精霊の悲しみが降らせた雨の中で

 精霊たちはいつも、アヤカの周りを囲んでいる。


 リュウと初めて会った時、彼と握手した時。彼らは祝福するように光を照らし、心地よい風を吹かせた。


 精霊や妖精は、人の心に敏感に反応し、それに共鳴する。握手をした時彼らが心地よい風を吹かせたのは、リュウの心が彼らに安らぎと喜びを与えたからだ。


 傍にいる存在が美しい心を持っていれば、精霊や妖精は温かく、優しい心を持ち世界を照らす。

 それはアヤカを守る守護精霊が、心の中で教えてくれた事だった。




 舞台の練習後、ショウの取り巻きの女の子たちに声をかけられたアヤカは、彼女たちと屋上に向かっていた。いつもショウの周りで笑顔を向けている彼女たちの表情は、硬く少しこわばっているように見える。


(精霊さん、この子たちはどうしてこんなに悲しい顔をしているの?)


 アヤカは自分を見守る守護精霊に心の中で問いかけたが、彼は何も答えてくれなかった。淡い光のような姿をした精霊たちは彼女の周りを心配そうに浮遊し、その髪や肩に寄り沿った。


(きっと、話せば仲良くなれるよね…)


 精霊たちを安心させるように軽く笑顔を向け、アヤカは屋上へと足を踏み入れた。







 プライベートスクールの屋上はガーデンになっており、緑豊かな庭園や花壇が設けられている。昼下がりは数人の生徒がここでおのおのの時間を過ごしている事が多いが、この夕暮れ時は誰もいないようだった。


 赤く染まり始めた空。ユミとフウカをはじめ、合わせて5人の女の子がアヤカに詰め寄っていた。



「澤谷さん…ショウ君があなたの事好きって、本当?」



 アヤカは黙ったまま、目の前の女の子たちをみつめていた。

 彼女らがショウの事を好きな事は知っていた。一生懸命ショウにアプローチする姿を毎日見ていたし、恋をする姿を見てアヤカ自身恋への憧れが強まっていく感覚もあった。


 目の前で自分に悲しみをぶつけてくる彼女たちは、アヤカにとってキラキラと輝く存在だった。


 悲しい気持ちが伝わってきて、アヤカの心は針に刺されたように痛んだ。

 小さく頷くと、ユミの手が頭上高く上がり、アヤカに振りかぶられる。


 


 殴られる


 そう、感じた時、アヤカの瞳に入り口からこちらの様子を伺うリュウが身を乗り出す姿が映った。



 自分を救う為に彼女たちを止めるつもりだ。

 そう、思った時。



 ユミの瞳がアヤカの目に止まった。


(絵具を混ぜたようなビビットカラー…元気で、正直で、自分の気持ちに素直な子)


 そのユミの瞳が怒りを帯びている。彼女の心を支配しているのは、やるせない喪失感、悲しみ、そして孤独。




 だめだ




 リュウに視線を送った。


 出て来ちゃだめだ。私がなんとかしなくちゃいけないんだ。





 パン



 乾いた音を鳴らし、アヤカの左ほおが赤く染まる。痛みを感じたが、リュウが出てこないでいてくれた事に、アヤカはほっとしていた。

 

 

(リュウ、ありがとう)



 心の中でそう、つぶやいた直後。



「私、ずっとあなたの事が気に入らなかったの」



 ユミはそう言うと、アヤカの金髪を掴み、睨みつけた。



 彼女のやり場のない怒りがアヤカの心に響く。


 …アヤカは、自身に怒りの感情を向けられたのは、初めてだった。友達がいなかった彼女は、毎日精霊と共に過ごし、彼らの喜びを共有し、語り合いながら生きてきた。


 今向けられているのは、人間の子供の、心の叫び。

 そして、それは自分にはどうしようもないもの。


(どうしたら、この子の気持ちを少しでも収めてあげることができるんだろう)



