春の夜の淵で死にたい

真珠4999

一. みたい

1


 風冷えのひどい夜だった。人影のない〈朧山おぼろやまパーキングエリア〉で僕はひとり、コンビニからゴミ袋を運び出していた。風はマンサクの甘く清い香りがし、同時にどこかかび臭くもあった。


 両手にぶら下げたゴミ袋は3つ。これを、コンビニの反対側にある集積所まで引きずっていかねばならない。

 力むたび、左腕が少し痛む。まだ血は止まっていない。たいした労働でもないのに、体が泥のように重い。



黒川くろかわくん、そういうのはね、適当にやっときゃいいんだよ。なんでそんなに時間かけちゃうわけ?』


 つい十分前、僕は店長から商品の陳列に関するお叱りを受けたばかりだった。

 〈適当に〉というのは僕のいちばん苦手な言葉である。曖昧で、人によって程度が違うし、何より自分自身きっちりとしていないと気がすまないたちだからだ。

 その性格が、傍目から見たらモタモタしていると取られることは僕も知っている。叱られたのだってこれが初めてではない。


『もういいから、ゴミ出し行ってきて、』

 僕は言われたとおりゴミ出しに出た。出る途中、ポケットからカミソリを取り出し、こっそり手首を切った。


 僕はいわゆるリストカットの常習犯だった。こうやって誰かに責められたときや、思考がまとまらないときに、ストレスのはけ口としてその手段を取っている。

 もちろん不道徳だという自覚はあるし、自分でも気持ち悪い癖だと思う。

 だいたいなんで手首なんだ。体を害する行為なら、別に喫煙や飲酒だってよかったはずだ。

 それなのに、未だにこの癖をやめられない。自分の意志の弱さが嫌になる。そうやって自分で自分を責めているうちに、それが引き金になってまた手首を切っている――真面目さゆえの無限ループである。


 辞めよう。

 こんな仕事、精神衛生上よろしくない。


 僕はゴミ袋を持ち直し、今決まってるシフトを消化するのに何日かかるか数えだした。でも辞めてどうするんだ?またニートに戻って、家事手伝いをしながら暮らすのか?

 家は決して裕福ではない。引きこもりがちな僕の存在は、それを抱える家族たちに少なからず経済的な不安を抱かせていた。

 働かなければいけない。

 だからといって、こんな僕にどんな仕事ができるのだろう。



 うだうだ考えているうちに、多機能トイレの前に差し掛かる。

 いわくつきの、トイレ。


 僕は耳をそばだてた。

「……、」

 肌のぶつかり合う音。犬みたいな吐息。うめき声。

――いる。今日もばっちり、いる。


 ここ朧山パーキングエリアは、うどん屋とコンビニ、それに小さな売店とトイレがあるくらいの、とても小さな休憩所だった。そのせいなのか何なのか、ここの多機能トイレは夜、モラルのない若者たちにとって格好の遊び場となっていた。

 つまり、逢引の名所なのだ。

 僕はゴミ出しのたびにこのトイレの前を通るのだが、十中八九は真っ最中であった。

――気持ち悪い。

 他人の情事に出くわすというのは、何度経験しても慣れないものだ。嫌いな食べ物を無理矢理口に突っ込まれるような気分になる。

 ただ、ありがたいことにトイレには扉がある。気持ちの悪い音だけはどうしても聞こえてくるが、視覚的にはただ、トイレの扉がある、それだけなのだ。僕と彼らの世界はその扉で区切られ、交わらない。


 今日もそうだった。

 扉の向こうから聞こえてくる音は、何度聞いても気持ちが悪かった。が、彼らも僕も、繋がりなど一つもない。

 いつも通り、僕は素通りすればよかった。何食わぬ顔で前を通り、ゴミを捨て、店に戻ればそれでよかった、のに。


 今日の僕は、件のお叱りと先行き不透明な将来のせいで、無性にイライラしていた。それでつい、


 ドゴッ


 とそのトイレの戸を蹴った。

 途端、情事の音は消えた。


――やってしまった。


 もし今、中の奴らと出くわしてしまったら、確実にトラブルになる。

 不幸にも僕が着ているのはコンビニの制服だ。その場限りのトラブルならまだしも、勤め先のコンビニにまで被害が波及したら、それこそ身の置き場がない。


 僕は一目散にゴミ集積所に駆け込み、袋を乱暴に放り投げた。必死であたりを見回す。どこか。どこかに隠れる場所はないか。

 そうだ、清掃道具置き場なんか――。

 だがそう考えた瞬間、例のトイレのロックが外れる音がし、僕はもう何もかもが手遅れだということを思い知った。ガラガラと扉が開いた。これ以上、どうすることもできない。


 僕は振り向けなかった。目を閉じることもかなわず、ただ震えながら耳を澄ませた。乱暴そうな靴音がする。きっと男だ。来るな来るな。……お願いだから来ないでください。


 けれどその足音は僕には近づかなかった。だんだんと遠ざかり、やがて車の扉が開閉する音がした。

――助かった、のか?

 ゆっくりと振り向く。

 そこには、僕を狙う人影はなかった。

 代わりに一人、トイレの照明の下で誰かがうずくまっているのが見えた。

 作業着姿の、男だ。明るい色のくしゃくしゃした髪にどこか見覚えがあり、僕はおや、と思った。


 ひょっとすると、あの男は――。


 考えているうちに、男は立ち上がろうとして壁に手をかけ、中腰になった途端、また力なく座り込んでしまった。どうやら相手に置いていかれてしまったようだ。

 僕は少しだけ悩んで、ゴミ集積所をあとにした。



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