3


 赤い鳥居が見える。


 最初に目に飛び込んできたのは、笠寺の背中だった。

 笠寺は暗い境内の真ん中に立ち、傘もささずに神社の奥を見つめていた。


「星崎、」


 拝殿の奥に向かって呼びかける。

 奥からの返事はない。笠寺は続けた。


「なぁ、約束覚えてるか。俺を迎えに来るって言ったろう。俺は待ってたんだぜ」


 暗がりで、人影が揺れる。

 その人影は洸太からは遠く、黒い靄のようにしか見えない。


「……笠寺、」


 靄が返事をする。静の、よく通る美しい声だ。激しい雨音の中で、静の声は矢のようにまっすぐ、異質な輝きを放ちながら洸太の耳に届いた。


「覚えてるよ。あの日、お前を迎えに行ってやれなくて悪かった。そっちも雨だったんだってな。冷たかったろう。」


 黒い靄は拝殿の奥から姿を見せた。

 現れたのは頭から水を被ったような濡れ方の静だった。シャツは水で透けながらその美しい肢体にからみつき、天人の羽衣のようにその姿を覆っている。

 それは洸太の知っている静の姿ではなかった。不吉で神々しい、死人のなれのはて。


「ようやく会えたな、」


 笠寺は一歩、前に出た。ピシャ、と水を蹴る音がした。

 足元を見る。

 気づけば茶色の水が地面を満たしていた。すでに洸太のくるぶしに届くほどに深くなっている。


 水は静かに境内を満たしていく。

 木々の根も紫陽花の花も、次々に茶色の水に沈む。

 水面を雨がうち、無数の輪を描く。


 その中を、笠寺は歩いていった。


 洸太は笠寺を追って駆け出した。水のせいで足がやけに重たい。思ったように進めないいらだちのなか、腕をのばす。

 笠寺の肩を、強い力で掴む。笠寺は振り返り、恨めしそうにこちらを睨みつけた。


「……離せよ」

「いやだ。……行くなよ、笠寺、お前まだ生きてるんだぞ、」

「それが何だよ、」

「お前まで俺をおいていかなくてもいいだろ」


 だが笠寺はそのまま手を振りほどき、静の方へ突き進んでいった。洸太は膝まで浸かってままならない足を思い切り動かし、笠寺を背中から抱きとめた。


「洸太。離してあげなよ。お前も死にたいのか?」


 静は冷徹な声でそう言った。

 

 地響きのような音がまた聞こえる。今度は随分と近い。


「……時間がない。はやく代わりを差し出さなきゃいけない。笠寺もそうしたいって言ってるよ。そいつを寄越せよ、洸太。それで全てが丸く収まる。お前は生き延び、俺はここを離れ、笠寺は死ぬ」

「嫌だ」

 地面が再び震えだす。社の奥から、小石の転がる音が聞こえる。

 すでに腰まで上がった水に、小石がぽつぽつと沈んでいく。


「嫌だ。先輩だって嫌だろ。こいつは先輩と約束してたんだよ。命日に花を持ってきたんだよ。そんなやつを殺すなよ、」

「今更仕方ないよ。俺はこの山から出るって決めたんだ。そのためなら、なんだってするさ」

「それなら俺を身代わりにしてくれよ、」

 食い下がろうとする洸太に、静は微笑んだまましばらく何も返さなかった。


「先輩、それでいいだろ、俺はいいよ、」

「だめだ、」

「どうして。俺だってもう――」


 突如、激しく突き上げられるような揺れを全身に感じた。

 洸太は身体の均衡を崩し、笠寺もろとも冷たい水の中に沈んだ。


 視界は奪われ、どこかから津波のような土石流が押し寄せる。

 濁った水と土と枝と石が、洸太の身体にぶつかる。

 抱きとめた笠寺が離れていく。すんでのところで、手のひらだけを捕まえた。


 体が土と水に押し流される。

 バキバキと何かが折れる音がする。


 何度も何度も殴られるような衝撃の中、

 洸太は必死に笠寺の手を握りしめていた。


「こりゃまぁ」


 どこかで東片の声がした。


「たいへん、たいへん」



 そこで意識はぷっつりと途絶えた。

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