだろう?」
「まぁね」
ぼくは苦笑しながら答え、唐揚げを頬張る。
そんな軽口が言えるくらいには親子仲は悪くない。お父さんは仕事柄、帰りが遅くなることが多いため、一緒にいる時間はお母さんより短いが、それでもぼくのことを常に気に掛けてくれていることは知っていた。
「まぁ、沙葉のことだから学校だとずっと本ばかり読んでそうだからお父さん心配なのよね」
お母さんが微笑みながら言うと、お父さんは苦笑い浮かべている。どうやら図星のようだ。
「その点については大丈夫だよ、それなりに友達もいるし」
ウソは言っていない。今日だけで友達が三人になったんだから。
「そうか、ならいいんだが」
「沙葉も女子高生なんだから恋愛の一つや二つはしても良いのよ?」
「ゴホッゴホッ」
お母さんの言葉にお父さんが思わず咳き込んだ。急に何を言いだすんだと言わんばかりにお父さんはお母さんを凝視している。
「大丈夫、お父さん?」
「あ、ああ……大丈夫だ……沙葉、いま彼氏とかいるのか?」
「何お母さんの言葉を間に受けてるのさ」
まあ、自分のカワイイ娘に彼氏がいるとなれば父親としては複雑な気持ちになるのは分からなくはない。
「それでどうなんだ?」
「いないよ、それにいたらお父さんたちに言うでしょ」
「そ、そうか……それはそうだな……」
ぼくの答えにお父さんはホッと胸を撫で下ろした。そんなお父さんを見てお母さんはクスクスと笑っている。
これが本郷家の日常だ。ごく一般的な家族の会話、良好な家族関係を築いている。
「ごちそうさま」
ぼくは夕食を食べ終えると、食器を流し台まで運ぶ。するとお父さんも同じタイミングで食べ終えたらしく、ぼくと一緒に流し台に食器を運ぶ。
「食器を洗い終えたら沙葉の小説を読ませてもらうよ」
「うん、分かった」
ぼくが頷くとお父さんは満足そうに微笑んで自分の部屋へと戻っていった。
ぼくも自分の食器を洗い終えると自室に戻り、机の引き出しからUSBメモリを取り出した。それを持ちお父さんの部屋まで向かい、ドアをノックする。
「入っていいぞ」
部屋の中からお父さんの声が聞こえてきたので、ぼくはお父さんの部屋の中に入った。
お父さんの部屋は本棚が壁を埋め尽くし、床やテーブルにも大量の本が積み上げられている。まるで小さな図書館のような部屋だ。
「相変わらずお父さんの部屋は本の量が多いね」
「ああ、これでも整理した方なんだがな……」
そう言いながら苦笑いを浮かべるお父さん。これで整理した方というのが驚きだ。
「それで小説は?」
お父さんが待ちきれないといった様子でぼくに尋ねてくる。
ぼくはUSBメモリをお父さんに手渡すと、お父さんは早速パソコンにメモリを挿入し、小説を読み始めた。
お父さんが小説を読んでいる間、ぼくはそわそわしながらお父さんの部屋を眺める。
相変わらず本が多いがそのほとんどは小説ばかりで、この部屋にある本はだいたいぼくも読んでいる。そもそもぼくが本の虫になったのは、お父さんの影響といのが大きいだろう。
お父さんは昔から読書が好きで、そんなお父さんに感化されてぼくも本を読むようになったのだが、今は読書をすることがぼくにとって欠かせない生活の一部になっている。
それどころか自分で作品を創るまでに至っている。
「ふぅ……」
お父さんは一通り小説を読み終えると一息吐いて目頭を押さえる。どうやら長時間のパソコン見続けて目が疲れたらしい。
「どう? 面白かった?」
「ああ、とても面白い作品だった」
お父さんは優しい笑みを浮かべながら答えた。その表情を見る限りお世辞ではないことはよく分かる。
「しかし、今までとは作風がずいぶんと違うな、何かモデルでもあるのか?」
流石は本職の編集だ。ぼくの作品を読んだだけで文体の変化に気づくなんて。
「うん、モデルというか元ネタがいるんだ」
「ほう、その元ネタとは?」
「学校の先輩が作曲した曲を元にぼくが小説として書いたんだ」
そうこれは昨日沙音が弾いていた曲を元にしてぼくが書いた小説だ。昨日の時点で沙音に見せたものとは別で小説を書いていた。それをお父さんに見せたというわけだ。
「なるほど、道理でいつもの作風とは雰囲気が違うわけだ」
ぼくの言葉に驚きながらもどうやらお父さんも納得してくれたようだ。
「それにしてもこの小説の元ネタとなった曲も聴いてみたいな、あの沙葉が本以外でそこまで心奪われる曲というのが気になる」
「そんなにぼくが本以外に興味を持つのは珍しい?」
「ああ、お父さんやお母さんが驚くくらいだよ」
確かにいつも本ばかり読んでいるぼくが、あそこまで興味を示すのは珍しいのかもしれない。
「しかし、沙葉のインスピレーションを上げる程の逸材か……とても才能に溢れている子なのだろうな」
「うん、その先輩は確かに天才だよ、だってあの月城の娘らしいからね」
「月城? あの有名な音楽家の?」
「うん、その月城の娘らしいよ」
ぼくは特に気にすることなく答えると、お父さんは考え込むように腕を組んでいた。
「なるほど……まさか、あの月城家の令嬢が沙葉と同じ高校とは……」
「お父さんも会ったことあるの?」
「作家さんの取材で演奏会に同行した時に偶然だけどな」
お父さんは懐かしそうに思い出すように語る。
「まだ沙葉と同じくらいの年齢なのに、既に音楽家としての才能は大人顔負けだったよ」
「ふーん……」
確かにあの沙音の演奏技術は凄かった。あれほどのピアノの腕前を持つ人間をぼくは知らない。
単純に今までとはそういうものに触れてこなかったから、比べる対象がないだけなのかもしれないが、それでも沙音の演奏はプロ顔負けだったと思う。
「まあ、何はともあれ沙葉が本以外のことにも興味を持てたのなら、お父さんとしては嬉しい限りだよ」
嬉しそうな顔を浮かべるお父さん。お父さんはぼくが本以外にあまり興味を示さないことを気にしていたのだろう。
「お父さん、一応言っておくけどぼくの本好きはお父さん譲りだからね?」
「そうなのか?」
ぼくが言うとお父さんは驚いた表情でこちらを見てきた。どうやら自覚がなかったらしい。
「こんなに本が多ければ、本好きな人間になるのは当然だよね?」
お父さんの部屋に置かれている大量の本を見ながらぼくは言った。
「それもそうだな」
お父さんは苦笑いを浮かべている。どうやらぼくの言い分に納得したらしい。
「ま、まあともかく色んなものに興味を持ち、触れることは沙葉の感性を広げてくれる良い経験になるだろう」
「うん、それはぼくも実感してるよ」
ぼくは頷く。
正直、沙音と出会わなければぼくはこの小説は書けなかっただろう。そういう意味では本当に感謝している。
「さて、雑談はこのくらいにして、色々とこの小説で気になった点を訊いてもいいか?」
「うん、いいよ」
ぼくはお父さんがパソコンに向き直るのを見届けてから頷いた。
これからお父さんの批評が始まる。ある意味これを期待してお父さんに見てもらおうと思ったところもある。
それからお母さんに怒られるまでぼくとお父さんの批評会は続いた。
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