4.
痛みはまだない。だが、少し腕に冷たさを感じた。
おそるおそる傷口を見る。思いの外深く、血に塗れてぬらぬらと輝いていた。
圭ちゃん。ぼんやりと母の声を思い出す。その声は次第に違う人間の声に変わっていく。
――圭介。
高辻はどこにいるのだろうか。約束の時間に現れない圭介に、愛想を尽かしてしまったかもしれない。
――上出来だ、圭介。
姿のない高辻の、記憶の声に触れる。それだけでも、どこか救われる心地がした。
遠くの大通りから、車の走り抜ける音だけが聞こえる。なんだか喉の奥が冷たい。涙がこみ上げるのを感じた。それを必死に押し殺す。
どれくらいそこにいたのかわからない。
「圭介」
誰かに名前を呼ばれた気がして顔を上げた。
甘くて低い、ひきずるような声だ。そばには誰もいない。薬のせいなのか、失血のせいなのか、幻覚を見ているのかもしれない。ぼんやりとした意識の中で、圭介はゆっくりと声の主を探した。
道路のむこうから、黒いスーツを着た男がこちらにやってくるのが見えた。
「……圭介。随分派手にやったな。」
男はしゃがむと、圭介の血まみれの腕に触れた。近くで見る男の顔は、たしかに高辻だった。
「何をやらかしたんだ、」
「親父とけんかした。……初めて、喧嘩したんだよ。俺の勝ち」
褒めてほしくて、笑ってみる。高辻は渋い顔でその笑顔を一瞥した。
「馬鹿なやつだ、」
「……遅くなったの、怒ってる?」
「そうじゃない、」
「じゃあよかった。俺、置いていかれたと思った、高辻がもう帰ったと思って」
「一度帰ったよ。……だが、思い直して戻ってきた。お前が待っている気がした。血まみれだとは思わなかったがね」
高辻は喋りながらネクタイを取り、怪我をした腕の脇の下をきつく縛って止血を始めた。薬が切れかかっているのか、その時初めて痛みを感じた。思わず顔をしかめる。
「医者へ行け。馴染みのところがあるから、連れて行ってやる。」
「……うん、高辻、」
「なんだ、」
ありがとう、ともっと近くで言いたくて、彼のシャツを引いた。
バランスを崩した彼が圭介に覆いかぶさる。
倒れる寸前で腕を付き、高辻は体勢を保った。
彼の鼻先が目の前にある。
とっさのことに、彼は驚いたような、戸惑ったような眼差しを圭介に向けた。その目を見た瞬間、圭介は堪えられない衝動から彼の唇を塞いだ。
その瞬間、世界から時間が消え、なにか別のもので満たされていくように感じた。
そっと唇を離す。
高辻は何も言えず、狼狽えるようにこちらを見ていた。圭介の目の奥から、今の口づけの意味を必死で読み解こうとしているかのようだった。
次第に腕の痛みは強くなり始め、思わず力が入る。身を縮める圭介を見て、高辻はいつもの険しい顔に戻った。
「……馬鹿者。いいから行くぞ。立てるか、」
高辻に小脇を抱えられる。立ち上がると、眼の前が一瞬暗転した。ふらつく身体を、高辻が支えながらながらそばに停めた車へと誘導していく。
車のロックを解除した瞬間、ヘッドライトに照らされて人影が浮かび上がった。
小柄で痩せた男だった。
その男はよろめきながら、ゆっくりとこちらに向かってくる。
「……親父、」
顔面蒼白で、今にも泣き出しそうに口元を震わせている。
「悪かったよ、圭介、悪かった。死なないでくれ。オレが悪かった。どこにも行かないでくれ。そいつのところに行っちゃ駄目だ。そんなやつ、お前を不幸にするだけだ。圭介、頼むよぉ、けいすけ、……」
うわ言のように圭介の名前を呼びながら、よろよろと歩み寄ってくる。
その額に、脂汗が滲んでいるのを見た。
「お、親父、あんた、」
圭介が手を伸ばそうとした瞬間、父親はその場に崩れ落ち、動かなくなった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます