2


 日は登り、雨の匂いは濃くなっていく。

 暗い家に、灰色の明かりが窓から差し込んでいた。


 静は二階の布団をすべて一階の居間に下ろし、そこに洸太を横たえた。


「これでお互い、いつ倒れても転がれるだろ。なぁ洸太、なんか作ってやるよ。お粥でいい?」

「……大丈夫なんすか。料理中に眠くなったら、」

「その時はその時だよ。ほら、寝て待っててよ」


 横になる洸太の鼻に、粥を炊く温かな匂いが届く。正直、頭も身体もそこかしこが痛かったので、食事の世話をしてくれるのはありがたかった。


 静が看病してくれるのはこれが初めてだ。

 体の丈夫さだけが取り柄の洸太には、静の世話をすることはあれどされた記憶はない。

 一人キッチンに立つ静の背中が優しく見える。


「一人分でいいっすよ……」

「わかってるよ、いつもの茶碗に一杯でいいだろう」


 鍋の中身が一人分、というのは伝わっただろうか。

 だがもう、それすらどうでも良くなるぐらいにはだるかった。瞼も重い。


 寝てしまおうか。そう思った矢先、ガシャンという大きな音がしたので飛び起きた。案の定、静が倒れていた。

 幸い、鍋の火はすでに消えていたし、お玉が転がっていた程度で彼も火傷をしている様子はなかった。

 食卓には椀に盛った粥が置かれていた。洸太を呼ぶ直前で意識を失ったのだろう。

 今度は洸太が静を布団に運んでやった。力が入らないので引きずるような形になった。


 息を整えてから、食卓につく。

 粥は少し薄味だが出汁がよく効いていて、卵入りで滋味深い。洸太の家は粥といえば塩味で、出汁も卵も入っていなかった。こういうところにその家の特色が出るのだろう。


 茶碗一杯分を平らげ、再び布団に戻る。

 外の雨は、相変わらずこの家に暗い影を落とし続けている。

 静の隣で、洸太もまた目を閉じた。


 だが、体中が痛むせいで、寝付けない。

 少しずつ体温は上がり、悪寒と痛みが背中を疼かせる。脈打つたびに、こめかみが痛んだ。

 息が苦しくて目を開ける。静は涼しい顔で眠り続けていた。

 洸太は彼の手を握り、自分の頬に当てた。

 ひんやりとして気持ちが良かった。


「……先輩、」


 静はぴくりともしない。死と同じくらい深い眠りについている。

 穏やかなその寝顔を見ながら、洸太は無性に目の奥が熱くなるのを感じた。

 窓を伝う雨のように、涙はとめどなく流れ続けた。

 頬に当てた静の指をそっと濡らしていく。


 涙を枯らすより先に、洸太に眠りが訪れた。



 目を覚ますとすでに外は暗く、家の外は雨音に満ちていた。

 携帯を見る。午前三時だ。

 半日以上眠っていたらしい。そのせいか、意識がうすらぼんやりとしている。

 洸太の隣の布団で、静は死んだように眠っている。気がつくと、食卓の上は整理され、茶碗はもとに戻してあった。

 一人で起きた彼が、片付けたのだろう。


――ゴォン、

 不意に雨音を割って、奥から山の泣き声が聞こえた。

 随分近い。山から鳴っているのかもしれないが、自分の頭の中で鳴っているのかもしれなかった。

 泣き声は次第に、連続して響くようになる。

――ゴォン、ゴォン、……

 山が近付いてくるような気がした。頭の中が、その音で満たされていく。

 泣き声で曖昧になっていく意識の中、洸太は居間に幻覚のようなものを見た。


 食卓の向こうに、死んだ祖母が立っている。


――洸太ちゃん、


 暗くて顔はよく見えない。いや、顔だけでなく、腕も足も真っ黒で、ほとんど闇に同化していた。

 着ていた薄桃色の花柄の服だけが、やけに明るく見える。


――洸太ちゃん、ようけ寝たねぇ、疲れとったの?


「ばあさん、」

 祖母はニッカリと笑った。真っ黒な顔の中で、歯だけが白く浮き上がった。


――その人は一緒になってくれはしないよ。もうあきらめて、おいでなさいな。


 洸太が布団から出ると祖母は消え、そこにはガランとした食卓と、粥の入ったままの鍋が残されていた。

 隣で眠る静のほかは、誰もいない。

 時計を確認する。まだ、四時だ。

 朝が永遠に来ないような気がした。

 雨音は次第に強く、太くなっていく。

――ゴォン。

 山は泣き止まない。


 意識が酷く混濁していく。

 水底から湧き上がるような低い金属音で、山は鳴る。

 次第に、身体が、どこか深い水の中に落ちていく感覚で満たされていく。

 溶ける。

 このまま意識も、体も溶けてしまえばいいと思った。

 そうよ、溶けるのよ、という祖母の声がする。

 紐のちぎれた風船のように、意識が飛ぶ、その瞬間、


「洸太、」


 静の声が聞こえた気がした。


「お前は俺のかわりにはならない。それは笠寺の役目だ」


 洸太は目をぱちりと開けた。

 朝になっていた。


「先輩、」

 呼びかけたが、返事はない。


 隣に眠っていたはずの静の姿がなかった。

 居間にも、風呂にも、どこにもいない。

 玄関にあったはずの彼の靴さえない。

 静はこの家から消えた。


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