8.

 廃ホテルの三階に、あの部屋はあった。なるべく中を見ないようにしながら、ソファの影になっていた学生鞄を引っ張り出す。

 駐車場に戻る道で、今日の宿題の中身を思い返していく。


 英語は教科書の英文の和訳。まあ簡単な方だ。問題は数学だった。圭介は数学が大嫌いだ。計算をしている途中で意味がわからなくなることが多々あった。

 今日の宿題は、確率の計算問題。

 誰かに教えてもらえるならそうしたかった。が、父は当てにならないし、宿題を教えあうような友人はいない。

 ふと、さっき男が「数学が得意」といったことを思い出した。

 ほんの世間話のつもりだった。

「……あんた、確率ってわかる」

「なんの確率だ?」

「確率の、計算の仕方」

 男は再び大声で笑った。

「ああわかる、得意だよ。君は本当に面白いな。どれだ。出してみろ」


 車内灯の明かりで参考書を広げる。

 子供の算数じゃないか、と言って笑いながらも、一問目から丁寧に教えてくれた。

 案外、教え方はうまかった。

 得意だと言っていたのは嘘ではなかったらしく、正答への道筋が今までないほどすんなりと、一本になってきれいに見えた。今まで理解できずに苦労していたのが嘘みたいだ。

「あんた、昔先生だったのか」

「そんなわけがあるか。」

「教え方がうまい」

 男は圭介の方をちらりと見た。またどうせ大声で笑い飛ばすのだろうと思ったが、意外にもふっと笑みを浮かべただけだった。

「年の功だ。これぐらいの年になると、嫌でも若者におしえなければならん。立場というものがあるからな。」

「……ふーん。」

「これで終わりか?他の宿題は?」

 圭介は英語の宿題も出してみた。

 そっちはまるでだめだった。


 宿題が終わると車を出し、さっき目を覚ましたコンビニで、ジュースとアイスを買ってくれた。店の灯りを避けるようにして停めた車の中、硬いアイスキャンディの先端を歯で折る。ガリ、という音に、男がちらりとこちらを見た。


「君はこのまま、殴られながら生きていくつもりか、」


 答えてやるべきか分からなかった。出会って間もない男に、全く信用のできない男に話して何になるというのだろう。だが、こうして自分のことを知りたがる人間もまた、他に見たことがなかった。

「……別に。文句ある?」

「文句というほどのことではない。だが何の得にもならない家でダラダラと過ごしていいのかと思ってね。人生は思ったよりも早く過ぎるぞ。老婆心だ、老婆心」

「何の得にならなくたって、肉親だ」

「捨てていけばいいのに」

「いいわけないだろ、」

 反射的に語調が強くなる。圭ちゃん。母の声とともに、自分を置いていく母の背中と、父親をおいて出ていくかもしれない自分の姿が重なっていく。


「軽々しく捨てるなんて。父親だぞ。あんただって、肉親にそんなことはできないだろう」

「私は家族をすべて捨ててきたよ。あるいは家族が私を捨てた。」

 圭介は次に出るはずの言葉が喉元でつっかえたのを感じた。

「まぁ、どちらでもいいがね、」

 男は軽蔑のこもった眼差しで圭介の方を振り返った。今考えたことを見透かされてしまいそうで、思わず目をそらす。

「君は家族思いだなぁ」

 男は持っていた紙コップのコーヒーをすすった。

 こんなことを話したのは初めてだった。圭介は、ひとつの案を思いついた。それは自分でもバカバカしいと思うような思いつきだった。

 たが、なぜだか聞いてみたかった。


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