5.
高辻はこちらに背を向けて横になった。
眼の前に、その大きな背中が広がっている。
広くて、強くて、その特徴の全てが圭介に備わっていないものだった。思えば、彼の身体の記憶がない。あの日のことはすべて、夢を見るのと同じくらいに不確かなことしか思い出せない。
そう思うと、この背中が変に肉感的に感じられた。
高辻はなかなかこちらを向かない。
「……高辻、」
覚悟を決めて、つぶやいた。
「しないの、」
「何を、」
「この間みたいなこと。」
背中が揺れる。笑っているらしい。
「して欲しいのか、」
「別に。ただ、そういうことなのかと思って」
また背中が揺れる。
「誰がお前みたいな子供に欲情するか。私にそんな趣味はない。この間のはああ言う遊びなんだ。わかるだろう」
「……遊び?」
「そうさ。自分の鬱憤を晴らすために弱いものをいたぶる遊びだ。お前の父親がやっていることと一緒だ。」
圭介は黙った。
「私はそういう人間だよ、圭介。子供を虐げねば仕方がないような、そんな性分なんだ。お前以外にも何人にもした。またするかもしれんぞ。お前は私を怒らせるのが好きなようだからな。せいぜい私の機嫌をとることだ。」
「うん。」
圭介の返事を聞くと、高辻はため息を一つついた。
「うん、じゃない。そういう素直さのせいで、後で痛い目に遭うんだ。いい加減に成長しろ。こんなのを信用するようじゃ、先が思いやられる」
すらすらと紡がれる愚痴の数々に、圭介はなにかうら寂しいものを感じた。
私を信じてくれるか。
そう問われているような気がしてならなかった。
もちろん、あのホテルで彼にされたことは二度と忘れない。あれを何人にもやったと言うのだから、心底胸糞悪い。
だがその彼が、自分みたいな子供の宿題を二ヶ月も見てやって、こうやって一緒に寝てくれるのもまた事実だった。どちらがほんとうの彼の姿かは分からないが、矛盾だとは思わなかった。
高辻の優しさは分かりづらい。
彼の背に、そっと額を当てる。皮膚越しに、彼の鼓動を感じる。彼の背中は、甘くて懐かしい匂いがした。高辻は振りほどくわけでもなく、ただ圭介のしたいようにさせていた。
彼の背中に寄り添い、自分の体をぴたりと合わせる。その温みに、次第に柔らかな眠気が圭介を呼び始めた。
まどろみの中で、欠けた何かが修復されていく心地がした。それは母が祖国に帰ったあと、永遠に失われたはずの何かだった。
圭介は目を閉じ、身体の眠るままに任せた。
その晩、海の夢を見た。
本物の海は見たことがない。テレビで見た青色と、そこで聞いた波の音ぐらいしか、知っていることがない。それでも夢の中、圭介の目の前に、見たこともないはずの母の故郷が――開放的なダバオの港町が広がっていた。
船のつながる港から少し離れた砂浜を、圭介は歩いていた。隣には高辻がいた。こんな海には似つかわしくない、真っ黒なスーツを着て。
砂浜の奥には今にも壊れてしまいそうな露店が広がっている。庇は日に焼けていて、その奥には漁師たちの小さな家々と、その漁師たちを生かすための飲食店がどこまでも続いていた。その向こうは近代的なビル街で、青いビルの反射光が昼間の灯台のようだった。
圭介のそばで海鳥がなく。
圭介は高辻に、ここが母の故郷だと説明した。
それは別に、ほんものの母の故郷ではなかった。第一見たことがない。見たことがないものを、それでも、母の故郷だという確信をもって高辻に伝えた。
あるいは高辻の故郷なのかもしれない、と、彼の横顔を見ながらぼんやりと考えた。
彼がどんな場所で生まれ育ったのか一つも聞いたことがなかった。だが、夢の中で、それは海なのだ、とはっきりと感じた。
「高辻、あんたの故郷にも海はあっただろう」
彼は上白糖のような美しい砂を革靴で蹴り上げながら、愉快そうに笑った。
「ああ、あったよ」
その横顔のむこうで、太陽と紺碧の海がきらめいた。
高辻は立ち止まると、青空を仰いで眩しそうに目を細めた。
自分たちはずいぶん遠くから来て、ここがその旅の終わりであるような気がした。この海が、自分たちのために広がっている。そんな気が。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます