8話 狙撃手ダイスケ
シンプルな白の壁と淡いグリーンのベッドカバー、そしてカーテンが調和をなす部屋。植物の緑が生命感を湛えており、朝日が部屋を満たし始める。その光が部屋のすみずみまで行き渡り、植物の葉の間から溢れる、生命をあらわすような光景。
その日、アヤカは普段より早く目を覚ました。父との約束があるためだ。まだ眠気に悩まされながらも、ベッドから体を起こし、カーテンを開け、外の世界から降り注ぐ太陽の光を浴びた。
…昨夜はあまり良く眠れなかった。
ショウから告白された時、アヤカは一瞬断ろうと思った。理由は、クラスで一番仲の良い友達…立花サツキが彼に思いを寄せていたからだ。
サツキはアヤカを信頼し、誰にも打ち明けなかった自分の想いを教えてくれた。それを聞いた時、アヤカは心から2人が結ばれることを願った。
しかし、ショウの自分に向ける想いもまた、純粋だった。いつも女の子に囲まれている王子様のような彼の真剣な顔を見て、サツキの為に彼の想いを断ろうとしていた事に罪悪感を感じたのだった。
「サツキちゃん、どう思うかな…」
そう呟いた時、周囲の空気がひんやりと冷たいことに気付いた。顔を上げて見ると、窓がゆっくりと凍りついていく光景が目に飛び込んできた。周囲を見渡すと、淡いブルーの光を放つ光…水の精霊が微かな不安と恐怖に震えていた。
「いけない」とアヤカは思った。水の精霊を抱きしめ、自身も深呼吸して気持ちを落ち着ける。
凍りついていた窓が少しずつ元の状態に戻っていくのを見て、アヤカはほっと胸を撫でおろした。
*
朝の7時30分。
風に揺れる庭のコスモスを眺めながら、アヤカの自宅である屋敷に到着したリュウ。
一階の応接室で待機するように言われていたが、いつもの登校時間になってもアヤカも澤谷も現れない。不安に思ったリュウの目に、アヤカが使用人たちと一緒に出てきた扉が目にとまった。
あの時のアヤカは様子がおかしかった。
あの扉の中で、何が…
そんな事を思っていると、突然その扉が開いた。以前と同じ、3人の使用人に囲まれて出てきたアヤカ。今日は澤谷も一緒だった。
「リュウ君、待たせてすまなかったね。今日もよろしく頼む」
澤谷がいつものように穏やかに話す。しかし、その隣でアヤカの顔色は前回よりも一層、青白かった。澤谷はリュウの目が心配そうにアヤカを見つめている事に気づき、アヤカに向かって優しく語り掛けた。
「アヤカ、大丈夫かい?」
アヤカの体が一瞬、ビクリと揺れた。
「うん。…行ってきます」
そう言ってアヤカは、いつもの笑顔を浮かべ、リュウの方へ歩いていく。
「行こう、リュウ」
リュウは心配そうに眉をひそめながらも、澤谷に軽く頭を下げ、アヤカを送迎の車までエスコートした。
送迎の車中。アヤカは前回と同じように静かに寝息を立てていた。
下手に詮索するようなことはできない。しかし、あの扉の奥で何が?体調の悪そうな彼女を見ると、あの部屋への疑問がふつふつと湧いてくるようだった。
「アヤカ、着いたよ」
リュウに声を掛けられ目を覚ましたアヤカは少し元気になったようで、いつものような笑顔を浮かべた。
「私、また寝ちゃってた?」
「うん。歩ける?」
頷いたアヤカに肩を貸し、車から降りると校舎へと歩いた。
しかし、しばらく歩いたところで目の前に立つ少年の姿を見てリュウの足が止まった。
「よお、リュウ」
手をひらひらと降りながら笑顔を向ける親友の姿がそこにあった。ダイスケはリュウと同じ、このプライベートスクールの制服を着ている。
「依頼、受けたんだ」
リュウの問いにダイスケは黙って頷いた。
学校では、教育上の理由や安全性を考慮して、武器や危険物の持ち込みは法律で厳しく制限されている。とりわけセキュリティが厳重なこのプライベートスクールでの狙撃依頼は異例だった。
