2


「……あの、」

 近づいて肩に触れると、男はゆらりと振り向いた。

 その瞬間、僕はとっさに手を引っ込めた。


 やはり、知っている顔だった。


 僕のコンビニの常連客で、トラックドライバーの男。

 常連と言っても特に交流があるわけではなく、もちろん名前も知らない。


 ただ、僕は密かにこの男のことを気に入っていた。


 ここで働きだして、初めてタバコを売ったのがこの男だった。

 当時の僕はあまりにもタバコに不慣れで、彼に指示された一箱がどこにあるのかさっぱりわからず、広大なタバコ棚の前で固まってしまった。すると憐れに思ったのか、男も後ろから『三段目』とか『もうちょい左』とか指図をしはじめた。僕は言われるままにあちこち動いた。それはちょっとした共同作業のようだった。

 ようやく探し当てた〈ラッキーストライク〉を渡すと、彼は嬉しそうに『やったじゃん』と言った。それ以来、僕は一方的にこの男に親近感を抱いている。


 だが、それだけだった。彼とは半年たった今も、ただの店員と客に過ぎなかった。

 だいたい、歳も一回りは違いそうだ。僕たちに店以外の接点はない。おそらくこの先ずっとそうだと思っていた。それなのに。


「……、」

 この冷えた夜にありながら、彼の額は少し汗ばみ、頬は上気している。あからさまに事後だ。と、突然、

「……お前、」

 と呼んだ。思わずビクッとする。

「さっき蹴ったな、扉」

 彼は貸してもいない僕の手を勝手に握って、ゆっくりと立ち上がり、縮みあがる僕に向かって、

「助かった」

 と小さく言った。――助かった?


「若いってやべーな」

 壁にもたれかかると、男がひとりごちる。

「底なしだったわ。俺は軽く済ますつもりだったのに、あの男、何回も要求しやがって。死にそー。絶対アカウント覚えとくからな……」

 思いのほか生々しい独白に、僕は少し引いた。それより何より、この男は相手のことを『男』と言ったのが僕には信じられなかった。

 男同士。

 そういうのに遭遇したのは、今夜が初めてだった。

 僕はなぜかひどく胸が騒いでいた。恐らくは見たことのないものを見たという、ただの下世話な好奇心からである。そんな好奇心は失礼以外の何物でもないし、そう思った自分はなんて道徳心に欠けるのか。左手首が疼くのを感じる。


「今何時?」

 唐突に聞いてくる彼に、僕は店を出た時刻を思い出す。

「さぁ……24時ぐらいじゃないですか?」

「やべっ仕事遅れる」

 信じられない発言その二である。この男、仕事中らしい。

「……仕事中に何やってんですか……、」

「お、説教か?いいじゃん。スリルだよ、スリル。楽しいぜ?こーゆーお遊びもさ。このアプリ、けっこー釣れるんだよな」

「……はぁ。なんか、低モラルですね……。しかも多機能トイレって……、」

「そう?10分で終わらす約束だったし、余裕だと思ってたけど」

 そういう問題ではないし、できればそんな話は聞きたくなかった。


 すっかり呆れる僕に対して、彼に悪びれる様子は一切ない。仕事中にそういう遊びをすることも、こういう場所ですることも、全く気にしていないようだ。まあ僕もさっき、仕事中に手首を切ったところなのだが。――そういう意味では、僕たちは同レベルなのかもしれない。


「とりあえず助かったよ。名前は?」

「……、黒川」

「名札見りゃわかるよ。下の名前は?」

「……夏生なつお……。」

「へぇー。ありがとな、夏生」

 彼は眩しそうに目をきゅっと細めて笑った。やることは最低なのに、笑顔は変にきれいだった。僕は何故か胸の奥が小さく痛んだ。

「タバコ吸っていい?」

「……喫煙所はあっち、」

「あ、タバコ切れてる」

 仕方なく、二人でコンビニに戻った。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る