蛍火
オニイトマキエイ
【短編】蛍火。
法律が許すなら、今すぐに命を絶ってもいい。
痛みを伴わずに死ねるなら、この場で実行してやってもいい。
9月の暮れ。職場からの帰り道。
今日も俺は、独りそんなことばかり考えていた。
俺の人生が彩られていたのは、間違いなく学生時代までだろう。
当時は周りに友達もいて、そりゃあ勿論ツライこともあったんだろうけど、いま思い返すと良い思い出だ。毎日が色濃くて、とても深みのある日々だった。
モノの良し悪しっていうのは、比較してみないと分からない。
退屈だと感じていた学生時代にさえ戻りたいと思うのは、社会人として踏み出した俺の人生があまりに虚無だから。
そして、この先もきっと灰色の人生を送ることになるだろう。
大学を出てもう5年も経つ。
入社と同時に新しい土地で生活を始めたが、これが良くなかった。
彼女はおろか、友達のひとりもできない。
大人になってからの友人関係なんていうものは、とても脆いモノだ。
必ず金の話が絡んできてウンザリする。
一緒になにも考えずにバカやれるような、そんな関係を築きたいのに。
「あざっした~」
無気力な中年のコンビニ店員から商品を受け取る。
多分あの男も、この先の人生になんの期待も抱いていないだろう。
あの瞳は、そんな瞳だ。
死ぬことを許されていないが故に仕方なく惰性で息をしているだけ。
職場から帰ってきたら22時を回る。
食に対して強いこだわりもない。
俺のバカ舌を肥やすには、コンビニ弁当でも十分だ。
年数を重ねていくうちに、俺は無駄に遠い職場に配属されるようになった。
なんでもその地域の店舗が人手不足で困っているらしい。
上から圧をかけられると俺は断れない。俺は、そういう人間なんだ。
就職活動も、今思うと失敗したんだな。
新卒のカードを切るという重要性を理解していなかった。
こんなことなら、もっと吟味すればよかった。だがもう遅い。
俺は店舗で『サブ』というポジションにいる。
いわゆる2番手で、店長に次ぐスタッフだ。
ただし、役職手当もなければ賞与の査定にも影響しないときた。
一般社員と全く同じでありながら、責任だけが重くのしかかる。
俺のようなお人好しに、ピッタリのポジションじゃないか。
俺はコンビニ弁当の入った茶色いレジ袋を片手に、家の近くの丘を登った。
ここから見る夜景を見るのが好きだ。
別に凝った灯がある訳ではない。夜景に優劣をつけるなら、日本の中でもそんなに上位に食い込むことはないだろう。
それでもこの場所が落ち着くのは、なんだろう?
誰もいないから?いつも俺ひとりだから?
もしかして俺はひとりでいることを望んでいるのかもしれない。
無意識に、ひっそりと骨を埋められる死に場所を探しているのだろう。
「俺が死んでも、誰も悲しまないだろうな。このまま孤独なら、いっそ死んでしまおうか」
そよ風が吹く夜の丘陵に、俺は独りごとを漏らす。
そんな人気の少ないこの丘に、今日は珍しく来訪客が現れた。
「あれ?誰かいるじゃん」
背後からした声は、快活な若い女性の声だった。
暗くてよく見えないが、俺よりひと回りくらい年下の女子高生くらいの少女。
ビクッと背中を震わせた俺は、警戒心を剥き出しで彼女に接する。
「き、君!こんな時間に、なにをしているんだ」
「お兄さんこそ、なにしてんの?あ、晩ご飯食べてたんだ」
「危ないから。お家に帰りなさい」
「帰るお家なんてないよ~。今日はママの彼氏が泊まりに来てるから、家出中。ウチってデキる娘でしょ~?」
「……そうなのか。君も色々と大変みたいだね」
俺は彼女との会話を断ち、また夜景を見ながら箸をせっせと動かす。
そんな俺の横に、彼女はちょこんと座ってきた。なんて人懐っこいんだ。
「この卵焼きちょうだい?昼からなにも食べてないんだぁ」
「別にいいけどだな。見ず知らずのオジサンに声をかけるなんて、俺がもし君に襲い掛かるような悪い人だったら……」
「お兄さんまで説教?あ~聞きたくない聞きたくない」
彼女は卵焼きを咀嚼しながら、両手を耳元に当てて大袈裟に首を振った。
「だって、お兄さんには関係ないんだもん。今日、ウチはここに死にに来てるんだから」
「死ッ……いまなんて!?」
俺は雷に打たれたような衝撃を浴びた。
彼女はあっけらかんと自殺を仄めかすようなことを言ってのけたのだ。
「そう~。生きてても良いことないからね。せっかく死のうと思ったのに、よく分かんないお兄さんがいるから拍子抜けしちゃった」