ダイスケに来た依頼は、最近学校内を飛び回る不審な鳥を狙撃する事。最初はこの依頼を不振に思ったが、依頼主が学校関係者と言う事で引き受けたようだ。
「学校だから、アーチェリーの弓なのか」
プライベートスクールには生徒たちの才能を開花させる施設の一環として、アーチェリーレンジも設置されていた。頷いたダイスケの肩にはアーチェリーの弓が入ったケースが下げられている。
「依頼主の名前は?」
「ミツルっていう若い男だったな…ナオキの知り合いみたいだけど」
ミツル…リュウも初めて聞く名前だった。
「ま、俺たちはナオキに恩があるからな」
リュウの心配そうな視線に気が付いたのか、ダイスケは軽く手を振ってアヤカに笑顔を向けた。
「君がアヤカちゃんか。俺、リュウの友達のダイスケ。よろしくな」
「澤谷アヤカです。よろしくね、ダイスケ君」
そう言って、彼女はいつものように愛らしい笑顔を浮かべた。
アヤカを初めて目にしたダイスケは、その明るく輝く金髪と青い瞳に一瞬、目を奪われた。その後、彼は自身を戒めてリュウに近づき、小さな声で言った。
「よかったな、リュウ…」
この美少女の護衛となったリュウに対し、ダイスケから向けられた羨望の眼差し。しかしリュウは一瞬硬直した後、少し考え、ゆっくりと口を開いた。
「何が?」
その返事にダイスケは肩を落とし、思わず苦笑いを浮かべる。
「それじゃ、またあとでな」
そう言って、校舎の方へ歩いて行った。
1時間目の授業の前に担任の辻本先生がクラスの皆にダイスケの紹介をした。
「交換留学生の、和久井ダイスケくんです」
ダイスケは皆の前で軽く一礼をした。
「1カ月間、よろしくお願いします」
学生が相手校の文化や教育体系を身近に感じ、異なる学習環境での成長の機会を経験する。これが、姉妹校や提携校との交流を深めるために実施される交換留学プログラムの主な目的である。
この学校の姉妹校からの交換留学生として、約一ヶ月間、学芸会までの期間をここで過ごすという名目でやってきたダイスケに、クラスメイトは興味津々だった。
アヤカは彼が同じクラスになった事を喜び、リュウは彼の仕事を静かに見守っていた。
「和久井くんはどこの学校から、僕たちにどんな学びを与えるため来てくれたのでしょうか」
副委員長のショウが手を上げ、ダイスケに問い掛けた。その場で教師の辻本が説明しようとしたところ、ダイスケが手を振り説明を始めた。
「交換留学は、主に現地の生活・現地の価値観や考え方を学ぶのが目的だ。俺がいた、この学校の姉妹校では言語に力を入れていて、海外留学生に選ばれる生徒との交流を体験してもらうのが目標だって、聞いてるよ」
ショウはダイスケの回答に深い関心を示した
「じゃあ、和久井くんは語学が堪能なんだね」
「そういう事になるかな」
ダイスケがそう答えると、ショウは少し考えた後口を開いた。
「My name is Shou Nakamoto. I've recently been into Kendo, but what about you, Daisuke? What are your hobbies?」
(僕は中本ショウといいます。最近剣道にはまっているけど、ダイスケ君はどんな趣味がある?)
ダイスケはショウの問いに一瞬考え込んだ後、少し強気な目線を向け口を開いた。
「I enjoy listening to popular music. I also like watching sports. And, well, I guess eating is a hobby of mine too...」
(流行の音楽を聴くのが好きだよ。スポーツ観戦もよくするね。あとは食べる事かな…)
突然始まった、英語での会話にクラスにはどよめきが広がる。
「Oh, cool. What kind of sports are you into?」
(へえ、スポーツはどんなのが好きなんだ?)
