断章 空想の獣

 「……………」

 今日も今日とてエディルは本を読んでいる。

 ヴィゾフニルとの闘いで追った両手の傷は数日で完全に癒えた。

 治している最中は本を読むことすらできず、包帯の締め付けもあってそれはもう痛かったが、今はもう痛みを感じないレベルで完治している。

 こんなに傷の治りが速いとは自分でも予想外だ。

 リヒトの魔術が効いたのだろうか?



 今彼がいるのはアスガルド王国北エリアの図書館である。

 本好きにはもってこいの場所で、ありとあらゆる書物を内包している。

 やはり本を読むのはこういった静かな場所が一番だ。

 もし、読書の邪魔をする者がいるのなら、館内で働いている司書以外はもれなく数日間は恨むだろう。


「おっ、エディルじゃねーか、相変わらずここにたむろしてるのか」


 そんなことを言っていたら、早速聞き覚えのある声が読書の邪魔をしてきた。

 土の騎士のフィヨルンだった。

 ガタイの良さは言わずもがなだが、その低い声は少し威圧感を感じさせる。

 そんな雰囲気が静かな図書館とミスマッチしていてとても違和感がある。

「フィヨルンさん、『たむろする』は大勢の人が集まっていることを示す言葉で、一人でじっとしているという意味ではありませんよ」

「あ、そうだっけか。すまん、俺あんまり勉強とかできなくてよ…」

「ただ、図書館で静かに話しかけてきたのは良い心がけだと思います」

「………なんか、怒ってる?」

「静かにしているとはいえ、読書中に話しかけられたので少し不機嫌です」

「お、おう…すまんな。知人を見かけてつい嬉しくなってよ」

 申し訳ないと思ってのことか、土の騎士の大きな体が縮こまる、全然小さくなっていないが。


「フィヨルンさんはここに何の用があってきたんですか?本を読んでいるところなんて今まで見かけませんでしたけど」

 邪魔されたとはいえ、険悪な雰囲気にはしたくないので話題を変える。

 表情は変わらないが、声のトーンは少し明るい方向へ変えたつもりだ。

「ああ、それがな……子どもたちのリクエストで読みたい本を借りてこいってお達しがあってな」

 どうやら、彼は託児所に預けられている子どもたちのために、子どもが喜びそうな本を借りにきたらしい。

「差し詰め、カリンさんの指示ですかね」

「ああ……ただ、俺は子どもと触れ合うことがなかなかないからな、ちょっと困ってたんだが」

 何となく彼の言いたいことが読めた。

「僕に探すのを手伝え、ということですね」

「そういうこった」

 妙にエディルを見つけて嬉しそうにしていたのはそのためだった。

「……いいですよ。ただ、僕以外にいなかったんですか?フィヨルンさんは人望が厚いように思えますが」

「ちょうど仲のいい奴ら全員用事があって俺一人だったのよ。だから頼む、一生のお願い!」

「本を探すくらいで一生のお願いなんて使わないでください。あとさっき“いい”って言ったじゃないですか」

「ありがてぇ、頼むわ!」

 フィヨルンが感謝を述べた直後、二人の背後から咳き込みが聞こえて来た。

「「?」」

 振り返ると後ろには、図書館の司書をしている女性がいた。

 何を言いたいかは明白だ。

「……騎士のお二人、もう少し声を抑えていただきますか?」

 図書館の秩序を乱すものは決して許さないと言わんばかりの静かな、されど重々しい声圧で二人を注意する。

「「……すみません」」

 いつの間にか声が大きくなってしまっていたようだ。

 出て行ってくださいと言われなかっただけましと思っておこう。




「ざっとこんなもんかな」

 二人はとりあえず、子どもが好きそうな本を片っ端から寄せ集めてテーブルの上にドンと置いた。

