7話 純粋な想い

 アヤカの送迎の車の中。


 リュウはいつものように舞台の練習に付き合っていた。特に一番盛り上がる真実のキスのシーンはアヤカが最も念を入れており、リュウは車中でいつもこのセリフを言わされていた。


「私は人魚でもあり、人でもある。それでもあなたは私を愛してくれるのですか?」

「人魚であろうと人間であろうと、君は君自身。そして僕は君が好きなんだ」


 恋愛に疎いリュウにとって、この愛の告白のセリフを日課のように言わされるのは、正直気が滅入ることもあった。しかし、真剣に舞台に取り組むアヤカを見ていると、そんなことは言えなくなってしまった。


「あなたが私を認めてくれること、人魚である私との未来があなたにとっての幸せなら、私は喜んでその未来を追い求めます。人間としてあなたと過ごすことがあなたの幸せなら、それもまた私が望むことです。何があっても、私の心は常にあなたと一緒です」


 セリフが終わり、アヤカは少し考え込んだ。


「リュウ、もう一回おねがい!」


 彼女の言葉に、リュウは少しだけため息をついた。それでも、彼は微笑んで頷いた。


「………うん」




 セキュリティゲートを潜り抜けると、朝の静寂を裂くような、活力に満ちた声が空に響いていた。一瞥すれば、野球部の生徒たちが朝の清々しさの中で練習に励んでいる様子が目に飛び込んでくる。


「部活、楽しそうだね」


 バットを振る少年たちを眩しそうに見つめるアヤカ。リュウも同じように視線を向ける。


(本当は、クラブ活動にも参加したいだろうな)


 アヤカは運動神経も良く、体育ではクラスメイトを引っ張りチームを支える事も多かった。しかし、澤谷に門限を厳しく決められていた為、クラブ活動とはほぼ無縁だった。そんな彼女にとって、舞台の主役は情熱を注ぐ唯一のものなのだろう。毎日練習を頑張るアヤカを、リュウは応援していた。



 突如、一人の少年が彼女の視線に意識を逸らしてしまった。彼の打ったボールは軌道を大きくはずれ、アヤカの方へと向かってきた。


「危ない!」


 少年が叫ぶ。アヤカが目を閉じた瞬間リュウが彼女の前に立ちはだかり、鋭く叩きつける音と共にボールを素手で掴んで受け止めた。


「ごめん!大丈夫?」


 少年が、顧問の教師と共に慌てて駆け寄ってきた。


「はい、大丈夫です」


 リュウがボールを少年に返すと、顧問の教師は驚きと共に賞賛の言葉を述べた。


「すごいな、君。野球部入らないか?」

「いや、僕は…クラブはちょっと」


 教師の突然の申し出を丁寧に断るリュウと、熱を帯びた説得を続ける教師。


(参ったな)


 どう逃れようか考えていると、アヤカがリュウの手を取った。


「アヤカ…?」

「リュウ、ここ怪我してる。保健室行こう?」


 アヤカが指さすところを見ると、自分の手のひらに少し擦りむいた傷があった。

 ボールを受け止めた時に切ったのだろう。アヤカは教師に軽く頭を下げると、リュウの手を引いて保健室へと向かっていった。




 保健室に到着すると、アヤカが絆創膏を貼ってくれた。


「ありがとう、助かったよ」


 微笑むリュウに対し、アヤカもいつものふわりとした笑顔を浮かべた。しかし、その笑顔は少しだけ寂しそうだった。


「うん。でも…野球をするリュウは、ちょっと見たかったな」

「アヤカ…」

「わかってる。リュウは私のボディガードなんだもの」


 微笑んだまま、そう言うアヤカ。

 その時、ひやりと冷たいものがリュウの頬をそっと撫でた。その感覚に思わず指で触れるが、何もない。


(窓、空いてないよな)


 室内で起きた不思議な現象に一瞬気を取られた後、アヤカがリュウの肩に触れ、我に返った。

 澄んだライトブルーの瞳が目の前に映る。


「?えっと…」


 アヤカに初めて会った日、彼女は「綺麗!」そう言ってリュウの瞳をじっと見ていた。その時と同じようにリュウの瞳を見つめている。


「綺麗だな」


 そう言って、瞳を輝かせるアヤカ。対するリュウは、ただただその視線に耐えていた。


「……」


 じっとしていたが、だんだんと気まずくなり、視線を逸らす。

 心臓の音が先程よりも早く打ち、若干の冷汗が滲む。すると今度はアヤカがリュウの髪に触れてきた。


(だめだ、限界だ!)


