大切な友達
疲れ果てた一日を終えて、澤谷は深くため息をついた。
書斎の窓から差し込む夕陽の光が3つの影を床に描き出し、金色の明かりが室内に溶け込む。
「どうしましたか、澤谷さん」
シオン・ヴァルガスが澤谷の様子がおかしい事に気付き声をかける。
壮年の2人に比べ若手のシオンは年に数回だけ日本を訪れる。彼が澤谷との仕事の打ち合わせに訪れる日は、その滞在期間に絞られていた。今日はその貴重な一日であった。
「少々顔色が芳しくないようでございます。今日は早めにお休みになられては如何でしょうか?」
灰色の髪をきれいに整えた高身長の男性・芹沢ユウジが、眼鏡を調節する仕草をしながら言葉を添えた。
澤谷は2人の言葉に頷き、一瞬、視線を落として目を閉じた。
「いえ、少し昔の事を思い出しましてね…」
その言葉にシオンとユウジは一瞬にして澤谷に鋭い視線を向けた。それに気づき澤谷のこめかみに一筋の冷汗が浮かぶ。
沈黙が流れ、しばらく澤谷の胸には自身の心臓の音だけが大きく響いていた。
「ところで、先程の雨は興味深かったですね」
やがて口を開いたシオンがさりげなく窓の外を見つめた。
「先程の雨が、何か?」
ほっとしてその言葉に返事を返す澤谷にシオンは口元だけ僅かにつり上げた。
「精霊が、悲しみに震えていました。ターゲットがそろそろ決まるかもしれません。正直、もう少し早く決まると思っていましたが」
シオンの言葉に、ユウジもまた不敵な笑みを浮かべる。
「それは素晴らしい。娘さんの動向を、くれぐれも目を離しませんよう」
澤谷は頷き、丁重に2人を見送った。
澤谷の沈思の中に、突如として後ろからノックの音が響いた。
「旦那様、お電話です」
澤谷は使用人が持ってきた電話を手に取り、相手の声を耳にした。その声は彼の心を引き裂くようだった。使用人と共に立ち上がり、外に向かった。
「アヤカに何かあったらしい。急いでくれ」
その言葉を聞いた瞬間、澤谷を乗せた車は家の外へと走り出し、アヤカのいるプライベートガーデンへと向かった。
その少し前の事。
穏やかな風が戻り、アヤカはいつも通り、優しい風に身を任せながら安らぎの表情を浮かべていた。
しっかりと握られたリュウの手を小さく握り返しながら
彼女はリュウの存在の大きさを強く感じていた。
屋上から戻る時、アヤカはリュウの手を放そうとしなかった。
「アヤカ、誰かに見られるよ」
廊下を歩きながらそう言ったが、彼女は手を放そうとしなかった。リュウは少し困ったように息を吐き、頭を掻いた。
「とりあえず、風邪ひくから…着替えないと」
そう言って少し歩いていくと、先程アヤカと話していた女の子たちと遭遇した。彼女らは驚いたような視線で、アヤカを見つめている。
「行こう、アヤカ」
アヤカの手を引き、リュウは彼女らの前を通り過ぎていった。
「化け物」
そう呟く声が聞こえた。
その言葉はアヤカの心に重くのしかかり、深い悲しみを誘ったが、彼女は自分の周りを浮遊する精霊たちを見て軽く息を吐くと、無理やり笑顔を作った。
「大丈夫」
しかし、リュウの反応はない。
アヤカはリュウが自分の手を引いている方とは反対の手を強く握っている事に気付いた。その表情はいつもの穏やかな彼とは違、少し強張った顔をしている。
彼女たちの姿が視界から消えると、アヤカがリュウに話しかけた。
「リュウ、助けてくれてありがとう」
彼の足が止まり、アヤカの顔を見た。
「ちょっと怒ってる?」
そう言うとリュウは少しだけ驚いた表情をした。
「怒る?」
「そんなかんじの顔、してる」
指摘され、リュウは動きを止めた。まるで思考が停止したかのように硬直した彼の様子を見て、アヤカはいつものように優しい笑顔を向けた。
「私の為に怒ってくれて、ありがとう。でも、私は大丈夫だよ」
その時、リュウの頬を冷たい風が微かに撫でた。
(室内なのに、風?)