「私たちが、ずっとショウ君の事好きなの、知ってたでしょ!」



 知っていた。でも、ショウの気持ちも無下には出来ないと思った。

 そう思った時、アヤカは自身が憧れていた恋心の複雑さをひしひしと感じるようだった。



(恋って、こんなにも人の気持ちを揺さぶるものなんだ)



 彼女達がショウに向けている時のキラキラとした笑顔と、今自分に向けられている怒りの表情。それは同じ「恋」から生まれたものだ。

 

 一瞬、自分が憧れていた「恋」に、アヤカは恐怖を感じた。

 心を揺さぶり、時にはその人を変えてしまう、恋という感情。普段の彼女たちの笑顔は、アヤカが大好きな精霊たちと同じように、愛しい存在に映っていた。





「一緒にいる羽瀬田くんも変な人だし」



 突然出されたリュウの名前に、アヤカは一瞬思考が止まった。



「リュウが、変?」


 どうしてリュウの事が?自分とショウ、そして彼女達の事に、リュウは全く関係ない。

 アヤカの様子に女子たちは面白そうに言葉を続けた。


「体育はいつも見学してるし、あまり友達もいないみたいだし」


 その言葉を聞いた直後、アヤカの心の中には共に学校生活を送ってきたリュウの姿が浮かんできた。





 演劇の主役をがんばりたい。そんな自分のわがままの為に、契約外の仕事を父に申し出てくれた。


 いつも、密かに気にかけ、何か危険があれば身を挺して守ってくれていた。


 触れようとすると、少し気まずそうに視線を逸らす仕草が、少しだけ好きだった。




 アヤカの心臓が激しく鼓動し始めた。

 頭の中で何かが弾け、彼女の中でふつふつと湧き上がる何かが混とんと化し、徐々に心を蝕んでいく。


「……やめて」


 アヤカのつぶやきに、女子たちは表情を変えた。




 アヤカは叫びたかった。



 リュウは、本当はクラスの誰よりも運動神経が良いいんだ


 勉強だって、自分たちよりずっとたくさんの事を学んでいる。私たちが想像つかないくらい、彼は努力しているんだ



 心は誰よりも澄んでいて、綺麗で、そんなリュウの心の色は誰よりも


 

「……!!」



 叫びたい気持ちをぐっとこらえ、口を閉じた。

 そして、彼の心の色を思い浮かべた時、アヤカの心は何かに染まっていくようだった。


(なんだろう、これ)


