3.

 瞼を上げ、立ち上がる。

 日は完全に落ち、あたりは真っ暗だった。考えている間に随分と時間がたってしまった。急がないと、高辻が帰ってしまう。

 圭介は取り出したカプセルを口に含み、浴槽の蛇口をひねった。その水をすくって飲み、薬を喉の奥へ押しやる。


「……喉、渇いたのか?」

 水の音に気づいた父が、扉越しに声をかける。圭介は冷たい握り玉に手をかけて、ゆっくりとまわした。

 扉が開く。

「お前、」

 父は怯えたように目を見開いていた。

「俺、会いに行かなきゃいけないんだ。わかってよ、」

 さっき飲んだ薬はすでにに効き始めていた。頭の芯が透明になり、今なら何でもできる気がした。風呂場の外へ、足を踏み出す。座ったままの父を見下ろしながら。

 父の姿はいつもよりずっと小さく見える。


「待て、」

 とっさに足元にすがりつく父を、初めて蹴り飛ばした。華奢な圭介の脚では大した力は出ない。だが怯ませるには十分だった。父が驚いているその隙に、床を蹴って走り出す。


 台所を抜け、携帯をひろい、脱ぎ散らかしたままのスニーカーに乱暴に足を突っ込んだ。踵を踏んだまま玄関の引き戸に手をかける。

 その瞬間、背中に大きな衝撃を感じた。


「圭介、」

 父がのしかかってくる。ふたりは土間に倒れ込んだ。父の肘が圭介の首に入る。圭介も必死に抵抗する。腕を払いのけ、それでもなお服を掴んでくる父の指をありったけの力で引きはがす。

 不意に身体から父の重さがなくなった。圭介はその一瞬を見逃さなかった。渾身の力で地面を蹴り、その先に駆け出そうとした。

 だが再度、ガン、という音が――さっきよりも重量のある一撃が左腕全体に広がった。

 薬をのんだせいで痛みはなかったが、腕の痺れに思わず足を止めた。何かが大きな音を立てて落ちる。落ちたものはガラスの灰皿だった。灰皿は地面に当たって二つに割れた。

 父は割れた灰皿を掴むと、それで圭介に殴りかかってきた。思わず両腕で顔面をかばった。


 しまった、と思った。

 生暖かい感触があり、玄関の敷石に血が滴った。灰皿の切り口で肘から下の皮膚が裂けたらしい。

 擦りむく程度の怪我ではない。今まで見たことがないくらい血が流れている。

 それでも。

 圭介は落ちていたもう半分の灰皿を持って立ち上がった。頭上に掲げた瞬間、父は腰を抜かして後ずさった。


「……親父、許してくれよ。ここを出させてくれよ。あいつに会いたいんだ」


 父の土気色の顔が、玄関の向こうにある街路灯に照らされて浮かび上がった。怯えたきった目が、圭介を震えながら見あげていた。

 もういい。

 圭介はゆっくりと腕を下ろすと、灰皿を投げ捨て、玄関をあとにした。父はもう追っては来ないだろう。



 白いスニーカーが血に汚れている。

 夜道は昼の雨でまだ濡れていた。

 途中でいくつか水たまりにはまっては、靴の中に雨水が入り込み、びちゃびちゃという足音を立てる羽目になった。

 泥水と血に塗れながら梔子のにおいのする路地裏を歩き、公園の前を通り、古びた工場の前にたどり着く。


 待ち合わせ場所だ。

 高辻の姿はない。


 携帯を見た。今は二十時半。約束の時間から二時間も過ぎていた。

 遅かった。


 圭介はヒビの入ったトタン屋根の下に腰を下ろした。足元を見ると、腕から滴る血が地面に点々と赤い跡を描いていて、それがずっと道路の方まで続いていた。きっと自分の家まで続いているのだろう。

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