笑顔を向けるアヤカを見ながら、自身の頬に触れる。
「アヤカちゃん!羽瀬田君!どうしたの!?」
学級委員長のサツキがずぶ濡れで廊下を歩いているリュウとアヤカを見つけて驚き叫び、その声に引き寄せられるようにショウも駆けつけた。
「ショウ、タオル持ってきて」
サツキが命じると、ショウはすぐさまタオルを探しに走った。
「アヤカちゃん、とりあえず着替えよう」
サツキに手を引かれ、アヤカの手がリュウから離れる。
「…あ」
離れた手を再び掴もうと空を切ったアヤカの手が少しだけ寂しそうに揺れる。
アヤカとサツキが女子ロッカールームに消えていった後、リュウはしばし茫然と立ちつくし、その後、ほんの一瞬前までアヤカの手に触れていた自身の手を眺め、首をかしげた。
「なんだっけ…これ」
彼のつぶやきが廊下に静かに響き渡る。その後ろで、タオルを持って戻るショウの足音が響いていた。
ショウが持ってきたタオルを受け取り、サツキはアヤカの湿った髪にタオルを当てた。
アヤカは、少しだけ気まずいと思っていた。
屋上にアヤカを呼び出した女の子たちと同じように、サツキも、ショウに恋をしているからだ。
(サツキちゃんも、私を嫌いになるのかな)
「アヤカちゃん!羽瀬田君が心配するよ」
サツキにリュウの名前を挙げられ、アヤカはどこか遠い思い出から引き戻されるように、自身の体を拭き始めた。サツキの方を見ると、彼女はいつものように誇らしげな笑顔を浮かべると、アヤカのロッカーから体操着を取り出した。
「アヤカちゃん、ショウに告白されたんでしょ?」
突然の問いかけに、アヤカは頭が真っ白になった。
「…しってた、の…?」
おそるおそるサツキの顔を見ると、彼女は優しく微笑んでアヤカを見つめていた。
「知ってたよ。ショウ、ずっとアヤカちゃんの話ばかりしてたから」
微笑む彼女の表情には、ほのかな寂しさが浮かんでいた。
彼女が知っていて、それでも何も言わずにいてくれたこと。自分の好きな人が、自分の友達を好きになったと知りながら、それでも友達として側にいてくれたこと。そんな深い思いに満ちた気持ちが、アヤカの心を溢れさせ、涙が流れ出てきた。
サツキもまた、目をほんの少し潤ませていた。
「ショウの事はずっと好きだったよ。でもね、アヤカちゃんも大切な友達だから」
強く微笑む彼女に、アヤカは涙が止まらなかった。
しゃがみこんで泣き出したアヤカに、サツキはタオルをかぶせ、その髪をわしわしと動かす。
「泣くのは着替えてからにしなさい」
しっかり者の彼女らしい、頼もしい言葉にアヤカの心は温かさで満たされていった。
着替えが終わり、濡れた制服を丁寧に畳みながら、サツキは再び口を開いた。
「私の事を気にして、決めちゃだめだからね」
振り向き、笑いかけたサツキは少し寂しそうだったが、しっかり者の彼女らしい頼もしい笑顔を向けていた。
先に着替えが終わり、リュウは女子ロッカー室の前でショウと一緒にサツキとアヤカを待っていた。
不思議で、懐かしい感覚だった。
アヤカの手を握っていた自身の手を再度眺めながら、屋上での出来事を思い出す。
女子生徒に叩かれる直前のアヤカの表情、目が合った時の視線。その時に感じた、むずがゆいような、なんとも言えない感覚。そして、先程のアヤカの指摘。
(怒るって、こんなかんじだったっけ)
”化け物”
アヤカに放たれたその言葉はリュウの心を激しく揺さぶり、胸の奥が熱くなり、頭の中が真っ白になっていくのを感じた。あの瞬間、一瞬職務の事を忘れそうになったが、彼女の言葉が現実へと引き戻してくれた。
転校初日に学校生活に胸を躍らせていたアヤカを思い出し、胸が痛む感覚を覚えた。