 ざっと管内にある本棚を見て回り、子どもたちが興味を持ちそうな本をごっそりと集めたので、一気に持つと大人でも膝を曲げざるを得ないほどの重量だ。

 今現在彼らがいるのは館内の談話室であり、ここでならはっきりと会話ができる。

 子どもが全員本を読むわけでもないので、20冊ほど集めれば十分だろう。

 部屋の中にいくつか設置されているテーブルへ集めた本を置き、椅子に腰かけ、二人は集めた本の内容を確認する作業に移る。

 といっても、細かいところまで見ていたらきりがないので若干目を通すだけにしておこう。

 そもそもこの量の本を二人で持ち帰れるだろうか。


「う~ん……これなんてどうだ、『昆虫大辞典』とか」

「虫は好みが分かれると思いますが、まあ男の子なら大丈夫でしょう」

「だな、これも追加だ」

 これは良いと思った本と、子どもには難しいもしくは残酷だと思った本とで仕分けていく。

 トラウマ物の内容が混じっていたら大変だが、なるべくそんなことが起きないように時間としては早く、それでいて鋭く内容を吟味する。

「………なあ、思ったんだが」

「なんでしょう」

「別に内容まで確かめる必要はないんじゃないか」

 ここにきてフィヨルンが今までの作業を溝に捨てるような発言をする。

「え、今更何言ってるんですか」

「だってよ、本って言うのは読んだ人間がどう思うかが重要であって、内容がどうこうとかで“あれはダメ”とか“これは良い”なんて勝手に決めていいのかって思ってさ」

 勉強ができないと自称している割には確信めいたことを言う。

「………そうですね、僕たちの勝手な判断で子どもたちの読む本を決めてしまうなんてそれこそ思想統制と何ら変わらない。………ただ、子どもたちが読んでくれそうな本であることも重要。そうなると、ジャンルを絞ったうえで尚且つバラエティに富んだ内容の本がいいでしょうね」

「そうだな……子どもに人気がある本といえば……」

 そうして二人は選び直し、あるジャンルの本を寄せ集めた。


 それは、“物語”に関する本だった。


「これでどうだ」

「はい、これだけあれば十分でしょう」

 予定通り、20冊ほどの物語の本を集められた。

 といっても、図書館である以上同じジャンルの本は場所や棚できっちり区分けされているはずなので、収集作業自体はそこまで時間がかかったわけではない。

「しかし、子どもたちはどんな本を読んでるのかが大人の俺たちにはわからねぇな」

 年を取ると、最近の子どもたちの流行が分からなくなってしまうのが大人としての難点だ。

 まあ、二人とも20代なので世間でいえばまだまだ若い方だが。

「そのあたりも含めて様々な種類の物語を用意したんですから。きっと子どもたちも読んでくれますよ」

「……だな」

 そう言いつつ、フィヨルンはおもむろに一冊の本を手に取る。

「……どうかしましたか?」

「いや、さっきお前が察した通り、俺は本を読んだことがほとんどないからな。この機会に少し読んでみようと思ってな」

「そうですね。僕も内容が気になるものがいくつかあったので、ちょっと読んでみます」

 そうして、大の大人二人は席に着き、目の前に積まれた空想の世界に浸り始めた。




「あの二人、きちんと選んでるかしら……」

「大丈夫じゃねぇか?フィヨルンはともかく、エディルがいるんだし」

「…そうね、大丈夫よねきっと」

 館内に四騎士の女性陣二人が入ってくる。

 カウンターで仕事をしている司書に挨拶をし、きょろきょろと二人を探すフレイアとカリン。

「あ、あれじゃねぇか。ほら談話室にいる」

 フレイアが指をさす方を見ると、それらしい人物が二人椅子に腰かけて本を読んでいる。

 子どもたちに読ませてもよさそうな本を選別しているのだろうか?