 耐えられなくなり、思わずリュウはアヤカの肩を掴み、自身との距離を取った。


「アヤカ……どう、したの?」


 軽く息切れをしながら彼女の行動の意味を考えたが、さっぱり理解が出来なかった。

 アヤカは天真爛漫で純粋な少女だ。しかし転校初日もそうだったが、たまに不思議な行動を取る事があり、驚かされる。


「えっと…ごめんなさい」

「いいんだよ、でもちょっと驚いたかな」


 申し訳なさそうに頭を下げるアヤカに微笑むと、彼女はほっとしたように表情を緩ませた。


「この子は、ずっとリュウの肩にいるんだね」

「この子?」


 アヤカが指さすリュウの左肩。目を向けるがなにもない。何が?と聞こうとしたところでホームルームの開始を伝えるチャイムが鳴った。




 保健室を後にし、2人で並んで廊下を歩く。

 

「私ね、リュウと仲良くなりたいなって、ずっと思ってるの」


 アヤカの方へ視線を向けると少しだけ寂しそうだった。


「朝起きて、迎えに来てくれて、学校で一緒に過ごして…いつも一緒にいてくれて、頼もしいけど…」


 アヤカはリュウの前に立って、背比べをするように自身の額の前に手を添える。その視線はリュウの頭の先を見ているようだった。


「身長も同じくらいなのにね」


 そこまで言われて、リュウはようやく彼女が何を言いたいか理解した。自分が一切学校生活を楽しもうとしない事を気にかけているようだ。


(こういう時、どう言ったらいいんだろう)


 アヤカの護衛は、リュウが今までこなしてきた任務とは少し違っていた。

 見張りや、パーティ会場への依頼人の同行。子供ならではの仕事を振られることが多かったが、アヤカのように強く自分を気に掛ける依頼人は初めてだったからだ。


 

 2人の間にしばらく沈黙が流れた。


 

「そうだ、今日の給食…リュウが好きなハンバーグだよ」


 言葉に詰まるリュウに気付いたのか、アヤカが話題を変えてきた。


(気を遣わせちゃったな)


 自分はアヤカのボディガード。彼女もそれは理解しているようで、リュウのとる行動に深く追求してくることはなかった。

 そしてアヤカは、毎日決まって給食の話題を出した。みんなで食べる給食は、彼女にとって学校での楽しい時間のひとつであり、リュウとアヤカが共に学校生活を満喫する貴重な瞬間の一つでもあった。


「あとはブロッコリーのサラダと…」


 そこまで聞いて、リュウは一瞬思考が止まった。

 ブロッコリー…そう、それはリュウが唯一苦手とする食材だったのだ。


「リュウ、ブロッコリー食べられないの?」

「………」

「そんなことないよ」


 返事が遅れたリュウ。沈黙したまま顔を逸らすと、アヤカは微笑みかけ、顔を覗き込んできた。


「私が食べてあげようか?」

「い、いや、いいよ!自分で食べるから」


 若干慌てた様子のリュウの声が響く中、アヤカが廊下を歩き出す。


「そうだ、あのね、私実はお魚が嫌いなんだ。お父さんには内緒にしてね」


 そう言って先を歩くアヤカの足取りは軽く、先程より元気になった様子を見ながら、ほっと胸を撫でおろした。


(でも、なんで元気になったんだろう)


 リュウは彼女の後を追いながら、彼女の元気の理由がさっぱりわからず、首を傾げた。








 放課後

 同級生たちのセリフを読む声…演劇の為の音楽…それぞれが響く体育館。


 王子役の中本ショウは、女子たちから熱視線を浴びていた。

 彼が演技をし終わるとクラスメイトや見学に来ていた女子からは賞賛の声が上がる。その中でも特に黄色い声援を送る女の子・ユミとフウカは、他の女子生徒を押しのけ真っ先に彼のもとへ駆け寄っていた。


「あの二人は、中本君が本当に好きなんだね」


 学級委員の立花サツキと共に裏方を務めるリュウ。指示された仕事をこなしながら話しかけると、サツキがため息をついた。


「ユミとフウカ。ショウが好きなのはいいんだけど…ちょっと周りが見えてないのよね。アヤカちゃんが心配だわ」


 ユミとフウカは転校初日もアヤカに毒気のある言葉を吐き、周りの空気を一瞬凍り付かせた。あの時2人がアヤカの言葉に耳を貸していなかったら、リュウが出て黙らせていただろう。