(アヤカが一番つらいはずだよな)
自分に対して無理して笑顔を見せる彼女に、リュウは何も言えなかった。
「羽瀬田君さ」
ショウが唐突に口を開き、リュウはその方向に目を向けた
「澤谷さんの事どう思ってる?」
その真っ直ぐな質問に、リュウは答えに困りつつ、一瞬考え込んだ。
「どう、なんだろうね」
彼の言葉は、迷いとも疑問ともつかない不確定さを内包していた。
戦闘と訓練に明け暮れ、組織を抜けてからはボディガードとしての勉強に専念してきた彼の日々。その中で出会った好奇心旺盛なアヤカが彼の世界を少しずつ変えていった。
アヤカと出会ってからの3ヶ月、リュウにとっては初めてのことばかりだった。
2年前まで、唯一の大切な存在であった妹ユメへの感情が、どこかに置き去りにされたような感覚に時折襲われていた。それが何だったのか、自分でもはっきりとは思い出せなかった。
リュウのその様子を見て、ショウは小さくため息をついた。
「お待たせ」
女子ロッカー室から現れたサツキがアヤカをリュウの方へ連れてきた。
「羽瀬田くん、アヤカちゃんの家に連絡してくるから」
彼女が指示を出すと、リュウは頷きながらアヤカの方を見た。その視線に対し、アヤカは一瞬目を合わせた後、すぐに視線を逸らしてしまった。
「わかった。ありがとう…」
その後、到着した車から澤谷が心配そうに車から降りてきた。
「アヤカ、学級委員の立花サツキさんから連絡があったよ。一体何があったんだい?」
澤谷の声は心配を帯びていたが、アヤカは微かに微笑んだ。
「心配かけて、ごめんなさい」
サツキが一歩前に出て頭を下げ、澤谷に謝罪の言葉を述べた。
「アヤカちゃんのお父さん、すみません。舞台稽古中は学級委員の私がみんなの事を見ていなければいけないのに…」
その謝罪に澤谷は優しい微笑みを浮かべ、彼女の頭に手を置いた。
「君の行動は迅速で的確だったよ。ありがとう」
帰りの車内で、澤谷はリュウに今日の事を尋ねた。
リュウはどう言い表したらいいのか一瞬悩んだが、先程サツキが澤谷に謝罪の言葉を述べてくれたせいか、大きく問い詰められることはなかった。
改めて、しっかり者のサツキにリュウは心の中で感謝をした。
「立花サツキさんとは仲がいいのかい?」
「うん、サツキちゃんはとてもしっかり者で、私の大切な友達なんだ」
アヤカのその返答に、澤谷はうっすらと微笑んだ。
帰宅したアヤカは心配そうに出迎えた使用人に連れられ、早々に屋敷の中に連れられて行った。
「リュウ……」
去り際にアヤカが寂しそうに自分の名前を呼んだ。
「また明日来るよ、今日は早く休んで。風邪をひいたら大変だ」
その言葉にアヤカは微笑み、屋敷に戻っていった。
リュウが帰宅すると、ダイスケが出迎えた。
「ナオキのやつ、しばらく家を空けるってさ」
書き置きを手にしながら呆れた表情を浮かべる彼の後ろから強烈なチーズの香りが漂ってきた。
「ピザでもとった?」
「ああ、ナオキがいない時くらいしか食えないからな」
以前ダイスケがピザが食べたいと言った時、ナオキに大量の科学論文をベースに、ピザが起こす体への悪影響について長々と解説された事を思い出し、リュウはなるほどと少しだけ微笑んだ。
食事をしながらリュウは今日の車中での出来事を思い返した。
アヤカの話を聞きながら、澤谷の瞳が一瞬開いた事。
人間は興味深い事柄に触れると瞳孔が開く。
”大切な友達”
澤谷は確かに、その言葉に強い反応を示していた。
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