「そうね、本が積まれてあるけどしっかり選んでくれているのかしら」

 周りの迷惑にならないよう静かに会話をしながら部屋に向かう。

 部屋に入った途端、フレイアが二人に話しかける。

 ……が。

「よっ、ちゃんと選んでるみたいだ……な……」

「あらあら……これって……」

 男性陣は椅子に腰かけ、すっかり物語に夢中になっている。

 椅子に糊付けされているかのように動く気配が全くない。


「フィヨルン、お前って本とか読む性格だっけ?」

「いや、全然」

「じゃあなんで読んでんだ?」

「……ちょっと、気になってな」


「エディル君は相変わらずね」

「どうも」

「……話しかけない方がいい?」

「……できれば」


 二人とも物語に集中しすぎて単純な言葉しか返してこない。

 子どもに読ませてもよいものを選んでほしいと言いはしたが、大の大人がそんなに引き付けられるものがあるのか…。

「二人とも何読んでんのか教えてくれよ」

 とりあえずどんな物語なのか、その内容を聞かなければ。

「僕が読んでるのは、コレ」

 エディルは治ったばかりの指を栞代わりにしてフレイアに表紙を見せる。

「……『魔獣がいる世界』?」

「そう、この本は様々な物語が短編として書かれている、所謂オムニバス形式だ。今僕が呼んでいるのは、人々から嫌われている魔獣と、そんな彼を憐れむ子どもの物語だよ」

 さすがの文章構成力で簡潔にまとめてくれた。

「へぇ~、結構面白そう」

「そこまで言うなら君も読んでみるといい」

 そう言ってエディルはフレイアの手を引き寄せ、彼女の掌にさっきまで読んでいた『魔獣がいる世界』を乗せる。

 指の栞は挟んだままだ。

「ヘッ///!?……あっ///……わかった、後で、ね///」

 いきなり手に触れられたことで顔を赤らめるフレイア。

 とりあえず、今の心理状態では物語に集中できないので後回しにしよう。


「フィヨルンさんは何を読んでるの?」

「俺が読んでるのは、物語の登場人物が現実に出てくるっていう話だな」

「そんな話もあるのね…」

「俺はそこまで物語に詳しくないから、どういう意図で作られた話なのか分からないがな…」

「意図…ね」

 カリンは何かが引っ掛かっている様子だ。

「なんか思うところがあるのか?」


「うん……“なんで人は物語を生み出すんだろう”って思って」


「確かにカリンさんの言う通りかもしれませんね」

 エディルがカリンの疑問点を肯定する。

「物語を生み出すという行為は生きる上で何の役にも立たないものであることは、大人である僕たちもわかっているはず。なのにこうして、現実にありもしない空想に思いを馳せる。……それはいったい何故なのでしょうか?」

「「「…………」」」

 この場にいる四人全員が、何の解答も出せないでいた。

 意味のない物語を生み出す理由を解き明かすのは、人間にとって永遠の課題と言えるかもしれない。

 それでも、その理由を考えることは決して無意味ではないはずだ。

「……ちょっと、本棚を探ってみます」

 急に席を立つエディル。

「え、どこ行くの?」

「文献なりなんなり、いろいろと探してきます。……僕、知りたいという欲は人一倍ありますので」

 カリンの質問に答えた後、エディルはいったん談話室を出て本を探しに館内を回り始めた。



 しばらくして、エディルはごっそりと書物を携えて来た。

 ……ただ、どの本も“あるもの”に関連しているものだった。

「お~、これまたごっそり持ってきて……なんか気になるものでもあったのか?」

「ええ、どうにも『魔獣』というものが気になってしまって……」

『魔獣』と言えば、リヒトと敵対している何者かが送り込んでくる尖兵だが、引っかかるものがあったのだろう、エディルは夢中で本を漁り始めた。

 その目は真剣そのものだ。

「それで『魔獣』がどうかしたのか?物語に関係があるとは思えないが…」

 フィヨルンがエディルに質問する。

「いえ、そんなことはありません。我々は現実に存在する動物で物語を作ることもあるでしょう」

「そうね、子どもたちも物語の動物に感情移入することも多いし……でも、それと魔獣にどんな関係が……」

「動物を主体にした話が作られる理由はまだわかるのです、だって動物は“現実に存在するから”。……けれど、『魔獣』は本来フィクションであり、“現実には存在しない”もののはずです。しかし、そんな虚構の中の存在を描く物語は数知れない。ここに、人間が物語を描くルーツがあるかもしれないと思うのです」