 いつもとは違う、ざわつき。肌から感じる風の冷たさ、静けさ。


 それらが心に響いてくるようだった。




 鈴の音のような音が微かに聞こえる。


 それはアヤカの代わりに何かを彼女たちに伝えようとしているように感じた。






 アヤカは心の中で何かが動くのを感じた。


 同級生に嫌われてしまう悲しみ…


 もう友達ではいられないかもしれないという恐怖…



 止められなかった。まるで自分の半身が、自分のものでないように

 精霊たちが呼応し、反応する。


 それはアヤカの悲しみと怒りを共有するように、精霊たちが放つ、静かな怒りの形として、あたりを包んでいった。




「リュウは、関係ない!」



 強く叫んだ直後


 あたりに静電気のようなものが舞い、冷たい風がアヤカを包んでいく。


 あたりが一瞬暗くなり、アヤカのライトブルーの瞳の煌めきが、いつもより強い光を放った。




「リュウは私の大切な友達なの。大切な人の事を悪く言われたく、ない!」





 自分の事を言われることも、彼女たちが悲しみを訴えてくることも、我慢できた。でも、リュウの事を言われる事だけは、どうしても許せない。そう思った。





その時


辺りが薄暗くなった。




シャン




鈴の音のような音があたりに響き次第にその音は大きくなっていった。















 強く言われ、ユミもフウカも女子たちも口を閉じて俯いた。

 絶えず涙を流す目の前の彼女たちを見て、それでもアヤカは言葉を続けた。


「気持ち、すごくわかるよ。私…恋をしたことないけど、ショウ君を見てる時のユミちゃんとフウカちゃんも、とっても輝いてた」


 アヤカはひとりひとりの目をしっかりと見ながら、強く訴えた。

 自分の事を言われることも、彼女たちが悲しみを訴えてくることも、我慢できた。でも、リュウの事を言われる事だけは、どうしても許せない。そう思った。


「ショウ君に告白はされたよ。でも、私…まだ、わからないの。だから、返事はしてない。でも…」



 アヤカは心の中で何かが動くのを感じた。


 同級生に嫌われてしまう悲しみ…


 もう友達ではいられないかもしれないという恐怖…


 そして…




 リュウの事を悪く言われた事に対する、怒り。

 悲しみに満ちたアヤカの心が切なく響く。


 どれも、アヤカにとって、初めての感情だった。


「アヤカ…」


 天真爛漫で、いつも笑顔でいる彼女が強い意志で訴える姿に、リュウは息を呑んでその光景を見守っていた。



 しかし、その時。


 ふと、あたりが暗くなっていくのを感じた。


「……なんだ?」



 あたりに歌のようにも、川のせせらぎのようにも聞こえる、微かな音が響く。

 快晴だった空からぽつぽつと雨が降り始め、アヤカの周りを水滴が囲み始めた。


 シャン…


 何かがが舞い降りてきたような微かな音色が響き渡り、大気がざわめく。

 雲が暗く重なり、静寂が漂う中、一滴の雫がアヤカの涙と共に宙に浮かび上がり…不思議な光がそれを包み込むと、そのまま微かな輝きを放った。


「これは…」


 空を見上げながら、リュウは呟く。

 アヤカがいつも鼓動のような音と共に吹かせていた風と似ている…しかし今響いているのは鼓動ではなく、微かな鈴の音のような、音。


「精霊、なのか?」


 次第に雫は増え、雨となって地上に降り注ぐ。それはただの雨ではない。水滴が大地に触れるたびに、輝く光が舞い上がり、幻想的な光景が生まれていった。



 シャン…シャン…



「なに…これ」


 光る水滴と奏でられる音色に囲まれ、女子たちから驚きと戸惑いの声をが上がる。


「…あ…」


 自分の周りを囲む水滴に気がづき、アヤカの顔が青ざめていく。


「だめ!止まって」


 空に向かって叫んだ。

 しかし、舞い上がる水滴と雨は止まる様子はなかった。アヤカの悲しみが強まったのを感じて、風が強まり、共に水滴が空中で乱舞し、光の粒が煌めく。


 アヤカの顔が悲しみに歪み、涙がぼろぼろと零れていった。



「助けて、リュウ!」



 その言葉と共にリュウは我に返った。

 

