第一章 咲き月、スライム編

一章一話 『スライムという魔物』

そのぶよぶよとした生物を、ローレンティアはまじまじと見ていた。


彼女の膝ぐらいまでの半球状の体、目の前の個体は苔のような深緑だが、青色や赤色のものもいるらしい。恐らく口と目に相当する部分が、黄色く変色している。


「それがスライムだ」


ローレンティアの傍に立つアシタバは説明を続ける。


「一番目撃されることの多い魔物だな。直接的な害はない。

 鍬を振ったことがある奴なら、難なく倒せる程度だ。」


ぶよぶよと波打つ自分の体に揺られるスライムの姿は、ローレンティアに愛くるしささえ感じさせる。


「だがこの魔物を一番怖がる探検家は多い。

 あんたも、政治に関わる者なら、スライムは一番恐れなきゃいけない魔物だ」


意外そうに見上げるローレンティアの顔を、アシタバが受け止める。

咲き月の末、ローレンティアが穴に落ちてから二日後のことだった。







時間は少し戻り、同日の朝になる。

アシタバは魔王城をぐるりと囲う堀の傍に立っていた。

手には縄。その先は、堀に溜まっている水の底へと伸びている。

アシタバが縄を引っ張り上げると、水をたっぷりと貯めた桶が姿を現した。


「んんー」


完全に引っ張り上げ、屈みこんで桶の水の色を窺うと、少し紫を帯びているのが見て取れる。


「なんだぁ、剣の手入れでもしたいのか?」


静かな朝に、その声は無遠慮に響く。

アシタバが振り返ると、そこにはローレンティアを引き上げる際に音頭を取っていた、あのノッポの男が立っていた。


「ツワブキ」


ツワブキ、と呼ばれたその男は、とにかく高い身長が目立った。

おじいちゃんとは言われない程度のオジサン世代。

白髪の多い髪はバンダナで上にまとめられており、節々に見える老いとは対照的に、その表情は自信と活気で満ち溢れている。


「堀の水、使おうとしたのか?無理だろ。

 俺も昨日調べたが、この辺の水は毒されすぎてる」


「そうみたいだな。飲料としてはともかく剣の手入れには使えると思ったんだが……。

 亜水(デミ)にしても、純度が高すぎる」


アシタバが桶の水を堀に返す。


「支給された水はどうしたんだよ。まだ不自由はしねえはずだぞ」


「……初日に穴に落ちた際に剣を使いまして。その手入れで既に結構使ってる」


「ああ、あのお姫様と落ちた!!」


くく、とツワブキが楽しそうに声を弾ませる。アシタバは不満げだ。


「ホント、笑い事じゃない。何事もなくてよかったけど」


「そりゃあお前も大変だったろうが、お姫様もどうだかな。

 お前はあんまり感情が表に出ねぇからな。

 誤解されやすいとも言えるが、まぁ初対面で共に一夜を過ごすのに向いてる人物とは言えねぇな。

 分かるか?相手に不安を与えていたんじゃねぇの?」


「……………」


「とにかく俺が言いたいのはもっと笑えってことだ。

 今回は特に、色んな所から色んな奴が集まっているんだからな。

 それともう1つ、というかこっちが本件なんだが、そのお姫様に呼ばれてる」


「…………俺が?」


「そうだ、俺と一緒に来い」








アシタバが呼ばれたのは魔王城の一階だった。

正門となるであろうドラゴンが通れるぐらい大きな入口の脇に、ローレンティアとその侍女、エリスは待機していた。

そしてその後ろでは、武器を持った男たちが走り回っている。


「…………なんすか、あれ」


「戦闘部隊の奴らだ。まず手始めに、一階の魔物掃討から始めることになってな。

 朝から総出で魔物退治だ」


「俺、呼ばれてないけど……」


「そりゃあお前、初日大変だっただろう?俺の裁量でオフにしたんだよ。気遣いだ、気遣い」


「そ、その節は……」


「あー、いやいや、お姫さんをどうこうってわけじゃないんだ」


少しぐだぐだとし始めた場を、エリスがぴしゃりと言いまとめる。


「……今日アシタバ様にお越し頂いたのは、ローレンティア様の護衛をお願いできないかと思いまして」


「護衛?」


「見学を、ローレンティア様がなさりたいそうです。魔物と戦う方々の現場を」


「はぁ、それでその護衛を?」


「ツワブキ様に伺ったところ、あなたが適任とのことで」


目線でツワブキに疑問をぶつける。


「オフで暇してる。お姫さんと面識がある。

 後は、お前は他の戦闘従事者と比べて学者肌っつーか、説明が上手い。以上だ。文句あるか?」


俺のオフは、とは言わない。


結果的に、探検家アシタバ、同じく探検家ツワブキ、王女ローレンティア、侍女エリスの四人は、戦闘部隊の現場を見学することになる。


先の調査の結果、魔王城の一階にはそれほど驚異的な魔物は生息していなかった。

地上を住処とする魔物の大半は、勇者や先遣部隊との戦いで退治されていたからだ。

だから、一階に生息していたのは一種類の魔物のみ―――。


すなわち、スライムだけだった。










「だがこの魔物を一番怖がる探検家は多い。

 あんたも政治に関わる者なら、スライムは一番怖がらなきゃいけない魔物だ」


こうして場面は冒頭に戻る。

偶然出会ったスライムを前に、アシタバは説明を始めた。

うんうんとツワブキは同意するように頷くが、ローレンティアは首を傾げる。


「スライムは一番弱い魔物と聞いていますが……」


「実際そうだ。でもスライムはもう1つの特徴的な性質がある」


「特徴的な……?」


「あいつらは先遣隊なのさ。