 現実に存在する動物を主軸にした物語でも、実際に動物がしゃべるわけではない。

 物語は必ず、描いた人間の頭の中で出来上がったフィクションの要素が存在するはずだ。

 だからこそ、思いきってフィクションに振り切った方向性の作品を読み解いていけば人間が物語を描き続ける理由が分かるかもしれないと、エディルは踏んだのである。


 ぱらぱらと様々な書物のページを行ったり来たりしているエディル。

「待てよ、そうなるとリヒトは現実に存在しないはずのものと戦ってることになるぞ。俺たちだってそうだ、これはどういうことなんだ?」

「………分かりません。ただ、そこには何かしらの意味があるはずです、きっと。それが何なのかを探しましょう」

「確かにそうね……よし、私も手伝うわ」

 他の三人も書物を読み、自分たちの疑問を解消する答えを探し始めた。

 答えそのものが見つからなくてもいい、今はただ、自分たちの中に生まれた疑問点に付け足せるような何かが欲しい。


「物語という概念が人間に何をもたらすのか」


 そう思いながらページをめくる作業を続ける。





 四人が図書館に集結してから数時間が経った後。

 様々なジャンルの本を持ってきては、内容を閲覧してきた。


 ―――――そして、一つの項目がエディルの目に入った。


「これは……」

「なんか見つけたのか?」

 聞いてくるフィヨルンの声に対し、エディルはピンときたページを三人に向けて見せる。


 そこには、『空想の獣』という項目があった。


「『空想の獣』?なんだそりゃ?」

「ここには魔獣のことについても記載があった。……まさかここにたどり着くまでに魔獣が何なのかについて触れている本が一冊もないのは驚きだったが…」

 魔獣が描かれている本は多数あるものの、その存在意義について書かれている本は全くと言っていいほどなかった。



 この『無意味な物語を夢想する者たちへ』というタイトルの本が初めてだ。



「とにかく、その項目を読んでくれ」

「ああ」

 フレイアに促され、エディルははっきり聞こえるように音読を始める。


「『空想の獣』とは、人間が古代から生み出してきた、動物ではなく現実にも存在しないモノたちのことである。この本はフィクションを扱う書籍であるため便宜上項目ではそう呼んでいるが、『空想の獣』は様々な呼び名がある。怪物、魔獣、神獣など呼び方は多岐にわたるが、著者本人が気に入っているため、以降『空想の獣』を“怪獣”と呼称しよう。

 “怪獣”というモノがいつから人々の生活に現れ始めたのかはいまだ不明であるが、少なくとも人類が文明を築くようになった時には既に存在していたのは確認済みである。“怪獣”は様々な事象や概念の擬獣化であり、自然現象はもちろん人間とは異なる特徴を持った生物も形を変えられて“怪獣”なる存在へと昇華されることがある。それはある意味で、人間が持つ『世界に対する疑問や解釈』を如実に表しており、人々は自分たちには理解できない何かを理解できるようにしたいがために、それらを目に見える形として表そうとした。それこそが“怪獣”なのではないかと私は考えている。

 また、“怪獣”も創作物である以上必ず『物語』を内包しており、創り出した人々は何を思って“怪獣”を創造したのか、そんな彼らが抱えたストーリーを読み解くことこそ、人々の恐怖の対象である“怪獣”に対して人間が導くことのできる唯一の共存方法なのではないかと思う」


「「「「…………」」」」

 四人はしばらく黙って考えた。

『空想の獣』の概要だけでもこれだけの記載があるのに、その説明部分はこの本の10ページにも満たない。

 まさか、物語というものに込められた意味がここまで肥大化しているとは思ってもみなかったのである。

 すると、沈黙を破るように四騎士はそれぞれの意見を吐露していく。

「“怪獣”…ね。なんか妙な響きの名前だな。なんつーか、心に響く呼び名っつーか…」

「人間が理解不能なモノを形にしようとした結果が“怪獣”……それって、怪獣は人間が生み出したってことなのかしら……」

「よくわからないな…。文明だの概念だの物語だの、考えてるだけで頭が混乱してくる。カリンの説明通り、怪獣は俺たち人間の『想像力』から生まれたってことなのか?」

「恐らく、そういうことでしょう。リヒトが戦っているあの魔獣も人間の頭の中、つまり想像から生まれた産物なのでしょう。………ですが」

「やっぱり、何か引っかかるよな」

 フィヨルンの言葉に、他の三人も頷きで同意する。

「ええ、問題は意義です。理解できないモノを目に見える形で表そうとしたことは良い。……ですが、その意義がいまだに分からない。なぜ怪獣を生み出すことがそこまで重要なのか、それが分からないことには、まだこの調査を続けるしかないでしょう」


 とりあえず、今日はここまでにしておこう。

 これ以上の調べると日が暮れてしまう。

 四人は調査に使った本を元に戻しに行き、子どもたちのために選んだ本を借りて、図書館を後にした。


「物語……怪獣……」

 外に出た後も、エディルはしばらくぶつぶつ呟いていた。

 物語は、現状人間という生物だけが作るものであり、それは怪獣も同じだろう。

 だが、人間がそれらを想像する意義はどこにあるのか?

