2.

 家の隅にある浴室へ、押し込められた。

 脱衣所で父が立っている。

「そこで頭冷やせ。すぐにわかる。お前が間違ってるって。」

 扉の向こうで座り込む。

「夜になったら開けてやるから」

 それまでそこを動かないつもりらしい。


 たまにある折檻だった。

 冬にやられると寒さで酷い思いをするが、幸い今は梅雨時だった。ただ待っていればよかった。

 普段なら、夜の九時には開く。

 だが今日は木曜日だ。

 こんなところで悠長に待っている場合ではない。ここから出て、高辻に会いに行かなければ。


 振り返って浴室の窓を確認する。沈みかけの夕日がすりガラスにオレンジの影絵を作っていた。

 日没――高辻との約束の時間だ。

 正確な時間はわからない。携帯がない。おそらくさっき殴られた台所に落としてきた。

 圭介は試しに窓枠に手をかけてみた。が、びくともしなかった。窓の外で伸び放題になっている蔦のせいで、窓枠がガチガチに固まっていてる。毎日換気のために数センチ開けるのが精一杯だった。

 この窓からは、出られない。

 出るとすれば、父の待ち構える浴室の扉からしかない。

 圭介は浴室の扉に手をかけようとして、ふっとその手を引いた。


 怖かった。


 鍵がかかっているわけではない。扉は開く。だが出たところで、きっとすぐに父に捕まってまた戻される。開けても無駄だということが開ける前からわかっている。おそらく父も、圭介がこの扉を開けることはないと思っているだろう。


 出られない。

 出たい。

 出られない――、

 躊躇すればするほど日は傾き、出口はなくなっていく。

 あの日、母に置いていかれた日と一緒だ。思考が逆流し、何も考えられなくなる。


 どうしたら。

 窓からオレンジ色の光は消え、藍色の光がひそやかに差し込む。

 高辻がそばにいてくれればと思った。そばにいてくれるのなら、一人でできないことも乗り越えられるのに。


――そばに?

 圭介はふと、ポケットに入れたままの財布の存在を思い出した。

 ゆっくりと財布を取り出す。小銭入れの隅、パステルブルーの守り袋の中に、小さなマリア像と、薬が入っている。高辻の血。心臓が大きく瞬いたのを感じた。

 深呼吸をする。それから目を瞑って小さく祈った。神にでも母にでもなく、高辻に。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る