15B. 爛れゆく


 あの夜以降、陽一は智浩とは会っていない。会うための合理的な理由がなかった。


 新しい彼女とも、今のところうまく行っている。

 自分にしっくりこない会話も、義務のようにホテルに行くことにも、もう慣れた。慣れればなんてことはなかった。



 昨日、退院した淳が美容室を訪れていた。

「陽一さん、トモと喧嘩したっしょ、」

 相変わらず可愛い顔だった。その顔で、さらっと嫌なことを言ってのける。

 聞けば、淳は智浩と半年会わないことにしたらしい。だから仲裁はしない、と。

 話ぐらい聞いてやったら、そう言い残して、淳は帰っていった。

 だが、陽一にはその勇気が出なかった。


 今さら智浩に会ったとして、それは彼女への裏切り行為のような気がしていた。



 風呂上がり、陽一は彼女に早めに「おやすみ」のメッセージを送った。もちろんまだ寝るわけではない。不思議な儀式だが、これをすると良いと誰かが言っていたので、続けている。


 ベッドの上で仰向けになり、イヤホンをつける。


 推しているK-POPグループの、一番お気に入りのMVを再生する。いつもならこれで元気が出た。

 だが、今日に限ってその魔法はかからなかった。

 何を見ても、気だるい感覚から抜け出せない。


 何かで気を紛らわせたかった。動画の履歴を漁る。いま自分を楽しませてくれる何かがそこにないか。

 しばらくして、淳のバンドの動画に行き当たった。少しだけためらったあと、それを再生した。


 イヤホンから流れるのは、あの夏の日の記憶だ。


 気づくと陽一は、智浩に電話をかけていた。彼は出なかった。まだ夜の十一時、仕事の真っ最中だろう。彼の仕事が終わる頃には、陽一は寝ている。ほら、生活リズムだって合わないじゃないか。何かに言い訳をしながら、部屋の明かりを消す。


 しばらくして、暗闇の中で携帯が鳴った。


『……陽一くん、』

 智浩だった。

「あ、ども……」

 眠いせいで言葉が続かず、気まずい間ができた。


『仕事中だから、長く話せないんだ。その、』

「大した話じゃないっすから。切ります」

 そもそも何故かけたのかすら分からない。

『待って。明日仕事?』

「そっす」

『じゃ、終わったらご飯行かない?』



 翌日、職場にほど近いファミレスで、智浩と夕食をとった。よく考えてみると、彼と外食をするのは初めてだった。

 だから何というわけではない。だが陽一は、やや緊張しながら注文したビーフシチューのオムライスを食べていた。

 智浩の方はすでに食べ終えている。空の皿を前に、頬杖をつきながら陽一を見ていた。相変わらず表情の読めない笑顔だ。


 食べる姿を見られるのは――しかも気まずい関係の相手に見られるのは、どうにも落ち着かなかった。


 最後のひとくちを飲み込んだタイミングで彼が問いかけてきた。


「怒ってる?」


 水を飲みつつ、何と答えればいいのか考えた。本当は食べる前からずっと考えていたのだが、それでも答えは出なかった。一番当たり障りのない返事をする。


「怒ってないっす。」

 彼に対する気持ちの正体はわからなかった。怒りと言われればそうである気もするが、それだけかと言われるとそうでもない。

 電話をかけた理由すら、自分の中でははっきりしなかった。


「そう。よかった。この間、結構踏み込んだこと聞いちゃったから。嫌だったよね、」

「まあ、そうっすけど……」

 グラスの中は氷だけになる。


「……なんでそんなに、僕に構うんすか?」

「陽一くんのことが好きだから。」

「それは……」

 薫を忘れるための言い訳、のはずだ。少なくとも、陽一はそう思っていた。だが、ほんの一瞬、浮ついた気持ちになってしまう。

 彼女に「好き」と言われるのとは、全く違う感覚だった。


「言いたいことはわかるよ。百パーセント陽一くんのことを考えてるって言ったら嘘になる。けど、好きなのは本当だよ。ずっと話していたいし、ふたりきりで出かけたいし」

「……、」

「でも陽一くんが彼女のことを選ぶ気持ちもわかるし、家族の気持ちに報いたいってのもわかる。だから、これ以上は言わないつもり。君の選択を尊重するよ」


 そんなの、丸投げじゃないか。

 だが、少なくとも智浩は、自分の気持ちをこうして陽一に伝えていた。その点において、彼と陽一は違っていた。陽一は、ひた隠すだけだった。彼女にも、智浩にも。


 痛いところを突かれたような気がして、陽一は誤魔化すように追加でミニパフェを頼んだ。


「陽一くんて、」

「……。」

「細いのによく食べるね。どこに消えるの、それ」


 知らない。ただ、甘いものを食べると気持ちは落ち着く。ようやく平常心を取り戻し、店を出て、駅に向かった。

 そのまま解散するつもりでいた。


 だが、思い直してそのまま自分のアパートに呼んだ。


 向かいから冷たい風が吹く。



 部屋の灯りをつけるのはやめた。

 何が、とは言わないまま「いいですか」と聞くと、智浩はあっさり承諾した。

 シャワーを浴びてベッドに上がる。

 シーツに触れた瞬間、彼女の笑顔が脳裏をかすめた。

 ごめん。ごめん。

 

 智浩が、陽一を見下ろす。愛おしそうに顔を撫でながら、いつものあの読めない笑みを浮かべて言った。


「全部俺のせいにしていいよ」


 その瞬間、彼女の影は消えた。


 冷え切ったベッドの上で繋がり合いながら、陽一はすべてを忘れて智浩にすがりついた。

 思考は吐く息の音でかき消されていく。

 そこにはただ純粋な快楽と、先を求める気持ちしかなかった。

 痙攣する体を、智浩が優しく抱きしめる。慈しむような口づけを受ける。

 体の熱は冷めなかった。何度も何度も情を交わしあった。


 やがてふたりとも疲れ果て、深い闇夜に飲み込まれていくとき、彼方に追いやられた意識がようやく戻ってくる。


『うらぎりもの。』


 まどろみの中で陽一は、自分を罵った。



 翌朝、眠る智浩をベッドに残したまま、浴室へ向かった。

 洗面台の前で、鏡に映る自分の姿を見つめる。

 起き抜けの、血の通わないその顔は、まるで死人だった。


――どちらを裏切る?


 鏡の中の自分に問いかける。


――彼女の気持ちか、自分の、気持ちか。


 陽一は身支度を済ませて外に出た。玄関先の陽光に目を細める。冷えた朝の空気は絡まるものが一切なく、単純で真っ直ぐだ。淳のことを思い出す。自分だけが取り残されていくような朝だった。


 これから彼女に会いにいく。


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