 遺伝子に刻まれた特性か。

 それとも進化の過程で得たバグなのか。

 

 あるいは……リヒトのように、人間は何らかの使命を抱えていて、そこから出力された行動が物語という概念になっているのか。

 

考えれば考えるほど分からなくなってくる。

 だが、この「分からない」という感性がなんとも心地が良いとエディルは感じる。

 おかしいように思えるかもしれないが、「知りたい」という欲が強い彼にとって、解き明かさなければならない謎というものは自分の存在価値を証明してくれる何よりも重要なものだ。

 自分は謎というものについて考えているだけで生きていると感じる。

 謎が解けるか解けないかはこの際どうでもいい。

 重要なのは「考えること」そのものなのだから。

 故に、エディルは少し嬉しくなってしまう。

 ただ、考えすぎも脳に負担をかけすぎてよくないとは思うので、適度に休憩を与えよう。

 

 そうして彼は、何にも考えずに黄昏に染まる空を眺める。

 考えずに、は少し語弊があるか。

 人間は、生きている間何かしら「考えている」から。

 ここは、別のことを考えるのが気分転換の良い方法だろう。

 ポツポツと彼方遠くから星たちが挨拶代わりに自分の体を光らせて始めている。

 まるで詩人にでもなったような気分だ。


 きっと、同じ空の下で同じ星々の極小の光を浴びながら、物語と向き合っている人間が自分以外にもいるのだろう、とエディルは世界に比べてちっぽけな自分を軸にして考える。

「何考えてんだ、エディル」

 フィヨルンが話しかけてくる。

「あ、いえ……ちょっと、星がきれいだなって」

「案外ロマンチストなんだな、お前」

 ……そうかもしれない。


 人間は皆、自分が気づいていないだけで、美しく世界を見る時があるのかも、と一人の青年は思いに耽る。

 身を焦がすような夕焼けに、体を染められながら。







 物語とは、つまるところ人生だ。

 幸福な人生を欲しがり、不幸な人生を良しとしない。

 人間は皆そうだ、そう思っている。

 自分の身に不幸なんて降りかかってほしくない、幸福なことしか訪れない生活がしたい。

 神にもすがる思いで不幸を否定するのが人間の在り方だ。

 いつでも、何処でも、誰でも、それは同じだ。


 だが、一つだけはき違えているところがある。

 不幸に対するけたたましい拒絶感だ。



 不幸なんてなければいい。

 不幸なんて無意味だ。

 不幸には何の価値もない。



 本当にそうだろうか。


誕生はじまりから臨終おわりまで全てが幸福だった」


 そんな人間の人生にしか意味がないのなら、それはつまり全ての人間の人生は無意味だということになる。

 人間は生まれてから死ぬまでに必ず不幸を体験するからだ。

 不幸なことばかり起こった人生、最期は悲惨な結末を迎えた人間の命とその道程は、「不幸だったから」「終わってしまったから」といって無意味になるだろうか。


 否、絶対にない。


 どんな波乱万丈の人生を歩むことになったとしても、一度でも生まれてきた人間の命には、必ず意味がある。

 本人がどれほど自分の命を不幸だ、無意味だなどと罵ったとしても、この世に生まれてきた時点でその人間は意味を持ってしまうし、死んだ後もその意味が形を変えながらもどこかに残り続けてしまう。

 喜ぶべきか、残念がるべきか、全ての人間の人生は無意味にはならないのだ。


 ただそこには、“いつか死ぬ人が生まれてきた”という事実がある。

 その事実の最初せい最後、そして過程あゆみこそが我々の知る『人生』というものである。

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