7.3


 美術室には電気がついていなかった。

 開いていた教室の扉から、そっと中を覗う。机も椅子も隅に寄せられ、広場となった部屋は赤紫の夕日で満ちていた。イーゼルに載せられた絵がいくつも並んでいる。窓は開け放たれ、カーテンが柔らかく広がる。その中でひとり、窓の向こうを見つめて佇む炉火の姿を見た。


「炉火、」


 彼はその声でようやく俺に気がついたようだった。ハッとして振り返ると、俺の顔を見た瞬間、落胆するような顔をした。

「閉会式、行かないのか、」

 彼はわずかに頷いてみせた。それから、ゆっくりと教室の中心を指差す。そこには、手足の生えた花木のようなものが置かれ、薄陽に影を落としていた。


 よく見ると、それは造花の集合体だった。背の高い骨組みに、無数の造花がびっしりとくくりつけられているのだ。目の覚めるような黄色い小花に、青葉の組み合わせだった。動物とも植物ともつかない不思議なオブジェだ。

 造花に包まれているのは下部だけで、上部はまだ骨組みがむき出しになっている。手前には脚立。その足元に、大量の造花が無造作に散らばっている。明らかに、作業中だった。


「途中までしか、作れなかった、」

 炉火の顔が、暮れゆく陽の薄明かりに照らされた。

「今日、ここでずっと作ってたのか」

「いや……、昼過ぎぐらいに諦めた。もう作れないと思って」


 窓の外から、閉会式のアナウンスが聞こえた。炉火は観念したように窓の向こうを見た。俺もその隣に立つ。

「俺、瑞希に言ったんだ。これからも続けるつもりがあるなら、花火までに美術室に来てくれって、」

 炉火の言葉を遮るようにして、強烈なハウリング音が何回か響いた。ややあって生徒会長の挨拶が始まる。感動的な内容だろうとは思うが、距離のせいもあり内容はぼんやりとしかわからない。だが、「点火用意」の言葉だけははっきりと聞こえた。


「来なかったな、」


 窓の外が明るく輝き、遠くから歓声が上がった。驟雨にも似た火薬の音があたりに広がり、白い煙が上がる。その花火を近くから遠くから、様々な場所で生徒たちが見守っていた。花火の光に照らされて、彼らのその夢を見るような表情が浮かび上がる。

 隣に立つ炉火を見た。彼は花火の方を見てはいたが、本当はもっと別のものを見ているような気がした。それは花火でも、瑞希でも、また完成するはずだった作品でもなく、ここに存在すらしない、彼が掴みそこねた何かだった。

 俺は急に、花火を見るすべての生徒たちに罵声を浴びせたくなった。その声が出そうになるのをぐっと抑え込み、口をつぐんだままその花火が終わるのを待った。やがて滝のような火花が消え、その瞬間夜の帳が下りた。


「拓海、ライター、」

 炉火は〈持ってるか〉ではなく〈貸してくれ〉と言った。そう尋ねられたのは初めてだった。俺は言葉にしがたい予感を感じた。渋る俺のズボンのポケットに、炉火が手を突っ込む。それから器用にライターを取りだした。

「何するつもりだ、」

 作品の前に歩みを進める。

「……別に。少し一人にしてくれよ、」

 冷たい響きだった。俺はその向こう側に炎の気配を感じた。

「出てけ、って言ってるんだよ、」

 強い語調でそう言われ、俺は戸惑いながらゆっくりと教室の扉に向かった。


 廊下を数歩進んだところで、歩みを止める。

 彼は火を付けるだろう。

 初めて出会ったあの日、自分の作品を踏みつけていたようにして、自分で自分を壊すのだろう。

――お前とのことは、なかったことにしたんだ。


 痛い。


 俺はそれ以上歩くことができなかった。暗い廊下に座り込み、壁にもたれ、両手で顔を覆う。どんな顔をしているのか知らないが、ひどい顔だと思う。彼に見捨てられた痛みで、自分は彼に何もしてやれないという痛みで、俺はもうどこにも行けなくなった。遠くで、閉会式を終えた生徒たちの足音が聞こえた。

 柔らかな談笑。

 ふざけ合う声。

 帰路につこうとする彼らのあらゆる気配を遮って、非常ベルの音が耳をつんざいた。俺は顔を上げた。


 炉火だということは分かりきっていた。

 彼が燃やしているのだ。何もかも。

 美術室すら、彼自身すら、燃やしてしまうつもりなのかもしれない。彼ならそうする。

「一人にしてくれ。」

 そう、彼は一人にしてほしい、はずだった。

 だがもし、それが、虚勢なのだとしたら。


 脳裏に、俺を見つめる彼の顔が浮かぶ。

 裏山で。民宿で。菜の花畑で。


 気づくと俺は立ち上がり、美術室に向かっていた。

 彼はいつも、射すくめるような鋭い目で俺を見つめていた。その裏で、密かに助けを求めていたのだ。今になって、ようやくそれに気がついた。



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