「君みたいな若い娘が、自殺なんて」
「年齢なんて関係ないでしょう~?なんなら小学生の頃から死にたかったけどね」
彼女はケラケラと笑うが、その瞳は虚ろで儚い。
トンッと背中を押せば、本当に飛び降りていってしまうんじゃないかという危うさが漂っている。彼女もまた、自分の人生に絶望している1人なんだ。
すると唐突に、彼女はとんでもないことを言い始めた。
「今夜、お兄さんの家泊めてよ」
「はぁ!?ダメに決まってるだろ!犯罪だ、犯罪!」
「え~?泊めてくれないなら死ぬけどいいの?本当に死んじゃうよ?」
「ちょっと待ってくれ!確かに俺もカスみたいな人生を送ってはいるが、余生を刑務所で過ごすっていうのはまた話が違……ッ!?」
答えを出せずに戸惑う俺の身体を抱き寄せて、彼女は強引にキスをしてきた。
舌まで潜り込ませようとする勢いだったが、慌てた俺が咄嗟に彼女を突き放したのでその先は未遂に終わる。
「や~い犯罪者!いきなりキスしちゃうなんて、悪いお兄さんだなぁ」
「い、今のは君が!さ、さては俺を嵌めて金でも騙し取ろうってつもりか!」
「もう、心外だなあ。一線超えちゃったんだからもう一緒でしょ?って言いたいの。ほら、ウチのこと泊める気になったでしょ?」
駅から徒歩10分。7畳の1Kで家賃45000円。
特に趣味の無い独身の男性には充分な間取りだった。
俺の部屋に無理やり押しかけて来た少女は、部屋の散らかり具合に顔を歪めた。
「うげぇ、汚~い。お兄さん、なんで掃除しないの……」
「誰かを部屋に上げる予定なんてなかったからな。だから言ったのに、部屋は散らかってるぞって」
「ウチが一緒に片付けてあげる!ほら、ゴミ袋持ってきて」
俺が持ってきた45ℓのゴミ袋に、2人でゴミを詰めまくっていく。
基本はコンビニのレジ袋を縛った小さい塊がいくらか散乱していて、脱ぎ捨てた服や靴下が少々。埃や髪の毛が落ちていることは言うまでもない。
「エロ本とかないの!エロ本とか!あったら容赦なく捨てちゃうよ~!」
「ないない!だいたいこのご時世、紙媒体で見ないだろ」
「お兄さんはAV派?それとも漫画かな?」
「……なんでもいいだろ!」
「よくないよくない!欲を言えばどんなジャンルでシてるのかも気になる~!あぁ、教えてくれないんだったら死んじゃおっかなぁ?飛び降りちゃおっかなぁ?」
軽口を叩く彼女の笑顔は、可愛くて明るくて、とにかく眩しかった。
灯りの下でよく見てみると、お世辞抜きで彼女の顔は整っている。
ただ、溌溂とした太陽のような雰囲気は、表面を纏っているベールに過ぎない。
こんなに可愛くても、本当の彼女は奥深くに底無しの闇を抱えているんだ。
俺に自殺を告白した彼女の目は、本物だ。俺には分かる。
俺なんかとは比べ物にならない程、この世界をとうに見限った、覚悟の決まった目をしていたんだ。
「ウチさぁ、普通の話ができる人が欲しかったんだよね。なんでもいいの。それこそ暑いとか寒いとか、お月見したいなとか、有線で好きな歌手の曲かかってたとか」
「ネットの友達とかは?」
「う~ん、そりゃ何人かはいるけど。会ったこともないし、基本みんな気づいた時にはいなくなってんだよね。追いかける程の情熱もないし、ネットの関係って脆いって割り切ってるから。もっとこう、なんだろうな。安心できる存在が欲しいの」
「まぁ、気持ちは分からんでもない。俺も毎日独りだからさぁ、休みの日なんかひと言も発さない時さえある。寂しくないって言ったら、嘘なんだよな」
「じゃあさ、お互いにそういう存在になったらいいじゃん」
彼女は躊躇する様子もなくあっけらかんと言ってのけた。
確かに孤独な者同士、互いに好都合だ。
その後も彼女は、年相応の好奇心で嬉々として俺の部屋を物色する。
それを俺がやめろやめろと諫めながら、キャッキャと楽しいひと時を過ごした。
「お兄さん、お風呂借りてもいい?いいよね?」
「あのなぁ、少しは俺に警戒心を持った方がいいぞ」
「なんで?だってお兄さんは襲ったりしてこないでしょ?」
「まあ……それはそうなんだけど」
俺は彼女に押し切られてシャワーを貸す羽目になった。
いくら俺が善人顔だからといって、さすがに無防備が過ぎる。
俺だって人の子だ。若い女の子の裸を想像して興奮しない訳がない。
俺は彼女の為にあくまで善人を装わなければいけない。必死に煩悩をかなぐり捨てて、現実から目を背ける。