「I watch a little bit of everything. But lately, I've been really interested in baseball. The exhilaration of a player hitting a home run is just incredible, don't you think?」
(なんでも見るよ。でも最近一番興味があるのは野球かな。選手がホームランを打った時の爽快感がたまらないよね)
「すごい!発音も完璧だよ」
ショウはダイスケの流暢な英語に感嘆の声をあげ、クラス全体が歓声を上げる。
ダイスケは小さく「どうも」と返し、いつもの笑顔を返した。
新たな座席配置が決まり、ダイスケはリュウとアヤカの後ろの席に納まった。
「学校って、なんだかワクワクするな」
笑顔で語るダイスケだったが、リュウは彼の行動に若干の不安を感じていた。リュウやダイスケのような立場の人間は本来目立つ行動は控えるべきだからだ。一方アヤカはダイスケに会えた事を素直に喜んでいた。
「リュウからダイスケ君のこと聞いてるよ。兄弟みたいに育ったって…私、ずっと会いたいと思ってたの」
笑顔を向けられ、ダイスケは照れくさそうに視線を逸らした。
「ダイスケでいいよ、リュウにもそうしてるみたいだし」
「じゃあ、私の事もアヤカって呼んでね」
2人は意気投合したように微笑み合った。
「ダイスケ、英語がとっても上手なんだね」
アヤカの言葉に驚いた様子のダイスケがリュウに視線を向けた。
「ボディガードや狙撃手ってのは、言語スキルが必須なんだよ。あれくらいだったらリュウもできるって」
その言葉に驚いたアヤカの視線が注がれ、続いてダイスケのため息が聞こえた。
「ダイスケ、あんまり僕の事は」
「リュウ、自己主張が下手だから…一緒にいると大変だろ」
指をさしながら言われ、リュウは若干冷ややかな視線を送ったが、ダイスケは笑顔のまま構わず言葉を続けた。
「でも真面目ないいやつだから、こいつの事頼むな」
いつもと変わらない様子で自分の事を話すダイスケにため息が漏れたが、リュウは少しだけ過去の事を思い出した。
「お前、すっごい暗いな。俺が一番嫌いなタイプだ」
初めて会った2年前。ダイスケはリュウの様子を見るなり、そう言って大笑いした。
それが彼なりの気遣いである事に気付いたのは、大分後の事だ。それから2年の間、彼の明るさ、心地の良い気遣いにリュウ自身、何度も救われてきた。
(ダイスケは、どこにいてもダイスケだな)
リュウの反応が気になるのか、たびたびこちらに視線を向けていたアヤカだったが、やがて彼女もいつもの笑顔を浮かべた。
「うん…守ってもらってるのは私の方だけど」
「アヤカ、ダイスケ…先生が来たよ」
楽しげな会話が続く二人を横目で見つつ、リュウはほんの少しだけ先が思いやられるような感覚を覚えた。
国語や語学の授業中、ダイスケはその言語能力を活かしてクラスメイトや先生を沸かせたが、その一方で理数系…特に理科については今一つだった。
「ダイスケ、居眠りは良くないよ…先生が睨んでたよ」
理科の授業中に居眠りをしていたダイスケをリュウが窘める。
「うーん、理科の授業って…どうも苦手でさ」
冷汗をかきながら気まずそうに頬を掻く。その様子を見て、リュウは思わず息を吐いた。
しかし、これがまたダイスケの人間味を引き立て、クラスメイトの好感度を一層高める結果となった。完璧すぎず、ありのままの自分をさらけ出す姿に、クラスメイトはあっという間に惹かれていった。
理科の授業の後サツキの注意を受けていたが、正直に謝りながら笑顔を向けるダイスケに、彼女もまた少しだけ笑みがこぼれていたのが見えた。
教室に戻ると、ショウがアヤカに話しかけてきた。
手には学芸会の舞台の台本がある。
「澤谷さん、ちょっといいかな」
アヤカは一瞬気まずそうにしたが、すぐいつもの笑顔に戻り「ちょっと行ってくるね」とリュウとダイスケに伝えて彼に付いていった。
「このセリフなんだけどさ、ちょっと一緒に見てくれないかな?」
「うん。いいよ」
最近の彼はアヤカに対し周りにわかりやすいくらいアプローチするようになった。何かと声をかけ、彼女の事が好きな事は周りから見ても明らかに感じられた。
「あー、副委員長…アヤカを狙ってるな」
一瞬で見抜いたダイスケを横目で見つつ、リュウは2人の様子を伺う。
ショウは明るく人気のある男の子で、練習中もクラスの女子が練習を終えた彼を囲んでいるのを何度も見た事がある。スポーツも出来、ダイスケに語学で挑む度胸もあり、成績も優秀な少年だ。
…もちろん、彼に好意を寄せる女子も少なくはない。
なんとなくその時、リュウは嫌な予感がした。それは、自身の経験から、直感的に察知したものだった。
アヤカは転校して来てから一躍人気者になり、舞台の主役に抜擢された。初めての経験ではあったが、彼女が不器用ながらも毎日舞台の練習を頑張っている事はリュウが一番良く知っていた。
地道にコツコツと努力を積み上げていく人間に対して、一定数の嫉妬心を持つ者が現れる…良くあることだ。
そして、リュウの不安な気持ちは学芸会の本番一週間前、的中した。
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