 探検家の間じゃ“スライムが現れた土地にはやがて魔物の群れがやってくる”って言葉が定着している。

 一匹のスライムは、百の魔物を引き連れてくるんだ」


「ま、そういうわけだな」


アシタバの説明をツワブキが継いだ。


「奴らは魔物の闊歩する魔王軍圏内より、その外縁部によく出没する。

 あいつらの出現は、土地にとっての死刑宣告に等しい。

 魔王軍が攻めてくるぞってサインなのさ。

 スライムの目撃情報の数ヵ月後、魔物の大群に滅ぼされた村は幾つだってある」


「………そのような話は初めて聞きました」


エリスが少し驚いた様子で言う。


「俺ぁ何度も忠告したぜ。色んな国に。スライムの現れた村に、兵士を多く配置してくれってな。

 だけど聞く耳を持つ奴は少なかった。

 スライムなど警戒に値しない、他にもっと兵を回すべき場所がある、事が起こってから対応すればいい。まぁ、そんなところだ。

 どこも兵力に余裕がないことは知っていたから、俺もそれ以上は言えなかったさ」


政治に関わる者の端くれとして思うところがあるのか、ローレンティアとエリスは押し黙ってしまう。

見かねてアシタバは説明を続けた。


「話が逸れたな。スライムは魔物の群れを引き連れてくる。

 じゃあどうしてそうなっているか、の答えがこれだ」


そう言ってアシタバは、懐から瓶を取り出した。


「それは……?水ですか?少し濁っているようですが………」


透明な瓶の中の紫がかった水を、ローレンティアはまじまじと見つめる。


「亜水(デミ)、と俺たちは読んでいる。基本的に魔物達が住む土地というのは、環境が違うんだ。

 水は濁り、土は黒ずみ、空気は澱む。

 水は亜水(デミ)に、土は亜土(ヂードゥ)に、空気は亜霧(ムドー)に。

 だからそういう土地では水も飲めないし、作物も育たない。毒性があるんだ。

 その代わりそういった水や土は、魔物たちの養分になる。

 これは今朝堀から汲んできたんだが……。ま、流石魔王城だけあってかなり濁っているな」


「成程」


得心がいった、という風にエリスが声を上げる。


「つまりスライムは、亜水(デミ)を…………魔物が住む土地を創り上げる魔物なんですね」


「え?」


「そう!理解が早いな。正確には、亜土(ヂードゥ)や亜霧(ムドー)もだ。

 創り上げるというより、作り変えるといった方が正しい」


一人だけ理解が追い付かず不安そうなローレンティアに、アシタバは説明を重ねる。


「奴らは魔物向けの環境を整備する習性を持つ。

 魔王軍圏内の外縁部……つまり、普通の土地に出やすいのはそのためだ。

 スライムは水や土を主食としていてな。

 土を喰っては亜土(ヂードゥ)を出し、水を飲んでは亜水(デミ)を排し、空気を吸っては亜霧(ムドー)を吐く。

 奴らが出現し始めた土地はそうやって魔物向けに作り変えられていき、住みやすくなったところで魔物達が移住してくる。

 魔王軍って言っても生態系があって捕食関係もある。

 新天地ができれば、弱い奴らは雪崩れ込んでくる。

 餌が移動すれば、より凶暴な魔物もそれを追ってくる」


アリの行列は、先頭のアリが置くフェロモンによって形成される。

魔王軍の侵攻をアリの行列とするならば、まさしくスライムは先頭アリなのだ。

彼らが拓いた土地に、後続の魔物達が押し寄せる。


「土壌生物、と呼ばれる生物たちがいる。代表的なのはミミズだな」


ミミズの真似なのか、アシタバは人差し指をうねうねさせた。


「彼らは木から落ちた枯葉を砕いて食べて、糞を出す。

 ミミズの糞は植物にとっていい栄養らしくてな。

 また、土の中をミミズが動き回ることで土も解れるし、根の通りやすい道ができる」


ミミズという生き物は知らないわけではなかったが、ローレンティアはそのような特性は初めて聞いた。

ふとツワブキを見ると、彼も初耳、といった顔をしている。


「食物連鎖、というものがある。

 土の養分から植物が育ち、植物を草食動物が食べ、草食動物を肉食動物が食べ、それらの死骸が土に還る、というあれだ。

 死骸の分解も土壌生物の領分だが……。

 落ち葉なんかは草食動物に食べられることのない、食物連鎖の脱落者だ。

 土壌生物はそれを分解して、土に戻す。その働きで連鎖が十全に回る。

 食物連鎖の原点といってもいい」


「つまりスライムは、土壌生物だっていいたいのか?」


ツワブキの言葉にアシタバが頷く。


「魔物側の土壌生物。そして、魔物側の生態系の原点だ。

 彼らが魔物の生態系の始まりを創りだす」


そこまで聞くと、ローレンティアにも見えてくる。

目の前でぶよぶよと揺られているスライムの、その後ろに控える軍勢が。


確かに彼らは、為政者が最も恐れなくてはならない魔物だ。



 





「しっかし相変わらずお前の話は納得がいくが、知らんことばっかりだ。

 土壌生物なんてどこの学者さんが定義したんだ?」


ツワブキの問いかけに、しかしアシタバは答えなかった。

ローレンティアは初日に説明された、野生回帰能力という単語を思い出す。


それらはまだ、この世界にはない言葉だった。


14歳。それは彼が、こちらの世界にきた年齢だ。

彼はそれから探検家としての経験を積んでいく。

それらの言葉は14歳より前に彼が知ったもので、こちらの世界に持ち込んだものだ。



探検家アシタバは、2009年の日本からやってきた転生者だった。




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