7.
これ以上の幸福を、圭介は知らない。
父は明日、退院する。
明日からまた、あの日常に戻る。
それが少し、怖い。
昼過ぎに、玄関の戸が開く音がした。
野暮用だと言って珍しくひとりで外に出ていた高辻が、戻ってきた。靴が雨に濡れている。
「海を見に行かないか、」
圭介の顔を見るなり、唐突に提案をする。彼は随分と疲れた顔をしていた。
「今から?雨降ってるよ」
「海側はどうかわからん」
確かに、ここから一番近い海辺までは高速を使っても二時間程度はかかる。そこなら雨雲はかかっていないかもしれない。が。
「なんで、急に」
脈絡がなかった。この日海の話はしていない。あるいは先週も、その前も。
「なんとなく、さ。」
不思議な提案だった。圭介はずっと前に見た夢を思い出した。だがあれは夢だ。彼とふたりで海を歩いたのは、夢の中のことでしかないはずだ。
空気に流される形で簡単に身支度を整える。高辻はなぜか、普段より入念に荷物を確認しているように見えた。お前もだぞ圭介、忘れ物をするな、そういう小言を適当に流して、部屋をあとにした。
海についた頃には日は傾き、視界いっぱいに広がる海面の上に、紫のガスのような雲が広がっていた。その切れ間から、黄色い陽光が幾筋も降り注いでいる。
高辻の予想通り、海辺の雨は止んでいた。
二人で海岸を歩く。
砂は水を吸って少し重たいが、表面はサラサラとして、歩く度に靴に砂が入った。
小さな波が静かに押し寄せ、淡い音を立てる。
「……べたべたする」
Tシャツから露出する首筋に、潮風がまとわりつく。
「それに、臭い。魚の匂いがする。変だ」
「なんだ圭介、海に来るのは初めてか」
コクリと頷く。
「なんか、思ってたのと違う。母さんの言ってた海は、もっと透明で、青くて、きれいだった。砂浜も白くてさ、」
高辻は眩しそうに目を細めた。
「そうか。」
顔をしかめたようにも見えた。誘われてきた海に文句をつけたのが、彼の機嫌を損ねたかと思った。だが、
「見ろ、水平線だ」
案外ゆったりとした気分でいるらしかった。薄くほほえみながら彼方を指さしている。そこには刃物で切ったような水平線が一本、引かれていた。圭介はそれを見て、高辻の首の傷を切ったという神を漠然と思い起こした。
「幼い頃、あの向こうには死んだ人間が住んでいると聞かされていた」
そうつぶやき終えると、また足を進めていった。今日はなんだか、彼の背中がやけに小さく見えた。慌ててその背を追いかける。
やがて、砂浜の真ん中で高辻の歩みは止まった。暮れゆく日が彼の白い頬をオレンジに染めた。
「……私も祖母から海の美しい面ばかり聞かされていたよ。初めて本物を見たときはがっかりした。」
「高辻の故郷にも海はあったの、」
「あったよ。私は大阪の生まれだ。初めてみたのは大阪湾だった。海面はキラキラしていて綺麗だったがね、船着き場は汚いし、匂いは酷いし、散々だった。祖母はもっと別の、外国の小さな島で生まれていた。その海はとても青かったらしい。済州という名前の、美しい島だ。
ずっと、彼女の見たものを見たかった。私が私になるずっと昔から、この血に残り続けているものを知りたかった。私がここにいる意味を。
結局、その地は踏めなかったが……こうしてお前と歩いていると、ここがその海のような気がする。」
いつになく饒舌な彼の横に立ち、圭介もまた、暗くなっていく海を眺めた。水面はほのかな明かりを反射して、水平線に金の糸のような光がまっすぐ横に伸びていた。
手の届かないところにある、星のように清かな光だった。
「じゃあ、ここが俺たちの故郷ってことでいいんじゃない、」
「それもいいな、」
ふたりの声は潮風に巻かれてすぐに消えた。高辻はしばらく何も言わずに微笑んでいた。その眼は、水平線のその先の、ありもしない常世の国を夢見ているようだった。
帰りに海の見える小さなレストランで夕食をとった。
客はほとんどいなかったが、静かで良い店だった。テーブルにオレンジのキャンドルが灯っていて、すりガラスのシェード越しに柔らかく揺れた。デザートのクレームブリュレは、ここ数年で食べたものの中で一番美味しかった。
店を出る頃には雨雲がすっかり海を包んでいた。黒い車は濡れそぼっている。
一日の終わる気配に、圭介はなんだか急に寂しくなった。
なぜ、という確かな理由はない。ただこのまま、高辻がこの車ごと海に溶けて消えてしまうような気がした。明日からまた、彼と離れて暮らす。
「高辻。」
普段人目に付く場所でそうすることはなかった。高辻は、助手席から身を乗り出して近付いてくる圭介にわずかに戸惑いながら、それでも瞳をそらすことなくまっすぐに唇を受け入れてくれた。
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