 勢いよく屋上の扉を開けるとアヤカのもとへ走って行った。

 驚くユミとフウカの横を通り過ぎ、彼女に駆け寄ると、その顔を手にとりしっかり自分と目を合わせた。



「アヤカ、しっかりしろ」



 焦点の合わない瞳で自分を見るアヤカに向かって必死に叫んだ。


「リュウ…どうしよう…水の精霊が、怒ってる」


「水の、精霊?」


 いつもの彼女からは想像もできないような、悲しみに歪んだ表情をしていた。目は潤み、唇を震わせたアヤカを見てリュウはあたりを見回した。



 シャン…シャン…



 精霊の足音が、次第に大きくなっていく。水が光のように光を放ちながら音を奏で、あたりをゆらめき、舞い上がっている。

 辺りの風がどんどん強くなっていく。


 その水は何かを訴えているようで、リュウ達の体を激しく打ち付けていった。


「早く、ここから出るんだ!」


「ひ、ひぃっ…」


 雨からアヤカを庇うように覆いかぶさりながら女子たちにそう叫ぶと、体を大きく跳ねあがらせた後屋上から出て行った。


 水滴が止む様子はない。

 背中に当たる雨が激しくなっていき、体中を強く叩かれているような感覚がリュウを襲う。


「アヤカ、これは…」


 青ざめ、瞳を大きく開いたまま呆然と震える彼女の肩を持ち、叫んだ。


「アヤカ!」


 リュウの声にはっとしたように顔を上げて、彼女は少し正気を取り戻した。


「私が、悲しいって、リュウの事を悪く言われて許せないって思ったから…」


 微かに震えながら焦点の合わない目で彼女は話す。怒りの感情をぶつけられ、小さくなった子供のように、弱弱しい口調でアヤカは言葉を続けた。


「私の感情に、水の精霊が反応して、怒ってる…」


「この雨が、そうなのか?」


 リュウの言葉に焦点の合わない目のまま頷いたアヤカは、一層震えだし俯いた。


「アヤカ、この雨はどうしたら止められるんだ?」


 リュウの問いにアヤカはただ頭を横に振った。


「わからない…こんなことが起きたの、初めてだから」




 リュウは必死に自身を落ち着かせるように軽く深呼吸をした。


 アヤカの周りで起こる不思議な光景は、何度か見て来た。思い返せば彼女が安らぎを感じたり、喜んだりした時、風が吹いたり光が現れたりしていた。しかし、それは全て喜びの感情からだった。


(今、アヤカの心にあるのは悲しみの感情だ…)


 ユメが泣いていた時の事を思い出しながら、どうしたら彼女が落ち着くかを考えた。もう一度息を吐き、混乱しそうな自分の思考を一瞬クリアにした後、落ち着いた声でアヤカに話しかける。



「アヤカ、僕と初めて会った日の事、覚えてる?」



 アヤカの反応はないが、そのまま続ける。


「あの時、心地いい風が吹いてた。あれも精霊なんだろ?」


 彼女が小さく頷くのを確認すると、彼女の顔に手を当て、優しく自分の方へ向け、もう一度目を合わせて言う。


「落ち着いて、僕が付いてるから…一緒にやろう」


 アヤカに優しく語り掛けると、彼女の瞳に少しだけ光が戻ったような気がした。


「あの時の風は、どうやって起こした?」


 優しく語り掛けられ、自身が精霊と語らっていた時の事を思い出した。


 精霊たちは、アヤカが幸せを感じると祝福するようにあたりを照らし、安らぎを感じると鼓動のような音を鳴らしながら心地の良い風をなびかせ、愛しいと感じると草花が喜ぶように花を開かせた。




 皆、アヤカの心に反応し、喜びを共有するように祝福してくれていた…


 それは無邪気で、幼い子供のような存在…


 アヤカは彼らを愛しく思い、大切な自分の一部と感じていた




「…怖がっちゃ、だめなんだ」


 しっかりと目を開いたアヤカはリュウの方を見た。


 優しいまなざしのまま、微笑を浮かべた彼の顔が映る。

 リュウの姿は、アヤカの中で強く、頼もしく、そしてどこまでも優しく映っていた。




「リュウ…手を握っててくれる?」


「うん」


 少し寂し気に懇願され優しく頷くと、リュウはアヤカの手を両手で包み、目を閉じて集中する彼女を見守った。



「怖がったりして、ごめんね。みんな…私の大切な一部なのに」



 リュウに握られている手から暖かさを感じ、アヤカの心にある感情が生まれてきた。

 それは彼女がいつも髪をなびかせていた、強く、優しい鼓動と共に流れる風を感じていた時の感情。



 広い広い空を見上げながら


 優しい風に包まれていた時感じていた気持ち



 リュウはあたりを見回した。


 雨が弱くなり、あたりが明るくなっていく。

 音を奏で、舞い踊っていた水滴は水たまりとなり、太陽の光を浴びて煌めきだした。



「雨が、止んだ…」



 光が差し、幻想的な光景に一瞬目を奪われたが、すぐアヤカの方へ視線を戻した。

 彼女の表情は、とても穏やかだった。





 微かに、風が吹いている


 水に光が反射して、優しい光があたりを照らしていく。



 光と風は、2人を優しく包んでいるようだった。

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