やがてガチャッと風呂の扉が開くと、タオルをターバンのように髪に巻いた彼女がヒタヒタと足音を立てて歩いてきた。あろうことか、全身素っ裸で。
「おっ!おい!隠せ隠せ!どこにタオル巻いてんだ!」
「あ~!お兄さんいるの忘れてた。見るな!お兄さんの変態!スケベ!」
「不可抗力だろ!……それより」
裸で出てきた衝撃に気を取られて反応が遅れたが、俺は彼女の全身に刻み込まれた痛々しい青痣に目が釘付けになった。線の細い身体に浮かぶ傷は、怪我から生まれたモノでないことは明らかだった。
「その痣……どうしたんだよ」
「これ?ママの彼氏が機嫌悪いとサンドバッグにされるんだよね。顔とか見えるところは一応避けてくれるんだけど、結構痛いんだよね」
そりゃあそうだ。
彼女は笑って語ってこそいるが、お腹の周りなんか真っ青だ。普通じゃない。
俺は段々と怒りが込み上げてきた。名前も知らない少女の家庭の事情に。
「君のお母さんは、守ってくれないのか」
「守ってくれる訳ないじゃ~ん。ウチの存在なんて疎ましくて仕方ないはずなんだからさ」
「酷い母親だ」
「……なにも知らないとそう見えるかもね。でも、ウチはママのこと嫌いじゃないんだ。ウチをここまで育ててくれたのはママだから。だからせめてもの親孝行に、ウチはあの男のサンドバッグになってるの。それで関係が穏便に続くなら」
「君は、その男のことは好きなのか?」
「まさか!ママにだって暴力振るうんだから。だからママにも言ってるんだけどね、次の彼氏はDVしない男にしてねって。そしたらいつもその時は、『次は優しくて真面目な男を選ぶから!』って言うの。でも連れてくるのは決まって同じようなDV男なの、笑っちゃうよね」
少女は俺が用意したスウェットとパーカーに着替えながら、自身の壮絶な境遇を豪快に笑い飛ばす。
俺が恵まれているとは思わないが、若くしてこんな過酷な地獄を生きている娘もいる。俺よりずっとこの娘は世の中に絶望し、命を断とうとしていたことだろう。
「お兄さんみたいな人が、ウチのパパだったらよかったのになぁ」
何気なく呟いたであろう彼女のひと言。
それを聞いた時、なぜだか『この娘を守らなければ』という思いに駆られた。
とはいっても、少女の母親と結婚するなどサラサラない。ただ、雁字搦めに遭っている彼女の駆け込み寺として、居場所をつくるくらいはしてもいい。
「ベッド使っていいぞ。俺は適当にイスとかで寝るし」
「なんでなんで!いつもベッドで寝てるんでしょ?一緒に寝ようよ~」
「一緒にって……君なぁ」
「温もりが欲しいの!そういうことしなければいいだけじゃん」
あくまで保護者としての立場を突き通せ。一線を超えてはいけない。
俺はそう言い聞かせ、既に少女が陣取っていた布団の中に潜り込んだ。
俺は心臓がバクバクして寝付けなかったが、彼女の方は疲労が溜まっていたのか、ものの数分で寝息が聞こえてきた。俺は暗い天井を眺めながら、自分のしている行為の正当性を神に問う。
(この娘の光になれるのなら、もう少し生きてみるのも悪くないか)
――翌朝。
けたたましく音を鳴らして朝を知らせる目覚まし時計。
強制的に起こされた俺は、瞼を擦りながら妙な喪失感を覚えた。
バッと布団を捲り隣を見る。少女の姿はそこになかった。
焦燥した俺は部屋の中をドタドタと走り回るが、この狭い空間。隠れる場所なんて見当たらない。そんな中、俺は机の上に残された手紙に目がとまった。
俺はすぐに手に取り、丸みのある可愛らしい筆跡の文字を追いかける。
『優しいお兄さんへ
昨日は親切にしてくれてありがとう。一緒にいる時間すごく楽しかった。ウチはまた今日からいつもの生活に戻ります。お兄さんのおかげで、もう少しだけ死ぬのは待ってみようかなって思えました。でもまた辛くなったら、あの丘に登りに行くと思います。その時はまた、2人でコンビニ弁当食べようね。お兄さんも、次にウチに会うまでは死なないでいてほしいな。
市井 音子より』
俺はそこで初めて少女の名を知った。
手紙を大切に折り畳んで片付けた俺は、動じながらも仕事の支度を始める。
早く夜にならないか。思うことはそれだけだった。
真っ暗だった俺の心に、仄かにまばゆい光が灯る。
蛍火 オニイトマキエイ @manta_novels
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