「でも、それをアヤカちゃんに言ったら何て言ったと思う?」

「何て言ってたの?」

「恋する2人はキラキラしててかわいいなぁ…だって。びっくりしちゃった」


 少々強引に見えるユミとフウカだが、アヤカは2人の恋心に共感するように、喜び微笑んだそうだ。


「アヤカらしいな」


 転校初日の事を思い返しながら、ぽつりと呟く。

 あの日からアヤカとサツキは意気投合し、すっかり仲良しになっていた。何かと気にかけてくれるサツキにアヤカは素直に感謝し、サツキはアヤカの純真で素直な性格に率直に好感を持っているようだった。


 サツキは教師に代わりクラスを仕切り、裏方というより監督に近い仕事を次々とこなしていく優秀な生徒だ。アヤカの交友関係もしっかり見守るようにと澤谷に伝えられていたリュウは、クラスで彼女に最も信頼を置いていた。


「ね、羽瀬田くん…アヤカちゃんって、すごく可愛いのに…男の子からの恋心にはすごく鈍感なのよね」

「うん…それがどうしたの?」


 サツキは意味深げな質問を投げかけ、少し考え込んだようにリュウとアヤカを交互に見た。そして、「私の勘違いか」と呟いた後舞台の方へ歩いていく。


(何だったんだ)


 




「人魚であろうと人間であろうと、君は君自身だ。そして僕は君が好きだ」


 ショウがアヤカにそう言ったところでカットが入る。


「残念だな、この後人魚姫にキスをするんだろう?」


 ショウがサツキに向けて不満げな声を上げると、サツキは彼を静めた。


「練習の度にアヤカちゃんにキスするつもり!?」


 クラスメイトの間では気遣い上手で物腰柔らかなイメージのショウだが、サツキの前でだけは、たびたび子供らしい笑顔を見せる。2人は幼馴染であり、言い合う様子は喧嘩しているようで、とても仲睦まじくも見えた。


 学芸会の練習が始まってから一カ月ほど。

 本番が近づくたび、クラスの想いは徐々にひとつになっていく。それは裏方に回るリュウも一緒で、役に回るクラスメイト達へのサポートをするうちに次第と会話も深まる。

 アヤカは頻繁に王子役のショウと打ち合わせをし、ここはこうしたほうがいい、ああしたほうがいい等互いに言い合うような仲になっていた。


 王子役のショウの懐の深さと、頼もしさにアヤカは心から信頼を寄せ

 初めての経験ながらも一生懸命取り組むアヤカにショウもまた、信頼を寄せるようになっていった。

 人魚姫の舞台で主役を務めるショウとアヤカは、練習を重ねながら、徐々にその絆を深めていった。


 練習が終わり、その日もみんなで片づけに入った。そんな中アヤカがリュウと共に帰り支度をしていると、ショウがアヤカを呼び止めた。


「澤谷さん、ちょっと話があるんだけど…」


 いつもの穏やかな表情に若干の緊張を忍ばせた様子のショウ。アヤカと2人で話したいと言うので見送ったが、リュウは気付かれないように後を追った。




 


「好きなんだ、澤谷さん」


 舞台の練習をしていた体育館の壁側の出口を出てしばらく歩いたところで、ショウの唐突な告白が聞こえた。アヤカを見ると、きょとんとした表情のまま凍り付いている。


「え!?」


 大分遅れて、思い出したかのようにアヤカの顔は真っ赤になった。


 2人の会話はよく聞き取れなかったが、ボディガードとしてアヤカを見守らなければいけない立場のリュウは、今の状況に冷汗を流した。


「さすがに…これはまずかったかな」


 若干の罪悪感が彼の心を襲った。

 アヤカに申し訳ない気持ちと、生まれて初めて人の告白を目の当たりにした事。いろんな意味で緊張と困惑が彼を支配していたが、職務上仕方ないと自身を言い聞かせながら軽く息を吐く。


「俺、澤谷さんに振り向いてもらえるようにがんばるよ」


 やがてショウはそう言い、こちらに向かってきた。

 身を隠して彼の後姿を見送ると、アヤカのもとへ歩いていく。彼女はしゃがみこみ、地面とにらめっこするように項垂れていて、いつもよりだいぶ元気がないように見えた。


「…リュウ、聞いてた…?」

「………」


 完全に想定外の事態に、リュウの脳内はどう対応するのが適切かという模索で埋め尽くされ、その返答を口に出すまで随分と時間がかかってしまった。


「聞いてないよ」

「聞いてたんだ」


 真面目なリュウの精いっぱいの嘘はアヤカに完全に見破られ、彼は冷汗を流し視線を逸らした。


「…どうしよう」


 困惑するアヤカと、どう声をかけて良いかわからないリュウ。ただただ微妙な空気が流れ、2人はしばらくその場から動く事が出来なかった。

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